事実と意識

人は事実そのものを認識し意識することは出来ない。そこには必ず多少のズレがある。人はそのように出来ている。
ズレの違いは経験や知識や感性等により異なる。
だから一つの事実に対しても意識は人によって異なり同じであることはありえない

それは人の多様性であり豊かさのもとにもなるから問題はなくむしろ喜ばしい。
問題は事実と意識のズレの大きさである。言葉によってさらにズレは大きくなるが、
事実をめぐって意識
変容のコントロールが困難な場合である。議論は立場やプライド、自己主張がからみコントロールが難しい。もう一つ問題なのは、自分自身、事実と意識が一致しているかのような錯覚に陥りやすいことである。「病」は自力で意識をコントロールしたり、事実と意識の違いを区別が出来なくなった状態を指すのかもしれない。
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終戦記念日

終戦記念日の昨日,新聞・テレビはどこも特集を組んでいた。首相が靖国へ(行った。行かない。)からNHKも憲法9条(改正?)の是非を問う超特番を組んでいた。新聞やテレビで私の目にした主張は是非を問わずどれもしっくりこなかった。
 NHKの特番は賛否双方が「アレかコレ」かの狭い2項対立の内向きの主張だと思った。(賛否双方の論者に地球温暖化に立ち向かう自衛軍や防衛軍・地球の集団自衛権や安全保障のジョークでもいいから聞きたかったが、その余裕の一つも
ない。やけに目がすわってる。2項対立の構図は司会・進行の中に仕込まれてもいた。)
 地球全体を月から見た俯瞰図を目の奥に据えて論じている人が私には見当たらなかった。アポロ飛行士は月から地球を見て「地球は青かった。」と言った。今も同じだろうか?
 ボウと見ていると殆どは同じかもしれないがよく見ると違っているはずだ。
 陸地が狭まり、消えて無くなりそうな島がある。人々の住む陸地も、緑は減り茶褐色が広がっている。雲の流れも激しくなる。どう見てもそこに済む生物、とりわけ人間はどうなるかとまずは心配になる。更に、拡大してみると、豊かそうな北半分は老人が増え、元気のいい子供や若者の姿が減っている。南半分は、子供の数は多いが病気や飢えでバタバタ消えていく。誰が見てもそう見えるし、その事が気になる。40年前のよ」うに暢気に「地球は青かった。」と言えないだろう。
 その当たり前の事を念頭にした論評や主張を誰からも感じることが出来なかった。要するに、今地球人が身を守るため最も必要なことは武力を持つとか持たないと言うことではない。
 月から地球を見ていると、どっちも暢気で自分の置かれている状況を見ているとは思えない。月から見ているとそれどころの話ではないはず。
 今日も庭にすずめが来てる。すずめは周囲を警戒しつつ餌をとっている。すずめの子供も同じ様にしている。外敵も餌をとることも子供を生むことも一体のものとして、その時最も必要な事を素早く行動する。今、人の生命を危うくしているのは、国と国の間の紛争時の事にかまけている場合ではない。
 月から地球を見ていると、戦争して勝っても負けても両者が危機に瀕することになる。地球人にとって最も怖いのは外国からの攻めではなく、壊れていく地球と自滅する自らの在り方ではないか?まさに戦争は(昔と違って今は月から見ると、勝っても負けても)人間の自滅の姿でしかない。
 よく「現実を見れ」と言う。その通りだが、何が現実か?

 「地球が壊れる。人類の自滅。」と少々オーバーに書いたが,私はこのことが将来のことだとか仮定のこととしては考えられない。今日、身の回りで日常的に進行していると思う。その具体的なことや目印は数限りないが、平和で繁栄していると誇示する国が毎日90人からの自殺者を10年も出し続けている事実一つ見るだけでも十分ではないか。このことは、経済成長か格差拡大、とか戦争か平和と論じている場合でないことを意味してはいないだろうか。

 生命や家族を脅かすものは戦争だけではないことにそろそろ気が付いてもいいと思う。
 月から地球を見ていると、こんなことは誰でも、まず始めに気が付くこと。連日暑さに鍋ガエルをどうしても思い出す。

夜、月が出ていたら月の青さを仰いだ後、

「月から地球を眺めてみよう。」昼間、庭先のすずめを見てその機敏さを「すずめから学ぼう。」と終戦記念日の昨日、改めて思った。

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続・続「すずめの子」

親心の良し悪しは、すずめが寄ってくるか遠ざかって逃げていくかで分る。私のは失敗。
 子供の学校はどうだろう?教育改革とか何とか言って、国はずーと教育政策を掲げ、全国の学校を権力も使い指導してきた。小中学校の不登校児童生徒数は12-3万人。ここ10年減らないどころか、全児童生徒数との比率では増加している。おまけと言うか、この間に、軽度発達障害児童生徒数も、不登校数かそれ以上に発生している。国は今後この数も数倍増加すると自然災害のように予測している。要するに子供は学校から遠ざかり逃げ、おかしくなる子供は増えると他人事のように予測してみせる。

 国の政策は自分勝手な親心と似ている。間違っていても強弁し止めないどころか、(ご馳走?)を増やしている。最近は不登校の統計の内訳を公にしない傾向にある。
 我が家の庭先に来るすずめは、ご馳走を引き上げたら、少しずつだが、庭先に戻ってきた。
 学校は上司から指示される御馳走(子供にとっては怖いものかも知れない)をばら撒くだけで、後は野となれ山となれ。是非のチェックもしない。
 すずめのことはすずめを見れば分る、子供のことは子供を見たり、子供の声に耳を傾けると分る。ただそれだけでいいのに、偉い人たちはそこだけ目を向けず、耳を傾けない。

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続 「すずめの子」

庭先に来るすずめの子も、だんだんなれ家に近づいたり逃げないで食べているすずめを見ていると、つい「ご馳走をしてやろう」と言う気になってしまった。
 近所の八百屋さんで値段の高い方のみかんを一皿と、りんご1っこ、桃を1っこ買っていそいそと帰ってきて、それらを輪切りにし、庭先に食べやすいように置いた。そうしたら、翌日もその次の日もすずめは1羽も下に下りてこない。高い電線に2~3羽止まるが、1羽も1羽も下に
降りてこない。斥侯しているのかと思うぐらいだった。
 妻は、あんなに派手にやったから怪しんで近づかないんだと、嬉しそうに言う。3っ日めの朝、どんな鳥かは知らないが、今まで聞いたことのない、美しいが鋭い鳴き声が暫く聞こえた。それがすずめの来ないのと関係あるかどうかは分らないが3っ日めもすずめは殆ど近寄ってもこない。
仕方なく、夜になって、ご馳走は全部回収した。ありが群がっているだけだった。
 翌日から、すずめは少しずつ下に下りてくるようになったが、以前より遠巻きにしているようで、前のようには近づかない。
 「親の心(すずめの)子知らず」と言うが、すずめはきっとこの2日間怖かったに違いない。自分勝手な「親心」を押し付け申し訳なかったと思う。早く心の傷を癒して前のように近づいて来てほしい。(ここは逃げなくていいんだよ!それにしてもこの間違いを私は自分の子供も含め、私は何度やったことか。ふむー)

 

 

 

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すずめの子

年寄りの自分は、暇にまかせて、時々、ベランダの向こうにお米やパンくずをばらまいている。すると、すずめがよく来て食べている。だんだん増えて、10羽を超えることもある。多くはこの春生まれたような小さいのが多い。それにしても警戒心が強く、お米を一粒ついばむと、キョロッ キョロッ と辺りを見る。私が部屋の中で、すずめの方にちょっと顔を向けると、一斉に飛び立って逃げるから、できるだけそうと、横目で見るようにしている。それでも影を感じてか逃げられることもある。最近は1~2羽逃げずに残って食べているのもいる。すずめもなかなかの個性の持ち主だ。すずめを見ていると、身の危険と食べ物と繁殖の3つの営みを超高度な感覚でこなしているように見える。3つの営みを「身を守る能力」とまとめて言うと、この性質や能力はどんな生き物も持って生まれた本能だろう。人間も同じはずだ。 しかし人間のこの本能は今、どうなっているだろう?どう見てもすずめのように機敏ではない。子供はまだしも、大人になるにつれ、私のように老人になるとなおさら逃げ足も遅くなる。
問題はそういうことではなく、世間的に言う成長発達と身を守る能力がちぐはぐでがんばればがんばるほど、身を守る能力が弱まっていくように見える。子供から老人まで、社会が作り出した画一的な能力や価値観を求め押し付け評価しているようだが結果は、本来の「身を守る」から次第に
離れていくようだ。人は社会的に成長発達して生き物を止めて何になりたいと考えているのだろうか?21世紀の人類にとって戦争ばかりでなく、環境や資源同様、社会の在り様そのものが平和だけでなく生き物としての人間の存亡をも脅かす重要な課題であるはず。

すずめの危険を察知能力と逃げ足はたいしたものだ。
臆病なすずめだが、可愛くも羨ましくも見えた。

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