世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
テロ特別措置法の態度決定
朝方、テレビで今国会の主要なテーであるテロ特措法について各党の若手や評論家を交えて(話しの腰を平気で折り、一方的に決め付けて下品な)例の田原総一郎の司会でバトル議論をやっていた。(尚、私は現時点では特措法の賛否の判断は出来ないでいる)
進行は問題外として、参加者の議論を聞いていて、後味の悪さを感じた。特措法に賛成・反対の論者が相手を言い負かそうと論じんを張る。司会者同様、自分と立場の違う人の話をよく聞かず、途中で口を挟み、話がかみ合わない。アレでは討論が終わっても自分の考えは変わらない。言葉の擦り合わせがない。
もともと、賛成論者と反対論者だけで判断に迷っている人は一人も登場していない。国民の大半は迷っているはず。政治家も国会論議で結論を出すはずなのに、不思議と、誰もが最終的な賛成反対の立場まず明らかにしてから意見を言うスタイル。
それは、「為にする議論」によく見る。
議論の意味が分っていない。あんな議論を何時間やっても意味は無く思考をストップさせるだけだった。
もう一つ疑問に感じた印象だが、見かけの(大国日本)が、国際的に評価されていると言いながら、日本にとってご馳走になりそうな一部の地域にのみ興味を示す。
地球的に見ると,早急に人道支援しなければならないところは五万とある。そこは殆どほったらかしのままだ。「人道支援」ってそういうものか?石油どころか、水や食べ物や医薬品の不足で命を落としてる人々は数知れない。
我々のやってることは、どこか恥ずかしい。
地球的・人類的な不公正がテロ始め多くの矛盾を生み出していないだろうか?そこから目はずしては、頑張れば頑張るほど、矛盾のスパイラルから抜け出せない。
少々当面不利益を被ってももいいから、本道を歩みたい。
戦後の極貧の時代でも、あの時代のほうが今よりはるかに希望に輝いていた。子供や若者も生き生きしていた。
国や世界のあり方を曖昧にしたまま、特措法の是非を論じても
答えが出るのだろうか?
どうした?すずめ!
近所の猫がうろうろしていることがあったから、もしやと考えて.大きなえさ台を木の枝等にいくつか置いてあげた。しかし、すずめの子1羽止まらない。
私達のいなときによっぽど怖いことが合ったのだろう。今頃すずめの学校で、先生が、「あの変な爺さんとばあさんのいる家の庭には危険だから絶対近寄ってはいけないよ。餌はおとりかもしれない。」
保護者にも緊急連絡網で知らせ、毎晩、お父さんとお母さんが子供たちを集めて言い聞かせているかもしれない。
我々は舌きりすずめの爺さんや婆さんではないし、猫なら、上から見ればすぐ逃げられるよ。私が見つけたら叱って追い返してやるから、もうそろそろ遊びに来いよ!
婆さんも言ってるよ。
一夜明けたら
昨夜は、地球規模の『愛のテーマ」を想像しながら新首相に期待して床に就いた。
起きて、朝刊を開くと、1面トップは『(自民党の)背水の陣内閣』(福田首相自ら命名)、社説は『1月解散のすすめ』とある。
(共に国民生活不在の発想,。総理が守るのは国民ではなかったのか?言い間違いか?)
内容を読んでも、テレビをひねり談話や解説を聞いても朝刊の見出しと同様で徹底して地球や国民の命や暮らしの大局的な状況から目を反らした、都合を優先した内向きの話ばかり。加えてテレビは『国民や庶民の声を』を正義の御旗か客観的な状況であるかのようにあちこちで使うが、民が己のことを語れなくなっているのだから、【民意】と【民のおかれてる状態】をはっきり区別して使うべきである。(国民の声と言っても、必要な情報は閉ざされ歪められた情報のもとにあって、(世論や民意)の名で殆どが作られ準備されているような(政府やメディア同様、内向きな声)ばかりしか聞こえない。)
どこからも『愛のテーマ』のメロディーは聞こえてこない。
これでは従来と何ら変わらない。ここでは『世界の最大の政治的テーマ』という国連総長のメッセージが空しい。
(天災で1年間の3倍のGDPを使った国のあるのを知っているのか。今の日本経済がが仕込みなしの大ザルであるのをエライ人は知っているのかと、ついグチも出る。)
やっぱり!とも思ったが、これがわが国の今のスタートだから仕方ない。
期待しながら、期待はずれの準備もしなくてはならない時代だ ‥‥‥。
【温暖化対策は、今や世界の最大の政治課題】潘基文国連事務総長
地球温暖化対策で160カ国の代表が参加した国連本部でのハイレベル会合での事務総長の開会の挨拶の言葉である。
まさに世界に向けた宣言だ。公人の発したメッセージでこんな印象深く嬉しかったことは、殆ど記憶にない。
3年ぐらい前、カナダの12歳の少女、セヴァン・スズキの『あなたが世界を変える日』の本を読んで、心打たれ、世の政治を憂いながら、私は一人だけでも勝手に『子供と地球を守る党』の党首になりたいぐらいだと、この日記に書いたものだ。
当時、温暖化はメディアや政治も巷でもあまり問題にせず、話題にもならなかった。
アメリカのゴア元副大統領が『温暖化は(今は)政治問題ではなく、モラル(道徳)の問題』と言い、政治の舞台を退き、直接人々に語るため、「不都合な真実』の映画などを作り、今も、警鐘を鳴らして世界を回ってる。このことからもわかるように、国連の事務総長が始めてこのメッセージ「世界的な政治課題」であるとの)世界に向けた大宣言は(大げさかもしれないが)このことだけでも私には世界的で歴史的な意味を持つと心底思う。思い残すことがないぐらい全身がすっきりした。
事務総長が宣言し会議は当面の目途を確認し、対策を講ずることを、各国首脳は同意して閉会した。
しかし、今後、実際は想像もできないほど困難を伴うと思う。
それだけ重大なことだから仕方ない面もあるが、あの宣言に呼応したのだから、各国がそれぞれの国で、最大の政治課題として(位置づけ)てほしいと思う。
各国は様々の事情があるから当面の政策の軽重や順位は異なるだろうが、政策の基本にはしっかり据え、誠実に追求してほしい。
日本も然りで、福田首相の約束した『希望と安心』『共生』はこの(世界の最大の政治課題)抜きにはありえない。
私は(前首相の「美しい星50」の言葉は忘れ)新首相の誠実さをこの課題に対する態度の中で見分けたいと思う。
来年、サミットを開くこの国だからなおさら日本の責任は大きい。
そんなに時間の余裕は、あるはずはない。
(「愛のテーマ」が聞こえるようなドラマだ。)
地球の最終的な姿
現在の産業構造は地球を掘り返し焼き尽くすことによって成り立っていると言える。
地球の外から資源を持ち帰り産業に組み込めない以上最終的には現代のやり方を変えない限り産業・経済は成り立たず、行き詰まる。最終的には自給自足そして自然を含めた共生しかない。その形は固定的なものではなく、発展し変化していくに違いない。
勿論、かつての原始的な自給自足の形を言っているのではない。地球的で人類的な文化的・科学的価値価値をもった自給自足・共生のスタイルある。
現在の政治経済・文化はその意図とは関係なく時間的にはそれに向かう途中の過程にある。
昨夜、総裁選が終わり今後の政治への期待がNHKで学識経験者(学者と作家)によって論じられていた。落ち着いた雰囲気で、「知性」「人間復興」「共同体の復活」等の識者の期待の言葉はに大いに共感した。しかし抽象的でその中身がはっきりしないうらみを感じた。発想が現代文明に軸足をおき、抜け出せない曖昧さを感じた。
私は以前から、上記の(自給自足・共生)が必然的だと考えている。
識者の目指す言葉のイメージに(自給自足・共生)が描かれていることを期待したい。
ただ、(共生)は今回の総裁選でお福田氏もキーワードとして用いていたが、従来の政策により生じた格差の(つぎはぎ)のような内向きな意味で用いられているようだった。そうではなく本来的な地球的・人類的な自給自足の姿を遠くに見ながら現在の状況を見て分析し、当面の対策や中長期で政治経済文化を展望したら、政策や政策順位がよりはっきりするだろうと思う。
これは私の見当違いの勝手な思い込みかもしれないが、私のような輩(やから)が、こんな事を口にしなくてはならない時代いになったと言うことかもしれない。
上記の世界観が脳裏に少しでも描いてのの話なら、総理であれ誰でれ、言うことない。いつかそんな人と出会えたら想像は広がり話が盛り上がるだろうなー。
補足 少なくても日本の産業構造は第1次~第2次~第3次さらに金融(産業)へと中心が変わってきた。
これは持続するはずはなく、結局は逆向きに第1次産業の発展へ向け
他の産業の力を用いて押し上げるような構造にならざるを得ないだろう。しかもこれは、世界的・地球的なな規模で展開されるだろうと思う。
自給自足・共生の時代になれば小競り合いぐらいはあるだろだろうけど、勝っても負けても、仕組みが壊れるから戦争のメリットがなくなる。逆に今は、戦争どころでないもっと不幸な現実が隠れて広がっている。そもそも、アメリカの兵士の多くが貧しさを抜け出す手段に戦地に赴いているし、日本も毎日90人から自殺、孤老死の数々。これに類したものは内外に沢山ある。これらは【国のため】の大義名分どころか、【汚名】すら浴びせられかねない。現状戦争放棄どころではないものも沢山蔓延っている。
我々の立っている根底の状況は見えにくいかもしれなが、本来からずれたところで困難を噴きだしている。
「希望と安心な国づくり」を看板にし実直そうな新総理。3ヶ月前に「美しい星50」で真面目そうな安倍前首相にエールを送ったばかりなので、今は複雑な気持ちではあるが、
とりあえず、福田総理 ガンバレ!
「希望と安心」「共生」から目を離すな!
運動会でのある風景
どこの運動会でもだいたい競争はつきものだ。断トツ遅れて走ってくる子を良く見かける。殆ど笑い顔である。マイクで「ガンバレ」の声がかかり本部席を中心には拍手が起きる。教員になって始めのころはそれほど不思議に思わなかった。10年ぐらいしてから違和感を感じるようになり、今は教員や周りの親達の無神経さを感じて見たくない場面になっている。アレは競争になっていない。競争は競い合うものであそこには競い合いはない。ゴールに入る子供の顔を崩した笑いにも似た顔は本当に笑い顔だろうか。もてあました顔ではないか。それに拍手を送る。拍手の意味は?走っている子にその拍手はどんなに聞こえるだろう?私ならたまらない。昨日近所の中学校の運動会を見に行った。 1年生全員の学級対抗リレーがあった。その中に(5組)言う障害児学級が1学級として参加していた。リレーが始まって間もなく驚いた。普通学級はスタート意外オープンコースなのに障害児学級だけは最後まで1番外側の第5コースのセパレートコースを走っている。バトンタッチゾーンは普通学級の子はとっくに去っているので1コースにつめるのが普通だが、最後まで第5コースで待ち第5コースを走る。そばには先生方もいるテントには学校長や来賓もぞろり。誰もないも言わない。何故身障学級だけ第5コースを走らせるのか?グランド1周で1コースとは30メ^ーター以上多く走らなければならない。それでなくても総力の著しく落ちる学級の子にこの距離のハンデはなんだ?と驚いた。さらに普通学級の最終ランナーがゴールしたらそれまで第5コースで待っていた生徒は先生と一緒に走ることなく引き上げていった。テント下のの学校長に聞くと「安全を考えてのこと」と承知しているようだった。学級の主任に聞くと、校長同様「安全上の配慮」であり、学級の人数も異なることもあってグランドを回る回数も同じでなく、普通学級のゴールに合わせて走るのをやめるとの事だった。私はこのリレーのやり方が障害児学級の子供たちにどんな思いを持たせただろうと自分の教師経験を通してたまらないものを感じた。学校長も身障学級のの先生達も教育的な配慮だと考えていると言う。自分の教育的配慮と正反対である。単に見方の違いとして、このままでいいだろうか?私の違和感の中身を見ると、 ①一つの勝敗を決める競技に、勝敗を抜きに競技に参加させるという基本的に対等でないお客さん扱いがいいのか ②もしここまで基本的なところまで参加の仕方が異なるなら、この種目がこの学級に合っているかどうかその段階の問題ではないか。 ③この特別扱いは、学級の子供たちや周りの子供や大人達に(思いやり)として映るか、(あんな子もおりあんな学級もある)と言う印象を発信しないだろうか。 ④仮にあのような参加に意味があると考えていたなら、競技前にそのことを説明し、配慮の中身や競技の視点を観客始め生徒達にもしっかり伝えなくていいのか。 (私ならこんな子供を惨めにし観客に間違った印象を与える恐れのあるこの種目を選ばなかったろうと思う)それでもは知らせなければならないのなら、事前に説明をした後、第1コースを確保し走らせる。私は小学校の障害児学級を長年経験したがオープンコースで唯の一度も安全上問題になったことはない。それでもどうしてもやらなければならないのなら練習時の平均タイムや学級の人数ででグラウンドを回る回数や走る距離を調整することは事前に説明し基本的に競技参加させるだろうと思う。こんなやり方は見たことも聞いたこともない。こういう場合、学級の子供やその保護者は不満をいえないのが普通。
普通の良心的な教師の感覚を維持するのが困難な時代が既にかなり進行しているようだ。昨日見たものは、いい先生もそれを維持するのが難しい時代になったことを意味しているんだろうと思う。
≪生の声≫
学生時代、哲学の授業で(人の言葉に間違いはない。唯その言葉が一般的な言葉として通用しないだけ。いい間違いは別として本人は思いをその言葉に託している。)と聞き、なるほどと感心した。子供と付き合うときは、そのことに気をつけた。養老猛は(馬鹿の壁で)人は事実をそのまま捉えることは出来ない。感覚に映ったものを見ているだけ。個人の内部に対応する経験がないと、認識することすら不可能と言う。全くそうだと思う。(事実と思いの違いは)研鑽や養育実践や日常生活でもいいだけ経験した。
そうすると私は、氾濫している言葉が私の認識している事実と大きく違うだけかもしれない。こう言うと、堂々巡りの感じになるが、答えは簡単かもしれない。事実や在る物を基準にして言葉との距離を測ればよい。そうすれば言葉の多様性が広がるがり、人を見下したり、不信感を持たずに思考は広がり思考停止にならずに済みそうだ。
そうなるといいなー。
昨日出合った「生の声」
この夏、追っかけをして見たミュージカル「キジムナー」の監督の話が聞けた。
30分ぐらいだったが、描いてるイメージの明確さと人を知り尽くしてる感じで期待超えていた。
監督の権威や存在感すら少しも匂わせない見事なものだった。描いてるイメージが主人公で、話を聞いていると、そのイメージと自分しかいない。監督が全くそれを邪魔しないのだ。
追っかけをやったミュージカルは100人以上で演じたものだったが,昨日は監督一人なのに、感動はそれを蘇らせるのに十分だった。
話の中に性を交えた男女の愛を語るところも怪しげないやらしさがどこを探しても見当たらない。人の深さの中にしかない【生の声】でないかと思った。妻も同じように感じたようだった。
公演でもお話でも、こんな機会があったら、
また(追っかけ)をすると思う。
明日会う中学生や 明後日会う昔の同僚も(生の声)の期待だ。
とか言っても、本当はいつどこで(生の声)が聞けるかの予測は当たらないことが多い。多分、相手のせいばかりでなく、
その時の自分の感覚のせいがあるからだろう。
待して、自滅路線を行く
長い教師生活は日本の教育行政による自滅路線をいやと言うほど見るものだった。
教育が、目に見えにくいからなのか、今日もその路線をスピードアップするばかりのようだ。
人々が求め見ているのは、目の前のお金。日本だけでなく世界中、「どこも」と言う感じだから仕方ないか。
少なくてもこの日本はここ数年は、お金のじり貧路線をひた走るだろうと思う。
ある意味で社会の行き詰まりが誰の目にも見えるようになるということで(歴史の長い間隔で見ると)いいことかもしれない。
ただその間、人々は意外な出来事に驚き、行き詰まり、大きなダメージをうけ再生のリスクは、計り知れない。
年も年だし根本的な再生の姿を見ることは期待してもいないが、当面の一段落でも一息でもいいから、欺瞞の言葉や偽装でない姿が見れるといい。
メディアや総裁選を含めそのシナリオは、見当たらない。
悲鳴でない【生の声】はあるにはあるが、声が小さいからかあまり聞こえない。
今日もどこかで【生の声】に出会えないかと、おろおろ出かける。
「あちらを立てればこちらが立たず」なのに
日本の政治の行き詰まりは「あちらを立てればこちらが立たず」の
様相。景気浮揚と財源、企業収益とそこで働く人への分配、勤め先か家族、都市と地方の格差、若者と老人の負担、社会保障と財源、拉致問題の圧力と交渉、対米自立外交と経済依存これらは限界を超えた矛盾の関係にある。例えば保健医療だって目先の医療費の値上げで患者は病気を重くし、結果国の医療費持ち出しをを増加させてる。地球的にも現代的な利潤追求と資源の枯渇や異常気象は両立しない背景を持っている。このような不合理な例は日本の内外にあまりに多い。人々はそのような現実を前に生きている。そこに合理性を求めるのが政治ではないか。ここまでくると党派や政権争いの次元ではないが、総裁選は(今までやってきた)構造改革の土俵の中で、もたらした盾と矛の綱引きに躍起になっている。もし、経済成長を説くのなら、せめて競争力の長期見通しから「経済の体力アップ」(詳しくは述べないが、現在は、売血者やボディーブローを喰ったボクサーのようにヨタリっているではないか。)ぐらいでてきてもいいはず。
しかし両候補の出される政策は従来やってきたもののツギハギばかりで矛盾のスピードアップかスピードダウンかの違いしかない。経済そのものがやがて立ち行かなくなるはず。
メディアがやる「総裁候補のどちらを支持しますか」の街頭取材の質問は何を民意と考えてやっているのだろうか?
視聴者も政治家も、アレで思考停止しやすくなってはいないだろうか。?
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