「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

安倍総理の平昌五輪欠席は当然 韓国の傲慢無礼

2018-01-11 06:35:30 | 2012・1・1
産経新聞(1月11日付け首都圏版1面トップ記事)によると、安倍晋三総理は来月9日韓国の平昌で開かれる五輪開会式に出席しないようである。当然である。文在寅韓国大統領のここへきての慰安婦問題についての言動は異常である。2015年の日韓合意について改めてわが国に対して”真”の謝罪を求めてきた。

明治の軍歌「元寇」(永井建子作詞作曲)の一節に”傲慢無礼者 正義武断の名で一喝して世に示せ”とある。ネット辞書Weblioによると、傲慢無礼者とは”態度が大きく礼儀正しくない人物を指す。文大統領は10日の記者会見で”日本が心から謝罪し、慰安婦がこれ許さなければ真の解決にならない”と発言しているが、、この日韓合意を無視した発言は傲慢無礼そのものだ。

慰安婦問題は、韓国の史観にたって、これまで百歩も千歩も譲歩してきた。アジアの女性基金でも当時の首相が謝罪文を添えて慰労金を送ったし、2015年の最終的、不可逆的合意で、日本側は慰労金として10億円を拠出した。韓国側はこれを自国で賄いたいから協議したいというのである。そして一方では、国際条約に違反しするソウル日本大使館前の慰安婦像の撤去しないどころか、逆に釜山領事館前などに拡散設置している。

”仏の顏も三度”という故事がある。ネットのコトバンクによると、”いかに温和な仏でも何度も顔をなでられれば怒る。転じてどんなに慈悲深い人でも何度も無法なことをされれば怒る”のは当たり前である。

半世紀前のUAE(アラブ首長国連邦)アブダビ首長国

2018-01-10 05:29:05 | 2012・1・1
社会人二年生の孫(男)が正月休みを最大限利用して昨日UAE(アラブ首長国連邦)の首都アブダビから帰国した。本来なら一昨日帰国の予定だったが、、航空会社のオーバー.ブッキングで席がなく、一日遅れの帰国となった。80老には、とても考えられない綱渡りの旅。若さとは好いものだ。

その僕にも若い時があった。半世紀以上前の昭和37年(1962年)11月、僕は勤めていた新聞社の移動特派員として、アブダビの土を踏んでいる。当時アブダビは英国の保護領「休戦海岸」(Trucial states)を構成する7首長国の一つで、日本では秘境の地とされていた。僕と同行のカメラマンは、もう一つの首長国、ドバイを中心に1週間取材した後、次の目的地、ドーハ(カタール)へ、双発プロペラ旅客機で向かう途中、給油のため立ち寄った。ドバイもアブダビも砂漠の中の飛行場で、砂嵐のため昼間しか離着陸できない時代であった。

アブダビ飛行場は砂漠のなかにあって小さな管制塔の建物があるだけだった。僕らの飛行機が着くと英国の若い外交官が挨拶のためやってきたが、目に涙を浮かべて、こんな秘境の地に流されたと窮状を、見ず知らずの僕らに訴えた。当時のアブダビは1958年に石油が初めて発見されたばかりで、砂漠の中の一集落であった。当時の米国の雑誌「タイム」はアブダビ首長が、ドル紙幣を信頼せず王宮の金庫に硬貨を貯め込んでいる、と報じたほどの”未開”の地だった。

そのアブダビが今や20世紀の奇跡といわれるドバイに迫る発展ぶりである。超高層ビルが林立し、日本人学校まであるほど在留邦人も多い。半世紀前、同僚のカメラマンが撮影した写真集「Dubai 1962」(Motivate出版 2008年)は今やドバイの国宝視されていると聞くが、当時のアブダビは砂漠だけで被写体は何一つなかった。”蒼海変じて桑園となる”以上の変化である。

戦争末期の日本と北朝鮮の牛車と木炭車

2018-01-09 05:58:58 | 2012・1・1
ネットのアジア.プレス、ネットワークの情報いよると、北朝鮮国内の燃料価格が年末から新年にかけて急騰、ガソリン価格は1リットル当たり2600ウオン(約346円)もするという。この影響を受けてか、国内では牛車や木炭車が使用しているらしく、木炭車を修理する写真まで載っている。北朝鮮はここへきて韓国との板門店会談に応じたり、平昌五輪への参加を表明したりしているが、やっと国連安保理決議の制裁の効き目が出始めてきたのだろうか。、

牛車と聞いて想い出すのは戦争末期の昭和20年1月―4月、僕らは東京大田区六郷の軍需工場に動員され、秘密兵器、人間魚雷「回天」のエンジンカバーを製造していていたが、完成すると、部品は牛車に載せられ蒲田駅まで運ばれた。当時、東京の町を走る自動車はバスとトラックだけでそれも木炭車であった。3月、わが家は強制疎開に会い引っ越したが、6キロの道を往復2回、馬車で行き来した。

大東亜戦争の原因の一つはABCD(米英中蘭)4か国による対日禁油包囲網であった。確かに禁輸により、大和魂と竹やりだけでは勝利できないことを体験した。戦争末期、僕らは特攻用飛行機の燃料として松根油造りをさせられたが、原爆には勝てなかった。北朝鮮も自国での石油はなく、大半を中国とロシアに依存している。安保理決議を関係国が完全遵守すれば、大陸間弾道弾を何回も発射できないはずである。

北朝鮮兵士が木炭車の修理をしている写真をみて、”出てこいニミッツ、マッカサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし”と軍歌を歌った時代を想い出した。

67年前、成人式だった時代 朝鮮動乱の記憶

2018-01-08 05:49:54 | 2012・1・1
今日、1月の第一月曜日8日は「成人の日」国民の祝日である。といっても戦前生まれの僕にとっては、やはり「小正月」「元服の日」だとされる15日のほうが「成人の日」にふさわしいのだが。「成人の日」が国民の祝日と制定されたのは戦後23年の祝日法によるものだ。僕は26年に満20歳を迎えているが、式典の記憶はない。亡父の日記には2月の誕生日に親子水いらずで祝賀会を開こうと提案したが。試験中という理由で断られたとある。結局、僕は3月になって親しい友人4人を家に呼び、自分たちだけでパーティを開いている。

昭和26年最大の出来事は9月にサンフランシスコで米国など48か国と間で講和条約が調印されたことだ。当時大学3年生だった僕は国民の一人として戦争が終結した喜びははっきりと記憶がある。もう一つ、4月に連合軍(GHQ)司令長官マッカサー元帥が、トルーマン米大統領から朝鮮動乱をめぐる対応の違いから解任されたことである。何故、解任されたのか、子供などでよく理解出来なかったが、占領の”象徴”だった人物の突然の解任だけに変な衝撃があった。

今、振り返って不思議なのは、前の年の25年6月、朝鮮半島で突発し、福岡県では空襲警報まで出たという「朝鮮動乱」の戦況についての記憶があまりない事である。一時は釜山まで退却した韓国軍が連合軍の仁川上陸で巻き返した程度の記憶はあるが、まだ戦闘が続いていたのに、まったく”対岸の火”であった。戦争を放棄した平和憲法のお蔭と感謝していた。昨年北朝鮮から何度か弾道弾が飛来しJアラ―とが発令された時とは大違いだ。時代は違うが、「成人の日」からの67年前の追憶である。

床屋談義の雰囲気かバリカン理髪の安さか

2018-01-07 06:15:31 | 2012・1・1
暮から正月にかけての閉じこもり生活がたたのっか人工関節の左膝ではない、右膝に痛みを感じてきた。室内を歩いても痛みがある。これで寝たきりになってはと、昨日,老妻の勧めもあり、思い切ってバスに乗り、近所の大型スーパー7階に開店した格安理髪店に出かけてきた。最初は恐る恐る杖をついて歩いていたのだが、不思議と歩いているうちに痛みが治まってきた。

昔がたぎの僕は、前から老妻から格安理髪店を勧められていたが、床屋談義の雰囲気が好きで4100円支払って遠くまで歩いて駅前の理髪店に出かけていたが、昨日初めて脚の関係で格安店を利用した。料金は僅か1080円である。人件費の節約からか、街のラーメン屋さんのような販売機で券を前払いして順番を待つ。シャンプーや髭剃りはなく、バリカンの理髪だけで僅か10分程度ですむ。しかし、もうおしゃれ気のなくなった僕にはこれで十分である。

戦争中坊主刈りであった僕らはバリカンが懐かしい。僕の家にも古いバリカンがあり、母親が刈ってくれたが、時にはトラ刈りで恥ずかしかったことを想い出す。昨日久しぶりでバリカンの音と肌の感触を味わったが、まんざらではなかった。しかし、床屋さんがハサミで整髪しながら”床屋談義”するあの楽しみは味あえない。い。江戸時代から続く、ゆったりとした”床屋談義”の雰囲気がよいのか、それともベルトコンベアー式の格安理髪がよいのか。理髪の出来あいを老妻に聞いたら、格安理髪の方が”すっきり”としていてよいという返事であった。



羽生(将棋)井山(囲碁)に国民栄誉賞 だけど人気の方は?

2018-01-06 06:57:01 | 2012・1・1
将棋で史上初の「永世七冠] 達成した羽生善治棋聖(47)と囲碁で七冠を二回獲得した井山裕太十段(27)に国民栄誉賞が授与された。二人の偉業は史上初めてのこと。諸手をあげて称賛に値するが、将棋も囲碁も昔はもっと庶民の存在だったような気が僕にはするがどうだろうか。

昔の事がよく思えるのは年寄りになった証拠だが、戦前昭和の時代、東京ではどこの家にも紙や安い板で出来た将棋盤や碁盤があった記憶がある。子供たちは雨の日など集まって、「本将棋」をしたり、”詰め将棋””まわり将棋””将棋倒し”などして遊んだものだ。夏休みの家の前の縁台将棋は夏の風物詩であった。駅前の広場には”詰め将棋”の露店が出ていつも、人だかりがしていた。囲碁も同じだ。もののなかった戦時中、動員先の農家で、お年寄りと「本碁」ではなく、五目並べに興じたのが昨日のように思い出される。

昨年、将棋の中学生棋士藤井聡太四段が二十連勝して国民的話題になったのがきっかけで子供たちの間で人気が出てきたようだ。IT時代、子供たちの遊びも多様化してきたが、昔からのこういった囲碁や将棋は頭の訓練になるし、仲間づくりにも役立つ。お二人の国民栄誉賞受賞を機に、囲碁や将棋が昔のようにもっと身近な遊びとなるのを望んでいる。

トランプの精神状態 文寅在の統合失調

2018-01-05 05:25:40 | 2012・1・1
NHK.BSのワールドニュースを見ていたらトランプ大統領の精神状態について補佐官の記者会見で質問が飛び出していた。トランプ大統領が金正恩・北朝鮮労働党委員長の”机の上の核ボタン”発言に対し「俺の方が大きい」とトイートで言い返した件についてである。たしかに子供の喧嘩みたいで、一国の大統領としては精神状態が疑いたくなる。

精神状態といえば、僕からみると、隣の韓国の文在寅大統領も精神分裂の気がるようにみえる。国と国とが最終的かつ不可逆的に締結したした慰安婦問題の合意をいとも簡単に反古にし平気でいる。ネットの辞書によれば精神分裂症(統合失調症)は”思考、知覚、感情、感動など他者と違う持ち主”とあるが、まさに文在寅大統領はこれに当たる。

このトランプ大統領と文在寅大統領が2月、平昌で開かれる冬季五輪中、予定されていた両国の軍事演習を中止した。五輪は平和の祭典であり、歓迎すべきだが、今一つ、なにかマユツバのようにみえてならない。暮から正月にかけて、韓国は板門店での政府間窓口を再開ししようとする動きも出てきた。北朝鮮も平昌五輪に選手団を派遣するらしい。

こういった一連の動きから朝鮮半島に春を待たず、雪解けが来たかに見えるが、他国の人を拉致して数十年も返さず、交渉にも応じない国であり、国際間の合意を簡単に破って”蛙のつら”でいられる国である。”下駄をはくまでわからない”という格言もある。精神状態がおかしくとも、半島の政治家よりトランプを信用せざるを得ない。

「赤紫色したシクラメンのかほり」と紅白の視聴率

2018-01-04 05:51:25 | 2012・1・1
文字通りの寝正月の三が日であった。初詣にも行かず、一歩も外出しなかった。ひたすら、飲み食べ眠り、テレビをつけたり消したりの生活。自分ながら意気地がなくなったものだと実感した。そんな生活の中で、旧臘(きゅうろう)娘一家からプレゼントされた赤紫色したシクラメン(写真)の香りが部屋に漂い、明るくさせてくれた。

シクラメンの花から僕は布施明が歌った「シクラメンのかほり」(1975年)を想い出した。当時、僕は40歳代、この歌を愛唱した世代ではないが、それまでの演歌と違ったメロデイに新鮮さを感じた。確か布施明はこの歌でその年のNHKの紅白歌合戦にも出演した。まだ、子供たちも中高生だったが、転勤先の雪の札幌で一緒に聞いた記憶がある。

今年の紅白歌合戦の視聴率は39.4%(ビデオリサーチ調べ)と、ワースト3位であった。僕は孫の友人が女性コーラスの一員で出るというので、それだけ見たが、早々と寝室に引き込み、イヤホーンでラジオを聞いた。80歳の老人には名前も聞いたこともない出演者ばかり、曲名も知らないものばかりだ。

40年前、布施明の「シクラメンのかほり」の頃の紅白は、僕の記憶では最初から最初までお付合いしたものだ。紅白が終わって家族で年越し蕎麦をたべ、雪道の中、近くの神社へ初詣へ出かけた。シクラメンの花から、元気だった昔の正月を想い出した。

机の上の核ボタン 金正恩の愚

2018-01-03 04:05:48 | 2012・1・1
加齢と共にこれまで自分が生きてきた”こしかた”が”ゆくすえ”よりも何故か愛おしく想い出される。新年の徒然なるままに70年前、昭和23年(1948年)の亡父の日記を読み直してみた。日記帳はまだ戦後の物不足を反映して、粗末なセンカ紙の薄いもので、父は1ページを3日に分けて使用していたが、年頭之辞だけは1ページを使い次のように記している。「迎える1948年は”希望の年”だと新聞では書いている。日本再建のためには講和条約成立が唯一の希望であり、それが我々が救われる唯一の道である」そして、そのあとに、この年の歌の勅題(お題)「春山」として自作の「木枯らしすさびし山も時を得て初日さわけき春めぐりこぬ」を紹介している。

今年のお題は「語」である。父も僕もまったく歌心はなく応募したことはないが、父にならって即席に一歌作ってみた。「戦争のむなしさ、むごさ語り部の減るる今、北の核実験の愚」

北朝鮮の金正恩労働党委員長が新年の国民への演説の中で”核のボタンは私の机上にある”と豪語していた。金正恩は1984年、戦争が終わって40年近く経ってからの生まれである。広島、長崎の原爆の悲惨さを知っているのだろうか。国連安保理が色々と決議する前に、わが国は拉致問題の解決と同時に、金正恩を広島、長崎に招待し、核兵器の恐ろしさを実感させたらどうか。

ジョージ.オーエルが1950年に書いた小説「1984年」では全体主義の愚かさを予言し、その通りになっているのを金正恩はご存知だろうか。

凧(たこ) 独楽(こま) 毬(まり) 追い羽根 戦前の正月追憶

2018-01-02 06:39:54 | 2012・1・1
正月三が日のおせち料理を老夫婦二人だけで祝うようになって数年は経つ。今日も二人だけで、わが家に伝わる100年来の朱塗りの山中漆器の三段重を持ち出し、お屠蘇でお互いの長寿を祝った。今年は暮に、すべて自家製にしたおせちだけに見た目には豪華さはないが、やはり、お雑煮には昔からの味の方があっておりおいしい。

おせち料理の定番といえば、カズノコ、昆布巻き、黒豆、きんとん、伊達巻、お煮しめ、紅白の蒲鉾etc.どれも今流にいうグルメからほど遠いのだが、子供だった頃は、三が日がもっと長く続けばと思ったのを記憶している。多分、戦前の日常からみれば大変なご馳走だったのだろう。

戦前のお正月はすべてに華やかであった。明治大正の子供たちは”あといくつ寝ると”(童謡お正月)と、男の子は凧(たこ)揚げ、独楽(こま)まわし、女の子は毬(まり)つき、追い羽根を夢見たが、僕ら昭和の子供たちも戦争が激しくなる前までは、百人一首、トランプ遊び、カルタ、双六、初笑い、家族合わせ、動物合わせと正月遊びには事かかなかった。

戦前の華やか正月風景がなくなった第一はやはり女性の晴れ着姿である。戦後も昭和30年頃までは日本髪で初詣する若い女性もあったが、今は見られない。東京郊外のわが家にも獅子舞や三河万歳が賑々しくツツミや太鼓を鳴らして門づけがやってきたが、これもまた消えてしまった。隣近所や勤め先の上司への年始参りもあまり見られなくなった。昭和も遠くなりにけりの追憶である。