Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし67. 暇という敵

2009年08月05日 | Kyoto city
 夕べは、DVDTwenty-Fourシリーズ6の最後まで見た。私は、こうした連続ストーリーを最後までみる機会が少なく、途中で見忘れ、そして記憶から消えてしまうのだが、今回は少し意地になって見ていた。
 そしてブログに書くようなことでもないが、24時間という設定の中に、これだけ多くの出来事を設えるというのは、私達の日常が退屈なことへの裏返しなのであろうと推測する。誰しもがこんな忙しい事件の連続は勘弁願いたいが、といって退屈な日常では実につまらない。そんな後者の気分が、このシリーズが支持されている背後にあるのかもしれない。シリーズ7の、DVDではまだ全巻出されていない。
 それにしても携帯電話とWEBが数多く登場し、それら自体が無くてはストーリーが成立できない位の役割を果たしているあたりに、今の時代を感じさせてくれる。私が少し面白いと感じたのは、相反するキャラクターの設定に、WinとMacのPCを使い分けているところだろうか。
 私達の経験として、DVDなり映画を見ているときに退屈な現実を忘れることが出来る。それは、原稿を書いていても同じである。何かに没頭して忘れたい、退屈な現実ばかりだというのが日々の暮らしではないかと思うときがある。だから退屈さを紛らわしてくれることが、21世紀最大の課題だと個人的には考えたくなる、そんなものを選挙のマニフェストに掲げてくれる政党などは、ありゃしない。
 大学の仕事、研究は別として、とりわけ教育や会議に限ると、一週間とか一ヶ月に一度行けば全部片づくような水準である。仮に一月に一度だけ出向いてもそれで学生達から不満も出ない。教育や運営という世界では、実はその程度の出来事しか起きないのである。それ以前に学生達が来なかったりするのだから、こちらばかりが構えていてもあまり意味がない。
 プロジェクトに追われる事があたりまえのように身についてきた私としては、こういう暇な大学商売も、そろそろ潮時かなと思ったりするときもある。まあ唯一頭を使う時間になるのは、ドクターの教育ぐらいであるから、これ位は少しだけ本気でやっている。
 だからTwenty-Fourシリーズの超慌ただしさが、現代で支持されたりするのだろう。普通の現代人は、官僚でもなければ社会の主導的なラインから当然外れているから、暇という最大の敵と向かい合うという構図があるのだろう。敵は核爆弾でもテロリストでもない。このシリーズを逆説的に見れば、暇という扱いにくい敵が、私達の眼前にいるのだろう、という捉え方もできるかなと思ったりする。
 今日は少し刹那的な気分である。

京都・松原大橋
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
コメント
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