《人はなぜ人を攻撃するのか?》
自己投影・投影同一視による攻撃
「お前はオカシイんじゃないか」などと妻を批判する夫。
こうした言葉による攻撃を受け続けると、自尊感情の低下、相手の機嫌を気にして緊張が続く、イライラ、不眠、無気力、頭痛などの症状が現れることもあります。
最近は、夫と妻が逆の場合もあるようです。
自分の非を認めたくないとき、他人にそれを押し付ける人は、
自分は優越感を感じていなければ生きていけないため
劣等感を感じると、即座に反撃して防御するのです。
根深い劣等感から、自分の中に持っている弱さや欠点などネガティヴな部分を認めることが出来ません。
ネガティヴな部分とは、「ケチな部分」「いやらしい部分」「ずるい部分」「汚い心」「醜い部分」「正しくない部分」「非」「欠点」「弱い部分」などです。
こうしたネガティヴな部分を誰しも持っているものですが、
自尊感情が低いので自分の中から排除しないといられないで、
その気持ちはあたかも他人が持っているかのように錯覚する自分の身を守る方法を《投影同一視》と言います。
つまり、自分の中の気持ちを相手の中に投げ入れるということです。
こうした自己愛傾向にある人が、他人を攻撃する言葉は
自己愛本人が一番気にしてることそのままの「自己紹介」だと言われます。
「お前はマトモじゃない。狂っている。常識というものを知らない。」
↓
「自分自身が狂っていて常識というものを知らない。」
「お前は卑怯で陰険なやつだ。」
↓
「自分自身が卑怯で陰険なことをしている。」
「なんで私の言うことが信用できないんだ。」
↓
「自分自身が他人を信用していない。」
「お前は私を軽く扱っている。」
↓
「自分自身が他人を軽く扱っている。」
「お前は何も考えてない。」
↓
「自分自身が何も考えてない。」
「お前のようなやつは、誰からも相手にされない。」
↓
「自分自身が誰からも相手にされない。」
「お前は態度がでかい。生意気だ。」
↓
「自分自身が生意気で、でかい態度を取っている。」
自己愛傾向にある人は、ターゲットとなる人に自分を投影して見るのです。
何故かというと、自分を守るため、小さい頃から「健康な部分」と「傷ついた部分」を分離してきたからです。
その結果、加害者の世界は<善>と<悪>に分かれています。
そして、この<悪>はすべて他人に「投影」されます。
<悪い部分>をすべて他人に押しつけることによって、
加害者は自分が<よい人間>でいられ、
比較的安定した生活を営むことができるのです。
逆に言えば、加害者が落ち着いた生活を送るためには、
<悪い部分>をすべて他人に肩代(かたが)わりしてもらわなければならないのです。
被害者は、「加害者にとって耐えられないもの」をすべて引き受けてくれる「入れ物」、「スケープゴート」なのです。
つまり、自分の気持ちを一人で解消できないために、他者を巻き込んで解消するというのが投影同一視なのです。
たとえば、妻に向かって「お前は、自分勝手で自己中心的だ」という非難を浴びせたとします。
夫をよく知っている人からみれば、
「自分勝手で自己中心的なのは、他でもない自分自身のことではないか」ということになるのですが、
夫自身はそういう自分のいやな部分を見ようとはせずに、そのいやな部分を他人に押しつけるのです。
そして、いやな部分を押しつけた他人に向かって「お前は、自分勝手だ」と言って非難するのです。
このように自分のことを棚に上げて、他人を非難することで、自分の中にある嫌悪すべき部分と直面することを避けているのです。
つまり、自分自身と向き合う代わりに、他人という鏡と向き合って、他人を攻撃するのです。
「お前は、○○だ!」と言ったとき、
「お前は」という部分を「私は」に置き換えてみれば、言っていることがそっくりそのまま患者自身にぴったりと当てはまるかもしれません…
自己投影・投影同一視による攻撃
「お前はオカシイんじゃないか」などと妻を批判する夫。
こうした言葉による攻撃を受け続けると、自尊感情の低下、相手の機嫌を気にして緊張が続く、イライラ、不眠、無気力、頭痛などの症状が現れることもあります。
最近は、夫と妻が逆の場合もあるようです。
自分の非を認めたくないとき、他人にそれを押し付ける人は、
自分は優越感を感じていなければ生きていけないため
劣等感を感じると、即座に反撃して防御するのです。
根深い劣等感から、自分の中に持っている弱さや欠点などネガティヴな部分を認めることが出来ません。
ネガティヴな部分とは、「ケチな部分」「いやらしい部分」「ずるい部分」「汚い心」「醜い部分」「正しくない部分」「非」「欠点」「弱い部分」などです。
こうしたネガティヴな部分を誰しも持っているものですが、
自尊感情が低いので自分の中から排除しないといられないで、
その気持ちはあたかも他人が持っているかのように錯覚する自分の身を守る方法を《投影同一視》と言います。
つまり、自分の中の気持ちを相手の中に投げ入れるということです。
こうした自己愛傾向にある人が、他人を攻撃する言葉は
自己愛本人が一番気にしてることそのままの「自己紹介」だと言われます。
「お前はマトモじゃない。狂っている。常識というものを知らない。」
↓
「自分自身が狂っていて常識というものを知らない。」
「お前は卑怯で陰険なやつだ。」
↓
「自分自身が卑怯で陰険なことをしている。」
「なんで私の言うことが信用できないんだ。」
↓
「自分自身が他人を信用していない。」
「お前は私を軽く扱っている。」
↓
「自分自身が他人を軽く扱っている。」
「お前は何も考えてない。」
↓
「自分自身が何も考えてない。」
「お前のようなやつは、誰からも相手にされない。」
↓
「自分自身が誰からも相手にされない。」
「お前は態度がでかい。生意気だ。」
↓
「自分自身が生意気で、でかい態度を取っている。」
自己愛傾向にある人は、ターゲットとなる人に自分を投影して見るのです。
何故かというと、自分を守るため、小さい頃から「健康な部分」と「傷ついた部分」を分離してきたからです。
その結果、加害者の世界は<善>と<悪>に分かれています。
そして、この<悪>はすべて他人に「投影」されます。
<悪い部分>をすべて他人に押しつけることによって、
加害者は自分が<よい人間>でいられ、
比較的安定した生活を営むことができるのです。
逆に言えば、加害者が落ち着いた生活を送るためには、
<悪い部分>をすべて他人に肩代(かたが)わりしてもらわなければならないのです。
被害者は、「加害者にとって耐えられないもの」をすべて引き受けてくれる「入れ物」、「スケープゴート」なのです。
つまり、自分の気持ちを一人で解消できないために、他者を巻き込んで解消するというのが投影同一視なのです。
たとえば、妻に向かって「お前は、自分勝手で自己中心的だ」という非難を浴びせたとします。
夫をよく知っている人からみれば、
「自分勝手で自己中心的なのは、他でもない自分自身のことではないか」ということになるのですが、
夫自身はそういう自分のいやな部分を見ようとはせずに、そのいやな部分を他人に押しつけるのです。
そして、いやな部分を押しつけた他人に向かって「お前は、自分勝手だ」と言って非難するのです。
このように自分のことを棚に上げて、他人を非難することで、自分の中にある嫌悪すべき部分と直面することを避けているのです。
つまり、自分自身と向き合う代わりに、他人という鏡と向き合って、他人を攻撃するのです。
「お前は、○○だ!」と言ったとき、
「お前は」という部分を「私は」に置き換えてみれば、言っていることがそっくりそのまま患者自身にぴったりと当てはまるかもしれません…