Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

最近のドローイングから120.

2014年11月21日 | drawing
 ブルータス、マルス、アリアス、アグリッパ、ラオコーンと言えば若い頃に描かされた石膏像だが、これに始まり静物などのデッサンを何年もしてきたし、大学の入試にもデッサンがあったので、クロッキーを描くのは難しいことではない。だが描けるポーズと描けないポーズとがいまだにある。
 私のクロッキーは線で立体を表現する練習だが、モデルさんのポーズによっては量感が捉えられないことがしばしばある。肩はこれぐらいで、骨盤のあたりはこれぐらいのボリュームかなと思いつつ、大いに外れることがあるわけだ。
 まあそれ以前に、体のフォルムに最大の関心が必要なのだが、最近それが次第に希薄になってくる。見慣れてしまったというのが要因だと思う。せいぜい私好みの体型、例えば頭が小さく骨盤が大きくお尻が大きい体型とかに(今日東京大江戸線の車中で見かけた)、デフォルメして描いているかも知れない。その方が女らしく表現しやすいし。
 数多くのモデルさんを描いていると、大方の体の構造というのが骨身にしみこみ、毎日通勤時に、この人はこれぐらいの太さで骨盤はこんな大きさでお尻の肉はこれぐらいかなとか、 こりゃあちこちつったりかさ上げしているかといった具合に、 コスチュームの上から体の体型が私なりに類推できてしまう。だから希に通勤時の名古屋駅を女の人が裸で歩いているのではと錯覚することがある。もちろん画家や彫刻家は、私以上に見えているわけだが。そうでなければ絵画や彫刻にはならないからね。
 ところで、そんな風に見ていると、どこかユニセックスという言葉を思い出す。ただし、私は男の体は描いた経験がないから断言できないのだが。つまり男女という区別がつかなくなってくる。そこにいるのは、有機的に構成された2種類の物質だといったぐらいの感覚である。
 だからファッションという概念が成立してくる。人間をコスチュームによってどうしたら女というイメージとして表現できるか。そんな風に考えてくると、女というイメージは、当然作られたものである。
 だから脱がせちゃったらもともこうもないよと、週刊ポストをみていて思ったが、よく考えるとあれもまたフォトグラファー達によってつくられたイメージなんだな。
 つまり私達の社会は、作られたイメージによって刺激されているのだと思った。そこにクリエーター達の社会的な存在理由の一端があるのだろうか。

クロッキー帳NO16.
コメント
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