世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「出来の悪い中学生」
こんな言い方は好きではないが安倍政権の面々を見ているとなぜか「あまり出来の良くないい中学生」を連想する。
理由は 自分でもよく分からない。
結果は科学的
弱者が自らを痛める政策を支持することによって成り立っている安倍政権も1年持つか2年持つか分からないが、内外的な壊れようは覆う術もない事態に至るに違いない。
歴史的な時代転換の期にあっては 崩壊や破壊も意味あることかもしれないが、企てる政権と支持する多くの人々の目論見や期待とは逆の結果になるだろう。
政治はある意味の社会実験であり、結果は現状や時代との関係で科学的に出るのであって、目論見や期待に合わせるような非科学的に出ることは無い。
国際問題も同様だが、世界は国際政治の名で科学性の乏しい実験を繰り返している。
手の内を明かさない支配者
人間社会は民主主義であれ何であれ手の内を見せては支配は成り立たないのかもしれない。
今回のアルジェの事でも、安倍のミックスも全く腑に落ちず,意図の全体的なイメージが描けない。
そんなことがあまりに多いから、支配とはそう言うものかと思ってしまう。社会が納得しているかのように動いているのが不思議でならない。もし、分からないのに分かったかのように振る舞っているとすれば、私たちは「裸の王様」の町の人を演じている事になる。 誰でも良いから見えない物は見えないと、あの子供のように言えるといいのにと 思ってしまう。
伝えられない新植民地主義
「新植民地主義」は死語になったのだろうか?
私は高校の「社会科社会」の教科書で「新植民地主義」を教わった。あれから50年以上もたつが新植民地支配が無くなったと言う情報に接したことが無く、むしろその実態を映画や小説を裏付けるような形で紛争やテロの言葉を用いて世界のあちこちで継続的に展開されてきたように思われるのだが…配信され世界を覆うマスコミ情報は全くそれに触れないから、頭の中の絵がまとまらないだけでなく、教科書で教わった時とは違い、いつの間にか自分たちが支配する側に立っている。
どんな社会的事象も原因や背景がある筈だから、それも合わせて報道して欲しいものだ。それとも都合の悪い事でもあるのだろうか?
根源的誤り
世界のいかなる宗教も盗みや殺しを禁じているのに、世界は公にそれを破り、お金儲けに狂奔している。
別に宗教でなくて倫理や道徳でも良心でも愛でも良いから、お金より意味あるものをその上位に置いて考えることは人間には無理なのか。
世界は自ら(人間)の生命よりお金を優先し、輪をかけてお金を増刷する愚。
罪や煩悩の赦しを乞えば良いのか。
原理たりえない原理
生物的にそれほど強いとは言えない人間が弱肉強食の競争を原理にして行動すると、論理的には立ち行かないと思うが、今の世界はそうなっていないだろうか?
個人であれ企業であれ国家であれ、仮に人間同士の間では成り立つとしても、存在の大元になる地球や自然に対抗するのは自己否定を意味し、
勝者はあり得ず、人間中心の弱肉強食の原理そのものが原理たりえない。
バブル(泡)と若気の至り
ここに来て、世界も日本も株価が上昇し財界・政界・学会‥等マスコミの論調は歓迎し、喜びムードである。
世界経済の実質は縮小を続け経済見通しも下方修正が続く中で何を考えているのだろう?
20年前の日本のバブル、5年前のアメリカのバブルが弾ける寸前は共に史上最高の株価を記録していた。弾けた結果、日本の株価は5分の1、アメリカが弾けた時は世界が巻き添えにし、日本の株価でさえ3分の1に急落した。
今の株価は半年後の経済を予測する目印ではなく、経済の危険を予告する赤信号の意味合いが強い。
(専門家)でない素人判断だが、バブル(泡)の意味が解からない人に大きな声で経済を語ってほしくはないのに、エライ人たちは何時までも意味ありげに
ペラペラぶっては同じ事(バブル)を繰り返す。 やってる方は夢中だろうが付き合わされる人は大変ではないか。
(専門家)(学識経験者)の肩書で公平・中立の立場を装うから始末が悪く、誘導されても仕方ないとも言えるが、戦後の日本の実態経済を経験した
人たちには【若気の至り】は許されまい。
お金の支配力
世界は歴史の産物である新植民地支配で覆われているが、大元は各国の経済を担っている経済団体が実質的に政治権力を握り内外を支配しているのか
もしれない。
「地獄の沙汰も金次第」と言うから、当然と言えば当然だが長いこと気が付かなかった。
教科「頭の使い方」
仕事上子供たちに色んなことを教えてきたが、肝心の頭の使い方を計画的に教えてきた記憶がない。
仕事を終えて、周囲を見渡すとさほどど変らない。
またまた起きたマリやアルジェリアの内外の報道を見るにつけ、改めて考えさせられた。
人間が頭をどう使おうが勝ってかもしれないが、現代社会の出来事を見ていると、手足や色んな物の使い方同様、頭の使い方も計画的にきちんと教えなければいけなかったんだと つくずく思う。
義務教育の時間割の中に「頭の使い方」があったら、世界はもう少しましになり分かり易かったに違いない。
« 前ページ |