【少数派で何が悪い!】
発達障害という言葉は、好きじゃない。
多数派でないと、障害と呼ばれるなんて、ひどい。
ただでも少数派は、生きづらいのに。
多数派でないもの、自分が理解できないものを排除しようとする人間のサガ。
オトナになるというのは、少数派を認めること
自分が理解できないものを理解するということなのかも。
多数派、少数派…
色んな人間がいて、その凸凹がお互いを補い合う。
この世の中には、多数派だけでなく、少数派も必要。
「発達障害の僕が直面した現実」
以前もこのBlogで触れたモデルの栗原類さんが語る「発達障害の僕が直面した現実」
「発達障害」と公表している栗原類さん
8歳の時、当時在住していたNYで、「発達障害」と認定された栗原類さんは、
小学1年での留年、日本の中学時代の不登校、高校受験の失敗など紆余曲折を経ながら、
なぜ芸能界という自分の才能を生かす場所を見つけて輝けるようになったのかをまとめた、著書『発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由』を発表した。
同じ障害がありながら、いつも栗原さんを信じて導いた母。
アメリカの「発達障害」に対するおおらかな環境と、学んだ英語が自信になったこと、されて嫌なことを人にはしないと決めた、人として愛される生き方など。
ADDの特徴である衝動性を抑え、苦手なコミュ力を克服し歩んできた今までを語っている。
■脳のクセを知り訓練すれば、人は変われる
ADHD(注意欠陥・多動性障害)/ADD(注意欠陥障害)は脳にクセがあり、その独特のクセが日常の困難を引き起こしています。
まずは自分の弱点を知ることが克服への第一歩となります。
自分にとって何が苦痛なのか、何が苦手だと感じるのか、そして、家族や周囲の人は自分が引き起こす何で頭を抱えているのか、困っているのか、それを見極めることが重要です。
僕の場合は、手先が不器用である、注意力散漫、集中力が低い、記憶力に問題があるなどですが、
それらの弱点に関して、小学校低学年の時点で問題点を分析してもらえたので、何かを忘れたり、できないことがあっても、覚える訓練を始めることができました。
しかし、訓練をしたからといってすぐにできるようになるとは限りません。実際、今でも克服できていないものがたくさんあります。
8歳から発達障害と向き合ってきていますが、14年頑張ってもできないことはいまだに多いです。
物事に長期的に集中することは簡単にはできないですし、同じミスを何度も繰り返します。
だけど14年前、5年前、2年前、それぞれを振り返ってみると、
その当時できなかったことで、今できていることはたくさんありますし、この先もきっと少しずつ変わっていくだろうと思うのです。
周囲に迷惑をかけず、嫌な思いもさせずにわかってもらえればそれに越したことはないのですが、現実には無理だろうと思います。
そもそも僕自身は、疲れていても頑張らなきゃいけないと思って毎日を過ごしているので、
忙しくなって、頑張れば頑張るほど、その瞬間は「これ以上は無理だ」という客観的な判断ができません。
そもそも疲れたときは、判断力がかなり落ちてしまいます。
ゆえに、他人に迷惑をかけたくないと思っていても、自分が気づかないうちに迷惑をかける引き金を引いてしまうこともあります。
だからこそ、自分で管理していくことを無理に進めるのではなく、できるだけ頑張りつつ、家族やマネージャーなど周囲の身近な人につねにモニタリングしてもらっています。
周囲の人にきっちりチェックしてもらうことで、一定のパフォーマンスは保てるし、自分の力を最大限に発揮できる環境が整います。
その環境がなければ、どんなに頑張ろうという気持ちがあっても、結果は出せないのです。
■他人の立場に立つのは難しい。だから…
発達障害の症状のひとつとして、「空気が読めない」ことがよく例に出されます。
空気を読めないとは、他人が何を考えているのか推測できないことです。
実際、他人の気持ちを推し量る能力が著しく低いし、それが人間関係における大きな壁となることも多いです。
しかし、社会で生き仕事をしていくうえで、人間関係は避けて通ることはできません。それでは、人間関係を円滑にしていくにはどうすればいいのか。
他人の気持ちを推し量る能力が低いので、スキルを上げる努力は頑張ってもたかが知れている。
それよりも「自分がやられたら嫌なことは、他人には絶対にしない」という基本的なことを小さい頃から考えてきました。
本当の意味で人間は、完全には他人の立場になんて立てないと思います。
日本の小学校の道徳的価値観では、よく「他人の立場になって考えなさい」といわれますが、それは発達障害じゃなくても難しいですし、本当の意味では、その人の立場はその人じゃなきゃわからない。
だからこそ、自分がやられたら嫌なことは他人にはしない。
もう一歩進んで、自分がしてもらってうれしかったことは、誰かにしてあげられるようになりたいと努力をする。
さらに一歩進んで、自分は嫌だと思わないけど、他の人はされたら嫌なのかもしれないという発想力を持つことが大切だと考えています。
この3つは、小さい頃から母に言われてきたことでいつも心掛けています。とはいえ、3つとも成立させるのはなかなか難しいことですが…。
僕は人の表情から感情を読み取ることが苦手ですが、それはやはり、僕自身が他人を観察する力と、他人に対する興味が弱かったからだと思います。
他人の心の動きや、言葉の端々に表れる感情の変化、そういう日常の中で無限に発生する場面のほとんどを、僕は理解していなかったのです。
ドラマ、映画で「表情を読み取る」練習をする
舞台も含めてたくさんのお仕事に多大な時間を費やして取り組んでも、お芝居はなかなかうまくならないし、
どう演じていいのかがわからないまま時間が過ぎ、どうすれば上達するのか試行錯誤しながらたどり着いたのは「読解力」というキーワードでした。
少しでもたくさんの本を読んで、その情景を思い浮かべたり、そのキャラクターの心情を思い浮かべる。
それらを繰り返すことは役者として避けて通れないトレーニングだと思いました。
この「読解力」というのは本だけでなく、映画やTVドラマにもあてはまります。
観ている映画の中で俳優の表情の微細な変化、それが何を伝えようとしているのかを読み取る読解力。
俳優が発する台詞一つひとつ、声のトーンの微細な変化は何を表現しようとしているのか、不安なのか怒りなのか、そういった細部に至る表現を読み取る力も読解力です。
おそらく、小さい頃から母にそういう部分は指摘されてきたとは思うのですが、それが実際に僕の頭で理解できるようになったのはここ最近な気がします。
■芝居の勉強が、自分を助けてくれる
小さい頃にこれに気付いていれば、もっと生きやすかったかもしれないと思います。
人と接する中で、日々直面する他者とのコミュニケーション。
相手の眼球が動いているのはなぜか、急に微妙に早口になったり、声が少しだけ大きくなったり、うわずったりする。
他人が示している些細な不快感や居心地の悪さをその場でくみ取れれば、それ以上の溝ができないで済むのに、
それがわからないからそのまま放置してしまったり、無神経なことを言ってしまったという場面は、僕が気付いていなかっただけでたくさんあったと容易に推測できます。
そしてそれらの表情の変化を知る、理解するには、お芝居の勉強はとても有効だと感じるのです。
こうした読解力の訓練も、お芝居の仕事だけでなく、日々直面する他者とのコミュニケーションの訓練に役立ち、僕が社会で生きていくための力のベースになってくれていると思います。
少しずつですが、長い目であきらめず続けていこうと思います。
参考 東洋経済オンライン
発達障害という言葉は、好きじゃない。
多数派でないと、障害と呼ばれるなんて、ひどい。
ただでも少数派は、生きづらいのに。
多数派でないもの、自分が理解できないものを排除しようとする人間のサガ。
オトナになるというのは、少数派を認めること
自分が理解できないものを理解するということなのかも。
多数派、少数派…
色んな人間がいて、その凸凹がお互いを補い合う。
この世の中には、多数派だけでなく、少数派も必要。
「発達障害の僕が直面した現実」
以前もこのBlogで触れたモデルの栗原類さんが語る「発達障害の僕が直面した現実」
「発達障害」と公表している栗原類さん
8歳の時、当時在住していたNYで、「発達障害」と認定された栗原類さんは、
小学1年での留年、日本の中学時代の不登校、高校受験の失敗など紆余曲折を経ながら、
なぜ芸能界という自分の才能を生かす場所を見つけて輝けるようになったのかをまとめた、著書『発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由』を発表した。
同じ障害がありながら、いつも栗原さんを信じて導いた母。
アメリカの「発達障害」に対するおおらかな環境と、学んだ英語が自信になったこと、されて嫌なことを人にはしないと決めた、人として愛される生き方など。
ADDの特徴である衝動性を抑え、苦手なコミュ力を克服し歩んできた今までを語っている。
■脳のクセを知り訓練すれば、人は変われる
ADHD(注意欠陥・多動性障害)/ADD(注意欠陥障害)は脳にクセがあり、その独特のクセが日常の困難を引き起こしています。
まずは自分の弱点を知ることが克服への第一歩となります。
自分にとって何が苦痛なのか、何が苦手だと感じるのか、そして、家族や周囲の人は自分が引き起こす何で頭を抱えているのか、困っているのか、それを見極めることが重要です。
僕の場合は、手先が不器用である、注意力散漫、集中力が低い、記憶力に問題があるなどですが、
それらの弱点に関して、小学校低学年の時点で問題点を分析してもらえたので、何かを忘れたり、できないことがあっても、覚える訓練を始めることができました。
しかし、訓練をしたからといってすぐにできるようになるとは限りません。実際、今でも克服できていないものがたくさんあります。
8歳から発達障害と向き合ってきていますが、14年頑張ってもできないことはいまだに多いです。
物事に長期的に集中することは簡単にはできないですし、同じミスを何度も繰り返します。
だけど14年前、5年前、2年前、それぞれを振り返ってみると、
その当時できなかったことで、今できていることはたくさんありますし、この先もきっと少しずつ変わっていくだろうと思うのです。
周囲に迷惑をかけず、嫌な思いもさせずにわかってもらえればそれに越したことはないのですが、現実には無理だろうと思います。
そもそも僕自身は、疲れていても頑張らなきゃいけないと思って毎日を過ごしているので、
忙しくなって、頑張れば頑張るほど、その瞬間は「これ以上は無理だ」という客観的な判断ができません。
そもそも疲れたときは、判断力がかなり落ちてしまいます。
ゆえに、他人に迷惑をかけたくないと思っていても、自分が気づかないうちに迷惑をかける引き金を引いてしまうこともあります。
だからこそ、自分で管理していくことを無理に進めるのではなく、できるだけ頑張りつつ、家族やマネージャーなど周囲の身近な人につねにモニタリングしてもらっています。
周囲の人にきっちりチェックしてもらうことで、一定のパフォーマンスは保てるし、自分の力を最大限に発揮できる環境が整います。
その環境がなければ、どんなに頑張ろうという気持ちがあっても、結果は出せないのです。
■他人の立場に立つのは難しい。だから…
発達障害の症状のひとつとして、「空気が読めない」ことがよく例に出されます。
空気を読めないとは、他人が何を考えているのか推測できないことです。
実際、他人の気持ちを推し量る能力が著しく低いし、それが人間関係における大きな壁となることも多いです。
しかし、社会で生き仕事をしていくうえで、人間関係は避けて通ることはできません。それでは、人間関係を円滑にしていくにはどうすればいいのか。
他人の気持ちを推し量る能力が低いので、スキルを上げる努力は頑張ってもたかが知れている。
それよりも「自分がやられたら嫌なことは、他人には絶対にしない」という基本的なことを小さい頃から考えてきました。
本当の意味で人間は、完全には他人の立場になんて立てないと思います。
日本の小学校の道徳的価値観では、よく「他人の立場になって考えなさい」といわれますが、それは発達障害じゃなくても難しいですし、本当の意味では、その人の立場はその人じゃなきゃわからない。
だからこそ、自分がやられたら嫌なことは他人にはしない。
もう一歩進んで、自分がしてもらってうれしかったことは、誰かにしてあげられるようになりたいと努力をする。
さらに一歩進んで、自分は嫌だと思わないけど、他の人はされたら嫌なのかもしれないという発想力を持つことが大切だと考えています。
この3つは、小さい頃から母に言われてきたことでいつも心掛けています。とはいえ、3つとも成立させるのはなかなか難しいことですが…。
僕は人の表情から感情を読み取ることが苦手ですが、それはやはり、僕自身が他人を観察する力と、他人に対する興味が弱かったからだと思います。
他人の心の動きや、言葉の端々に表れる感情の変化、そういう日常の中で無限に発生する場面のほとんどを、僕は理解していなかったのです。
ドラマ、映画で「表情を読み取る」練習をする
舞台も含めてたくさんのお仕事に多大な時間を費やして取り組んでも、お芝居はなかなかうまくならないし、
どう演じていいのかがわからないまま時間が過ぎ、どうすれば上達するのか試行錯誤しながらたどり着いたのは「読解力」というキーワードでした。
少しでもたくさんの本を読んで、その情景を思い浮かべたり、そのキャラクターの心情を思い浮かべる。
それらを繰り返すことは役者として避けて通れないトレーニングだと思いました。
この「読解力」というのは本だけでなく、映画やTVドラマにもあてはまります。
観ている映画の中で俳優の表情の微細な変化、それが何を伝えようとしているのかを読み取る読解力。
俳優が発する台詞一つひとつ、声のトーンの微細な変化は何を表現しようとしているのか、不安なのか怒りなのか、そういった細部に至る表現を読み取る力も読解力です。
おそらく、小さい頃から母にそういう部分は指摘されてきたとは思うのですが、それが実際に僕の頭で理解できるようになったのはここ最近な気がします。
■芝居の勉強が、自分を助けてくれる
小さい頃にこれに気付いていれば、もっと生きやすかったかもしれないと思います。
人と接する中で、日々直面する他者とのコミュニケーション。
相手の眼球が動いているのはなぜか、急に微妙に早口になったり、声が少しだけ大きくなったり、うわずったりする。
他人が示している些細な不快感や居心地の悪さをその場でくみ取れれば、それ以上の溝ができないで済むのに、
それがわからないからそのまま放置してしまったり、無神経なことを言ってしまったという場面は、僕が気付いていなかっただけでたくさんあったと容易に推測できます。
そしてそれらの表情の変化を知る、理解するには、お芝居の勉強はとても有効だと感じるのです。
こうした読解力の訓練も、お芝居の仕事だけでなく、日々直面する他者とのコミュニケーションの訓練に役立ち、僕が社会で生きていくための力のベースになってくれていると思います。
少しずつですが、長い目であきらめず続けていこうと思います。
参考 東洋経済オンライン