世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
現状と教育原理の認識を欠く安倍首相の教育観
今日の国会で首相は質問に答えて教育観を述べていた。
簡単に言うと美しい国づくりのため、モラルや自律心を育てると言うものだった。
言葉だけで言えば私も全く同感である。唯、教育だけではないが、物事は現実の状況によって同じ方法でも意味が逆になり、目的と反対の結果になる。このことが分っていないようだった。
前に、教室における法律(決まり)の限界を書いた。モラルや自立心は相対的に決まりを重視・強化するものだが、今日の教室はそういう状況にはない。(前のブログでその一端は書いた)
もう一つ現状や教育科学に反するのは、教育は『教』と『育』によるのだが、首相の認識は(実は首相だけではなく、政府や再生会議、野党も同じ間違いをしているようだが)殆ど『教』だけの発想になっている。(教育再生会議の提案始め、3法案も同様)実際の子供は『教』と「育」の両者がかみ合って発達し成長する。しかも『育』の部分が全体の発達全体のベース(土台)になっている。
現在すでに子供たちの多くは(育)の部分の発達が保障されず侵されている。その結果多くの教育問題を発生させている。(我々の育った時代と育の部分を思い出して比較して見るとよい)今のアンバランスを直し本来に戻すのがが急務なのだが、現在の逆転を認識することなく、さらに強めようとしている。
何故こんな間違いを犯すか? 首相だけではないが、年寄りが自分の子供時代の子供をを脳裏において考えて対策を考えているのに似ている。子供の暮らしぶりは既に大きく変化し、ルールをさらに強化して良いほどの内面的な余裕はない(最近の幼児を含め子供の変化をみれば誰でも分る)ことが全く認識できていない。風をひいているのに、「子供は風の子」だと言って外へ出すようなもので、乱暴極まりない。躾や教育には順序がある。
もうひとつのまちがいは、立場優先の発想の結果、国の権力者は責任を問われるせいか、自分が何でもかんでも、教育上のことも分っていて説明できないといけないと考えているようだ。はっきり言って「分るわけがない」教師を40年やっても『私は子供のことがすべて分っている』とは言えないし簡単に教育は論ぜられない。(教育は子どもによって方法は異なるから、政府のようにいっぱ一からげで言うことはできない)もし言ったとしたらそれだけの教師でしかない。政府のやり方は、自らから批判しながら、進めてきた、画一的指導の典型ではないか。総理は非常に軽率だと思う。そのぐらい教育は奥の深いのである。この世に何でもわかって何でもできる人間は一人もいない。総理に必要なことは、何でもわかったように答えることではない。全体的な情報を把握して、全体を見て判断することではないか。分らないことは正直に自分より知っているだろう人に聞けばいい。(再生会議などは同調者ばかり集めているので議論しても意味がないが)最高権力者(最高責任者)はそこを勘違いしやすい。本気に改革する気なら、面子に拘らず、子供の現実を知るため、子供や現場で仕事をしている人からもっと情報を集めた方がいい。政治家や政府機関の人は、
始めから同調する都合のいい情報だけで済ましているきらいがある。自分たちに少々都合悪くても、全体を把握するための情報収集をしているとは思えない。(話の深さで分る。)
何故なら不登校や、発達障害児、いじめなどのの増加の様子や実際の状況や背景や原因などの情報を得ていれば、今のような、薄っぺらな説明にはならないはず。今の説明は、教育に無関心か、昔のことしか頭に浮かばない年寄り用の気がする。
実際は今日のように教育を再生しなければならないところまで来てるのに、お上の言う薄っぺらな話が、国会も、世間も通るからこれまた不思議だ。
女性は「子供を生む機械」
一つはあの大臣の年代ではあのような会話は一般市民の中では普通に多く見られる。もっと大事な2つ目は、日本の現状はあんな言葉でがたがたしている余裕は?あるだろうか?である。
前国会のやらせや、いじめ自殺、未履修など、の行政責任はいったいどうなったのか?75日も経たないうちに、にチャラなる。
解決せず次々話題を変えるだけ。この態度自身が政治そのもを不真面目にしている。何を言うかより、どんな政策を実行するかがもっと大切である。
教育政策のようにさらに悪化させるような政策を法制化し実施しているような今日
問題はあれこれいっぱいあるが、最も深刻な事柄の中心をはずさないでほしい。
私は1、子供の危機であ2、に地球の危機だと考えている。
全政党がこの中心完全にはずしている。
どちらも現実把握がとんでもなく出来ていない。何を見て政治をしているのかと本当にそう思う。
ことばと法律で誤魔化す政治の分野で、言葉を間違えた担当大臣はボケているとは思うが、それにこだわる与野党が裏返しの姿に見える。
映画「不都合な真実」を見て
この映画で大いに励まされた。
世界の状態を見て、ふと自分の悲観的な思い込みではないかと、しばしば不安になることがあったが、この映画を見て密かに市民権を得たようで、ほうとしたのも実感だった。
環境問題は 深刻にもなる話だが、ゴア氏の政治家の素からか、ユーモアを交え明るく、しかも地球規模のデーターや現実の変化を心をこめて真摯に語っているのが、映像ではっきり分った。
「今なら何とかなる」という具体的な根拠も示していた。最も心に残ったメッセージは、このままいくと、今いる子ども達が我々の年になる頃(私より10歳ぐらい若い)地球は人類が生き延びられるかどうかを問われる大きな危機に迫られる。子ども達も一緒に『地球を残してほしい』と訴えてほしい言うメッセージだった。
ゴア氏をこの行動に突き動かし、身を投じさせたのは、自分の子どものだったし、地球を救うよう訴える主体に期待しているのも子どものようだった。これも当然でで理にかなっていると思う。
私もブログでも時々使わせていただいた【鍋ガエル】の話が出てきたのも親しみを感じた。
自分に残された時間の意味をよりはっきりさせてくれたようで、すっきりした気分になった。「面白いとか」「感動した」をはるかに超した、自分のあり方を理屈抜きに問う映画だった。
私は近くの府中市で見たが、お客さんは閑散。京都議定書を批准しなかったアメリカでさえ予想外のブームになったと言うのに、この違いは何だろう?また、日本にこの分野で
(まじめに、熱心にメッセージを出している人は知っているが)強い影響力を持ったリーダーを思い浮かべられないのはどうしてだろう?この違いは何か?
「法律の限界」と教室
昨日に引き続き、「法律の限界」を自分の教育実践の経験から述べて見たい。
長年多くの学校で通常と障害児教育に直接関わってきた。出合った全ての学校と学級で、そして自分の学級経営の経験で言えることは、学級に多くの決まりを作る先生で、いい先生はいなかったし,いいことは無かったということ。
勿論これは私の勝手な評価になるのかもしれないが、どう見ても子どもや保護者も、同僚からも口にするかしないかは別にして、その見方はは共通しているようだった。
私自身も経験をつんでいくにつれ、学級のルールは意識的に減らしていった。学校や教室に全くルールが必要なくはない。登校時間から、学校の生活時程、時間割など最小限は必要になる。しかし、通常、どの学校も頭を傾げたくなるようなルールがいっぱいある。(一度見てみるといい)各教室では担任がどの時間も多くの決まりが『約束』と言う名で一方的に強要される。一見見た目に、担任が細かいところまで行き届いているかに見える。問題はその結果との関係である。
私の見・聞きした全ても、自分の経験も全て、ルールと教育効果(学習効果)は反比例だった。(今は、一つの例外も思い出せない)
これは原理的には当然な事でもある。学習は主体の子どもが、どれだけ自覚的・意識的になるかが大切で、ルールにしてしまうと、先生は安心するが、子ども自身の自覚的な意識のレベルは反比例的に下がる。その分、子どもの学習しようとする力は下がり、結果として学習の成果(教師から言えば教育効果)はさがるのは、当然なこと。
この関係は国と学校・教師・子ども、も同じだろう。国はどこまでルールにし、どこから任せるか。現在教育上の問題は過剰なルールにある。(本当はここで細かな説明が必要だが、長くなるのでここでは省く。ただ今日のようなメディアきゃペーンを先行させ法制化するのは教室も同じで、ルールを増やすのを正当化する一般的な方法。同様のやり方は、行政の他の分野でも多く使われている。)そして今回、そのルールを上積みしようとしている。
直接子どもにかかわり、担任する教師から見ると、全く出来の悪い、指導力のない不適格先生のように映る。これは私だけの個人的な感想だろうか?調子に乗って言わせてもらうと、指導力のない先生が、他の先生の免許云々をする。ここでも、他の多くの場面で見られるような倒錯(価値観の逆転現象)が見られる。これは単に立場の上下・左右の問題ではない。どんな人も子供のころを思い出せばば分ること。またスポーツでも芸術でもあらゆる分野で、優れた指導者は、ルールにするところと、任せるところの区別が卓越していないかを見るといい。少なくても学ぶ立場の意欲を削ぐような指導者はいないのではないだろうか。一郎選手を育てたおおぎ監督などは自分のスタイルと異なった一郎のスタイルを『それがいい』と誉めそやしたらしい。
人を育てるのは自分の価値観を単純に要求することではないことを、国の指導や行政に携わる人達にはわかってほしいものだ。この人たちが、教室でクラスの担任になると、子どもたちは、小学校1年生でも2~3日もしないうちに『最悪~~』と言って見破るだろう。
大人が情けない。
法律の限界
教育基本法は前国会で改変され、今国会では教育3法案が準備され、夏の参院選では憲法の改変?が争点になるらしい。
法治国家で国権の最高機関が立法府だから国のことを考えると当然と言えば当然である。
ところでこれらの法律は万能なのだろうか?
法律も自然の法を超えられないことは以前このブログで書いた。
ここでは人が生きるときの細かな営みも法律は及ばないことを書きたい。生まれたての赤ちゃんへのおっぱいのやり方の法律があったら大変な結果になる。
人が生活する時、法律ではどうにもならない、法律を作ってはいけないもの意外にに多い。
法律は法と人の自立的な営みの間にあるだろう。その中間的な法律もさらに多くの限界をもつ。
パチンコをして、お金に換えるのは違法だが、実際は日本中どこでも、「景品交換所」によって合法的に換金出来る。売春禁止法があっても、全国どこにもそのお店はある。合法的に売春されているのを知らない人はいない。
法は組み組み合わせると、法の名によって破ることが出来る。にもかかわらず世は法作りが盛ん。法は正義、法治国家、を建前にして出来ているが実際はそれとかけ離れたものが多い。法律はどんな目的にも道具(ツール)として使われる。この仕掛けとしては手品や、詐欺も似ている。
国民も為政者も法律の限界を知るべきで、法に過剰に期待したり、やたらに法を作るのは慎しんだほうがいい。
自分の理性や感性のある構想が問われている。
[教育三法改正案]国会に
これは、今朝の朝日新聞1面トップの見出しである。
「改正案」と言うのだから、見なくても中身がいいに決まっている。
メディアが従来良く使ってきた、語感で読者を肯定的に刷り込む世論操作の常套手段。全てのことが改正と言う名の連続の結果、今日に至ったのではないか。法を変えるとき「改悪」なんて自ら言う人はいない。メディアはそのことを知ってのことか。
以前、再生会議の委員の構成や7つの提案については概括的に教育の原理に反すると述べてきた。ここでは法案化する中の1例だけ取り上げて見たい。
学校への、外部の評価・監査機関の設置についてである。一般的には外部からの評価は公正で意味があると考えられる。しかし、現場では戦前戦後、現在も権力を持った機関は全てだとはとは言わないが、殆どが現場へ入るときは支援ではなく教育的には不当な介入だった。
ここで言う不当かどうかの基準はもちろん子どもにとっての教育上の是非である。教育は子どもの心や人格を育てる営みである。(これは基本法1条。)
外部機関が、登校してくる子どもの心が分からなくて評価できるだろうか?の問題である。
心どころか、顔も名前も知らず家庭環境もその子の性格や能力も知らない人たちがどうして評価し判断できるだろうか。
従来の失敗の原因もそこにあった。家庭に置き換えて考えると分りやすい。各家庭のやり方や親子関係を外部から、簡単に口出しできるものではない。(勿論必要な場合もある)
親が陰になり日向になって子どもを育てる。だから親子の気綱は強く、それを力に子どもは育つ。「教え子」と言うように、(親のようにはなれないが、)子どもと教師には親子と似たものがある。信頼関係の中身は、他言できない。ある意味で、プライベートなものがある。
例えば、集金である子どもが持ってこなかった時、その事情はいろいろある。担任はその事情をどうして、外部に話せるか。勿論話せる場合もあるが、子どもや家庭との関係で話せない場合も多々あるのが現実。法的にだけ考えても、守秘義務もある。子どもとの信頼関係は、法的以上に測れないものが多い。学習や行動面でも、宿題一つ忘れてきても、背景に人に言えないような原因があるのは、むしろ普通である。
にも関わらず、そこに、権力を持った外部機関が踏み込み外形的に判断し評価する。勿論不可能とは思わないが、良かった例は評価や監査と言う権力機関ではかつて殆ど見たことがない。
私自身、そんな経験はいくつもしてきた。例えば、対人恐怖で私以外の他人とは一切話せない子どもを受け持ったことがあった。指導機関から指導に来て、観察のため教室に入ってくるや、その子はその観察する人のの顔を見て、教室から飛び出して行った。その子は、奇異な目で見られ、そこにいられなかった。放課後、私はその人に、非難され、命令的に一方的に指導された。この場合など、その人の観察そのものが、教育的かどうかが問われている。私がその指導に従ったら、100パーセントと言っていいほど,その子は学校にこれなくなっていたと思う。その子を守るために教師の進退が問われる。
そんな話はどの学校現場にも、言い尽くせないほど、書きつくせないほど、山ほどある。
一方良かったのは権力を持たない父母や友人、研究者など、権力を持たない人たちの意見や感想は力になり助けられることが多かった。
昨今、家庭の中にも土足で入り込む風潮とあわせて、この無神経さは『どうしたことか?』と呆れる。
新聞であのように報道すると、それは「いいことだ。」と受け止め、「やがて良くなるだろう」とか、「あまり関係ない」と、思う人が多いだろう。ことがらはそんな暢気な話ではない。今日明日ではないが、嫌が応なく、「わが子、わが家庭」に遠からず関わってくるはず。
大人の学力(判断力)がこんなレベルで国や機関、メディアから、そして攪拌された巷のおしゃべりの中でさえ、問われている。そのこと自身、大変で悲しいことだと思う。
こう言うときにこそ学者や専門家、「先生」と言われる人たちがいると思ってきたが、その多くの人たちも既に、「わが子より自分」と価値観がひっくりかっているようだ。
今出ている教育政策を並べられたのを見て、または論議の様子を垣間見て、どれ一つも子どもを中心とした視点が全くと言っていいほどすっぽり抜けている。子どもの抜けた教育論議の結果の政策だ。
今までそうであったように、そんな政策は、さらに子どもを困難に追い込むだけ。現在の結果を見れば分ること。
いじめや自殺でわいわい言っているが、実際、現場はそれどころではない。
全国に不登校の小中学生が12万人からおり、高校中退者が年間10万人、養護学校や障害児学級は対応できないような異常な増え方をしている。文科省の今後の予測は現在の2~3倍。誰でも必ず近所には該当者がいるはず。数字的に見ると、今後は2~3倍以上はみじかになるはず。予備軍も含めると影響されない子どもはいないはず。
原因は100パーセントとまでは言わなくても、ほとんど人為。
このような社会現象を自然現象のごとく結果だけ見て、対応する今回のような教育政策で悪くなっても良くなることは考えられない。
何故教育論議が、子どもを中心になされず、権力中心になるのか。するのか。
誰でもが子供の時代はあったし、多くの大人は子どもを持っている。この異常さを想像するのは、知識や経験もさほど必要ない。政治的な立場もあまり関係ない。
いい親は普通のことを普通にやるだけ。
政争の具にすること事態、おかしくないか?
本音の本音
前の日記で、私にとって大事なものは、究極的に地球と2人の娘で、両者は一体と書いた。その後、さらに突っ込んで、考えた。
仮定の問題だが、最終的の問いとして地球か娘かと自らに問いかけた。最後に残るのは娘だった。妻にも聞いてみると、やっぱり娘だった。
恐らくこの価値観は人間の、動物の、生物の生まれ持った性質であり本能だろう。究極的に親は自分の命より子どもの命を優先するのも本能的な価値観であり、選択の優先順位ではなかろうかと思う。
自分か地球かの優先順位は親としては娘の立場で考えるから、当然地球と言うことになる。だから価値観の順位は
1、子ども
2、地球(自然や人類等全ての生物を含め)
3 自分
大人がこのの価値観や選択の優先順位を前提に人間の全ての営みが行われるのが本来だと思う。(ここで間違ってはいけないのは個人主義や「天上天下唯我独尊」の名で、順序が入れ替わったり矛盾するものでないこと。)
現在政治を始め経済や教育など身の回りの多くがこの前提を欠落させていないか。自分が他の2者に優先されていないだろうか。
子どものいない大人もいるが、前提は子どものいる人と全く同じ。誰にも自分を生んでくれた親がいる。どの親も上記の価値観を熱望していたはず。自分はその子どもである。相互の関係に違いはない。
この当たり前のことが、多くの大人が学者が政治家が【先生】と言われる人たちの多くが、忘れている。
もし、先に書いた当然のことが押さえられていたら、(多くの人は突拍子もなく飛躍して聞こえるとは思うが)
世界中が経済の市場優先の拡大路線をとったり、最近の教育再生会議の提案のような権力や大人中心の教育政策は発想されないだろう。
暢気すぎるきらいはあるが、ゴア氏(元米国副大統領)の言うように地球の温暖化同様、自分の子供を守り、親の自分への思いに応えるのに、『今なら間に合う』だろう。
この当たり前のことの分る大人が目の前の人を始め、一人でも多くなり、そのことの分るリーダーが、世界や日本に出来るだけ早く出てきてほしい。
当たり前のことを 思い出すだけでいい。
地球上で最も大事なもの(本音)
地球と娘はどっちとも言えない、一体でどっちも大事。
思いは、皆 同じだろ!
自分の命はどうせ、地球に戻るから、地球と娘がよければいい。それだけでいい。
元米国副大統領 アル・ゴア氏、曰く『危機はチャンス』と。ドキュメンタリー映画【不都合な真実】は 是非是非 見たい。
地球で何が起こってる?地球が怒ってる。
これは毎度おなじみ、おやじギャグ。
人間がただ一つ存在すると考えられるこの惑星では、その人間が欲とお金を求めて地球を掘り返し燃やしてしまうので、地球は我慢ならんと怒っている。
マネーゲーム中毒で「にっちもさっちもいかない」が私の現代の地球観。
今や人類がまず始めに向き合い、相手にしなければならないのは、仲間内ではなく住んでいるこの地球そのものではないか。子どもも、大人も、経済・政治・文化など全ての分野に言える。
地球が怒ったら、従来の経済・政治・文化は壊れ、欲やお金も意味を成さなくなる。かつての終末的な空想のようだが、昨今、国の内外で起こるある限度を越えた様々な出来事を見ると、どうしようもない地球の怒りが静かに迫って来るような気がして仕方がない。
寺島実郎さん(日本総合研究所所長)が言うように、この惑星のグローバリゼーション化制御のため、国際的システムの構築が急がれるだろう。それには、リダーの広く深い構想力が求められていると彼は言う。(暗に現在のリーダーは備えていないの意)
夏には参議院選挙があり憲法や経済格差など今後の日本の方向を決めるることになるが、どこに投票したらいいか困ってしまう。(まず始めに地球に向かい合う)政党が全く見当たらないからだ。どの政党もまず始めに政敵やスポンサーや国民(の受け?)に向き合っている。その意味で、民主党に対し「よりましとは言えない」と言っている共産党も、まず地球に向き合おうとしない基本は権力政党と変わらない。
どの政党も与党の政策に賛意を示すか反対するかの違いはあるものの、世界観は基本的に戦国時代や明治の富国強兵の時代と似たり寄ったりで、1960年以降、地球を月から直接見たり、その写真を見ても、発想は相変わらずで、変わっていない。
今年の皇室の歌会のお題は「月」だった。お呼びではないが、全ての人々が「月」からの俯瞰図のようにして地球や全ての人々の動きを見るといい。
地球から地球を見るのと月から地球を見るのとでは当然
風景と物の持つ意味が全く違っているはず。相変わらずでは、地球が怒るのも無理はない。
ハローワークへ行って思ったこと
待合室は溢れんばかりに、100人を超える人たちが私と同じ用件で来て順番を待っている。 20歳前後から私のように60才ぐらいまで年代に関係なく元気そうな人たちだ。カッコいい若者から、上品な紳士・淑女までが、職を探しているからなのか、気のせいなのか、誰もが不安を抱えているように見えた。
日本中でこのように職探ししている人たちはどのぐらいいるのだろうか?もったいない感じがした。この人たちは仕事する体力も能力も意欲もあるだろう。それがこうして毎日、全国各地に溢れているにちがいない。
この人たちは職が見つかっても、臨時職員や派遣社員フリーターは聞こえはいいが、昔で言えば(日雇い)(出面取り)(2こ4 =日当240円の意味 )である。学生アルバイトのようで不安定極まりない。
私のお袋さんも長いこと農家の(日雇い)をしていたが、終戦後でも、今のようにはいなかったのではないか。現在、20~30歳代の半分は、(言葉に悪い響きもあるが)日雇いである。
別に終身雇用や年功序列がいいとは思わないが、今の状態がいいとも思えない。このままでは、産業そのものが成り立たなくはならないかと心配になる。
たとえ農業や手に職の仕事も、ロボットを使う高度なテクノロジーはまして、可也のの技術が求められる。技術は長時間かけて伝達されるもの。今日のような(即戦力)は言葉は格好いいが(使い捨て)ではないか。07年問題の団塊の世代が第一線を去るどころの話ではない。 まさに老いも若きも即戦力は構造的になってる。
上から下までが目先のお金を追い求めている結果に違いない。
要件を終えての帰り道、多摩丘陵や淺川のどこか生気のない風景と、道路いっぱいに走っている車を運転するウィンドウ越しに見える人の姿が、つながって見えた。
自然も人も自然の回復力を持つ。この風景の中にも潜んでいるはずだが、今日は見えなかった。
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