世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
リーダー
状況を見て先を予見してヒトをリードするヒトをリーダーとするなら、地球にリーダーはいるのか?と疑問になる。温暖化への対応を見るまでもなく、産業社会そのものが不適応を来たし、仕組みを変える以外にないのにリーダはそのメッセージを発しないで、世界も日本も「後手後手」の話ばかり。
最近、「先手」を打ってどうしたという話を殆ど聞かない。
勿論、スポーツでも企業でも各分野でリーダーとして活躍している人も沢山いる。ここでは(日本や世界の政治や経済)と言う単位のリダーの話である。
現段階でのポーランド首相の五輪開会式欠席
中国のチベットへの対応に圧力を掛けているようだが、これまでどれだけ外交努力をしたというのだろう?
我々は職場で誰であれ、嫌な相手を敬遠して旨く行くことはない。
どちらかと言えば感情をこじらせ、解決を難しくすることが多い
国際的な外交だって所詮人間と人間。
ポーランドは一方的に他を非難できる立場にいるだろうか?
中国のやり方に問題があると思う、だからこそ取り巻く国の外交力が問われるのではないか。
これまでも、こういうやり方で失敗した例は山ほどある。
雨戸を開けた
「大嫌いな学校」
3月25日午後1時ごろ、時東京板橋区の小学校6年生が、卒業式を終え帰宅し、飛び降り自殺した。卒業式の呼びかけで、台本に書いてある「僕は学校が大好きでした。」のところを「僕は学校が大嫌いでした。」と言い換えたと言う。あの式場で、大声で言った本人の心の中が想像され、可愛そうだが、今この心を大人は真面目に、真正面から受とめてほしいと心から願っている。それは、自分の長い教師経験で、あまりにその子供の心が分るからだ。今の学校なら多くの普通の子供がそう思うのは自然だと思うから。私がいま小学生だったら、不登校になるかどうするかとにかく似たような気持ちになっていただろう。2~3日前に高校3年の男子が卒業式を終えた後、ホームから人を突き落として殺した。本人は「人を殺せば、刑務所に入れると思った。」と述べている。土浦ではやはり24歳の青年は、居合わせた人を殺傷した。 覚悟の犯行だったようだ。 これに似た事件が度々起きるようになって久しいが、事件が起きるたび、 精神科医や大学教授などの専門家が登場しあれこれ解説し報道するが、結局「世の中や大人がおかしくなっている。」といいながら、事件の背景や因果関係がいつも曖昧にされてきた。(結局は今回も同じだろう。) 世の中や大人がおかしくなっており、責任がある事に気付くのは専門家でなくても誰が考えても当たり前のこと。問題はその先どうしたか?である。具体的に背景や因果関係を追及しないから、直す方法は出てこないのも当たり前。こういう事件があるたび、登場する関係者やそれを伝えるメディアのうわべだけの無責任な態度に、暗い気持ちと憤りの二つの気持ちになる。 子供を何だと思っているんだ!真面目に取れ上げよ! 先ずはその子に寄り添っていた人がいたのかどうかを探し出せ!一人もいなかった現実の認識からしか話は始まらない。
自殺した学校の校長さん、子供にわけを聞いて何も叱らなかったと、自分に責任が無いかのようにのうのうと言うあの神経と、その事をこともなげに報道するメディアとそれを受け取る視聴者(読者)の感覚は、おかしくないか?
死んでも浮かばれないとはこのことだ。
物・貨幣・信用
経済が【物】と【信用】で成り立っているとすると、【貨幣】は物と信用を取り持ち、その間を大きく行ったり来たり移動する。今世界の貨幣は極まった信用(物欲?といいたいぐらいの)不安から元いた物へ移動しているようだ。ヒトの信用(欲)は簡単になくならないから、いずれ信用(物欲?)へ移動する。しかし、貨幣は同じ価値で戻って来ることは無い。駄洒落的に言えば1度信用を落とした貨幣は(どっちが落としたかは分らないが)、合わす顔が無いから、価を下げて戻ってくる。問題はどれだけ下げるかだけ。
チベットの「騒動」?
次の時代
現在の「資本主義」の言い方がどうなるかはどうでもいいいが、現在の経済社会がいつまでも存続することはありえない。(勿論社会主義や共産主義になると言う意味ではなく、今とは別の価値観に基づく仕組みが作られることになる。)
変わりようが「発展」というか、「復興」とか「再構築」と言うかは別にして内容的に変わらざるを得ない。それは生物として適応機制が働くから。
今、考えられることは、少なくても
①温暖化の制御
②地球と共生できる産業構造の変換
③理と利に合わない戦争などの無駄に対する社会的認識の
広がり
④自然や社会対して理(科学)の価値観のベースにした多様化
※で補足
⑤人間関係やコミュニケーションの回復と広がり
どこでUターンするか分らないが、仮にどんなにリスクを払っても上記のような変化が出て来れば、終戦後のように、世の中の明るさと、子供の目の輝きを取り戻すと思う。 是非そうあってほしい。
※全ての現象は因果の関係にあると言われる。
その関係を解明するのが科学だろう。
全体からすると人間が科学的に解明できるところはほんの ご く一部 かもしれない。
だから、全てを科学的に解決出来るものではないが、基本的な姿勢または価値観として、尊重される社会であってほしいと思う。
私が職業として関わった教育では、どこへ行ってもほとんど≪科学としての教育≫ に市民権は無かった。
教育でも経済でも政治でも能弁家や学者は沢山いるが、科学者らしいと感 じさせてくれる人が、あまり見当たらない。 「アピール力」と「理に合っているかどうか」は勘違いしやすい。
今日の教育・経済・政治の問題は非科学的なやり方による科学的な結果と言えなくも無い。
なるべくしてなったまでのことである。
資本主義の行く末
戦争ほど無駄遣いは無い
秋田児童連続殺害判決
今日、秋田地裁は被告へ無期懲役の判決を言い渡した。裁判長はその判決で、被告の(心情に汲み取るものがあり)極刑と断じるには躊躇せざるを得ないと判決理由を述べたと報道し
ていた。「躊躇」という至って人間的な感覚が判決に作用したと述べたことにほうとし、共感した。世の中、どこか殺伐とし人間的な感覚が乏しくなってきている昨今の風潮からだろう。どれだけ法や理屈を並べ立てても、人のもって生まれた良心ほど優れた感覚は無いとかねがね考えてきた。良心を守り発揮するために法や制度そして学問や権威もあるはずなのに、現実は逆転していることが多い。判決全体の文脈がどうだったかは分らないが、補足的であっても転倒しない≪人間らしい判断≫が述べられていたことに、救われた気持ちになった。
(教育行政の中枢に、この心があったら、今日のようなことにはならなかったのにとつくずく思う。)
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