この画像を見ていたら、なんとなく「ペンな画像」という言葉を思い出した。フィルム時代のオリンパスペンのプリント画像は、ハーフサイズというのもあってネガの粒子が見える固有の見え方であった。それをカバーすべくというわけでもないが、画面にいろんな要素をいれて撮影することが多かった。それがペンな画像であろうか。
ペンな画像の典型をあげると、民俗学者の宮本常一だろう。彼のオリンパスペンSで撮影した画像は、まさに日本の風土を記録し全25巻の著書にもなっているが、物事を観察しようという視線が第一義的にあって、まあ記録しておこうという肩の力を抜いた撮影が、当時の日本の昭和のローカルな光景をリアルに記録している。オリンパスペンSで記録し、画像を論考し、筆で書き記すといった姿勢は大変知的であった。
いまならデザインサーベイに出かけたときに、撮影しておけと自称カメラマニア達に指示すると、大仰な機材が登場して、どうだといわんばかりの画像が撮影できるのだが、撮影された画像は、どこか違うのよね。それに撮影マニアは論考には関心がない。まあ、彼らは知的作業では、肝心なことが抜けているアホですな。
肩に力の入った大仰な機材であるところが、相手に警戒心をいだかせ、どこかリアルな風景にはならない。そんな画像では、あとで論考などできないですね。だから、現代の大仰な機材を見ていると、どこか間抜けな感じもしてしまい、知的作業には使えないなぁーと思ったりもする。
大体フィールドサーベイといったら、野帳や取材資料や、建築ならば平板測量器まで登場し、当然今ならばノートPCが必要だし、だから撮影機材ごときに鞄のスペースはさけないですな。それでいて身軽であることが絶対条件。
つまり私流に言えば、現代の大仰な撮影機材には、研究する道具という知性が欠落している。だから、ペンがデジタル機材として復活してくるわけだ。
鞆の浦,2012年5月18日
OLYMPUS PEN E-P3,LEICA DG MACRO-ELEMARIT45mm,f2.8
ISO200,露出補正-1/3,f7.1.1/640iFinish
ペンな画像の典型をあげると、民俗学者の宮本常一だろう。彼のオリンパスペンSで撮影した画像は、まさに日本の風土を記録し全25巻の著書にもなっているが、物事を観察しようという視線が第一義的にあって、まあ記録しておこうという肩の力を抜いた撮影が、当時の日本の昭和のローカルな光景をリアルに記録している。オリンパスペンSで記録し、画像を論考し、筆で書き記すといった姿勢は大変知的であった。
いまならデザインサーベイに出かけたときに、撮影しておけと自称カメラマニア達に指示すると、大仰な機材が登場して、どうだといわんばかりの画像が撮影できるのだが、撮影された画像は、どこか違うのよね。それに撮影マニアは論考には関心がない。まあ、彼らは知的作業では、肝心なことが抜けているアホですな。
肩に力の入った大仰な機材であるところが、相手に警戒心をいだかせ、どこかリアルな風景にはならない。そんな画像では、あとで論考などできないですね。だから、現代の大仰な機材を見ていると、どこか間抜けな感じもしてしまい、知的作業には使えないなぁーと思ったりもする。
大体フィールドサーベイといったら、野帳や取材資料や、建築ならば平板測量器まで登場し、当然今ならばノートPCが必要だし、だから撮影機材ごときに鞄のスペースはさけないですな。それでいて身軽であることが絶対条件。
つまり私流に言えば、現代の大仰な撮影機材には、研究する道具という知性が欠落している。だから、ペンがデジタル機材として復活してくるわけだ。
鞆の浦,2012年5月18日
OLYMPUS PEN E-P3,LEICA DG MACRO-ELEMARIT45mm,f2.8
ISO200,露出補正-1/3,f7.1.1/640iFinish