頭を空っぽにすることの難しさ

「学び」にも2通りあるようだ。知識や情報を得るのと、感覚を磨く学びである。 学校の学習は主に前者だろうし、修行やお稽古は後者にはいるかも知れない。人は『感情の動物』と言うから、社会生活では後者も極めて大切な人間の行動のベースになる。月に1度お寺で坐禅を組んでいるが、外界と自分に集中し、頭を空っぽにするのは難しい。自動的に頭の中をいろいろな事が浮かび駆け巡る。その間自分と外界(例えば目の前の壁や外の鳥の声など)一切認識せず意識されない。自動思考が多いとその分、現実認識は欠落する。また情報や知識は大切だが、同時にそれは認識の枠を意味するから、主体的と思っている認識もその窓枠の中からから認識することになりかねない。情報や知識が飛びかう中、ゆっくり消化する時間がないとその恐れはおおいにある。
読書はいいものだが、その結果、「知識人・教養人・学識経験者・専門家」になるタイプと、融通無碍な詩人やお坊さんのようになるタイプがあるのではないだろうか。詩人やお坊さんも本を読むから、きっと本の読み方が違っているのだろう。一方は頭の中が知識や情報でいっぱいになるし、一方は頭の中を空っぽ?にするために読む。
 大人と比べ子供がすごいのは頭が空っぽ?で頭の中の変なものに邪魔されず、枠にはまらず、まっすぐ物の中心(大切なところ)に感覚が向くところではないだろうか。弱い立場の子供は生きる本能として誰でもが生まれながらにしてその感覚を持っているようだ。
 頭が空っぽ?がいいのではなく頭が空っぽになるようなそんな学習や学びや本の読み方が大事だと思う。そうすれば学習や学びの後、気分さっぱり頭はすっきりするに違いない。そうすれば、今みたいな世の中にはならないはずだ。
   しかし社会や学校は我々の頭をいっぱいにし、生まれながらにして持ち合わせた感覚から離す
一方ではないだろうか。

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各党首の話を聞いて

先日、参院選公示後全党首が順に党を代表して各党の政策を訴えていた。先に『参院選の意味』で書いていた心配そのもので、同じ村の中での言い争いや自慢話のようで、状況認識の狭さと浅さからか、閉ざされた話しに見えた。特に教育に関しては的を射た話は一つも聞けなかった。アレを聞いていた保護者は、『お偉い人たちが言うのだから、多分いいのだろう』と思うか、自分の家庭は対象外だと諦めるかしかなかったのではないだろうか。翌日、若い立候補者が昨日の党首同様の話をやたら『しっかり』を目に付くほど力説しながら話していた。(最近やたらあちこちで(しっかり)が目につく。若い人は党派を超えて、もう少し違った発想で問題点を指摘し、対策を提言するのではないかと勝手に思っていたので、外見の若さと、出てくる発想や言葉のあまりのちぐはぐさに、生きた人間とミイラの同居を連想してしまった。とにかく状況把握そのものがよくできていなく、対策が問題解決になるかは、はなはだ疑問。少なくても教育に関してはどの政党も逆行または大きく的を外している。各党は実際のところを離れ言葉先行になっている。その乖離があまりにも大きい
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