世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
マスコミの世論調査はだれがする?
とりわけ日本のマスコミによる世論調査は多いそうだが、世論を操作して誘導するマスコミにとっては薬の効果を図っているに等しい。
情報の観点からはマスコミがにっちもさっちもいかない日本に誘導したことになるし、それは現在も進行中である。
昨日の朝日や読売の社説の「貿易の自由化を急げ」と言う主張は世論ではなく新聞社の主張である。それを新聞やテレビの公器を使って情報に流すのだから、国民はその影響を受けざるを得ない。忙しい人々にとってほとんど唯一の情報にもなりかねない。
ならば、世論調査の好きなマスコミは自らの主張を世論調査するのは当然ではないのか。マスコミは自己宣伝はしても自らを世論調査しした話はあまり聞かない。これでは言いたい放題だ。
世界はミュージカル
長らく世界の舞台は超・超大国アメリカのワンマンショーのようだった。今もアメリカが大国であることは変わりないが、アメリカの頭の超の部分が1個取れた分、舞台には多くのプレーヤーが登場するようになった。BRICSやアラブの春のような中東から北アフリカ一帯の動きが目立ってきた。地上全体に明かりが灯されてきた感じで、燎原の火はとことん拡がってほしい。
舞台の隅々まで明るく照らされ、世界の国々がそれぞれの衣装を身にまとい、それぞれのリズムを踏んで踊りだし大合唱になったら、どんなに素晴らしいだろう。
授業料を払いぎくしゃくしながらその舞台へと近づくに違いないが、できれば授業料は少なく、あまり遠回りせずに事を為せばいいのにとは思う。
待て待て!
そんな舞台に君は間に合うんか?
そうだよ、 今の世界を(森のようちえん)にしてしまえば、出来上がった舞台よりもっと深みのある舞台に君が登場できるよ。
何事もやりすぎは良くない
戦後、日本は自由貿易を経済運営の中心に据えて走ってきた。
得るところも大きかったに違いないが、失ったものも少なくない。現時点で、プラス・マイナス計算はどうか?
市場を広げることは事態は間違っていないが、国としての産業の自立から言えば自国の産業の保護、取り分け食糧の自給体制は経済成長以前の経済の基盤として確保する必要がある。
食糧自給率の低下、膨大な財政赤字に至った今日も、社説は『攻めの協議を急げ』と政府を煽り、(消費者の利益)の名をかたり世論形成に努める。
これはマスコミのやる仕事だろうか?
これを言わせて利益を上げる人たちはこれでいいが、現に不利益を被り将来ツケを負わされる多くの国民や若者の代弁はだれがするのか?
経済の全体的な現状が未だ語られない。 バランス感覚を失したマスコミ。
希望
世界のグローバル化は見えやすいが、多様化は見えにくい。それでも、フクシマの原発事故は世界の国々に多様な波紋を描いて見せてくれた。
日本でも、孫氏や多くの知事が原発離脱へ向け地域の現状の違いを生かした太陽熱発電に傾注したのは、多様化を示す大きな出来事である。
不幸な事故が希望を生み出した久々の良いニュース。
産業構造を抜きにしたエネルギー政策
原発事故後、マスコミではエネルギー政策の論議が盛んになっているようだがエネルギー政策に矮小化している感がある。
もともと原発事故は安全性より経済の効率化を優先しようとしたところから始まった。
経済の効率化は電気の生産だけでなく、貿易を含めた産業全体の構造をなしている。
産業構造を抜きにしたエネルギー政策は、論理的ではない。
その辺をリードするのが、マスメディアや政治家の仕事だと思うが、一向に動かない。
政局より急がれること
日本の行き詰まった政治に政局が激しく動いていると言う。
首相の不信任退陣要求から政界再編など激しいと言えば激しく「またもや」 の感がなくもない。
問題は行き詰まりの原因が従来と現在を問わず政策の拙さにあるのに、メンバーチェンジですませようとしているところにある。
策のないメンバーをどう組み合わせても正しい政策は生まれない。
与野党をはじめ各界が早急にしなければならのは、正しい政策を生み出すための努力であり、それは視座を広げた現状認識の再確認から始まる。
神話の世界
安全神話で原発が動いてきただけでなく、事実には即さない神話で社会や個人が動いているものは他にも沢山あるようなきがする。
軍事力によって生命や財産が守られるとする安全保障の神話
GDPで測る経済成長路線の神話
自由と競争によって進歩するとする競争原理の神話
選挙によって民意を問えるとする神話
子供は勉強すれば賢くなり将来幸せになるとする神話
国歌を歌い国旗を掲揚して愛国心が育つとする神話
事実を伝えるのがニュースだとする神話
お金を印刷したり借金して経済を立て直せるとする神話
(科学)は正当だとする神話
挙げたらきりがないが、世界全体が神話で動いているような気にすらなる。
部分的に言えることを全体的であるかのように拡大解釈して絶対的なものとして行動しているところが(神話)
と言われる所以。
いかなるものも、全体的な関係でしか存在しないのに部分を見てそれが全てであるかのように傲慢に振る舞うのが(現代的)であるかのようだ。
背景との違和感
自然の美しさや不思議さに魅入られ追い求める心と、自然在っての自分だと気付くのとは同じではなく、かなり距離があるのかもしれない。
自然の美しさを賛美しない人はいないが、同じ人間が自然を汚し壊すのは一般的とも言える。
自然の美しさゆえ、自然の本質や己との関係を見失うのかもしれない。
神(権化)があまりにも気高いゆえ、その本質や己との関係を見失うのかもしれない。
自己中心的に自然や神や権威を利用して、自らが目くらまされたような状況が 現代文明に広くみられないか?
G8やサミットはいつも自然環境の美しいところで実施される。似合うような似合わないような…
『自然と人間』
テーマを「(自然)と(人間)」とするか「(人間)と(自然)」とするかの違いは大きくないだろうか?
自然あっての人間か? 人間あっての自然か?違いに通ずるような気がするからである。
基本的な関係は前者だが、夜になっても星も見えない都市の生活ではもちろん、現代社会の生活様式ではいつの間にか後者の認識に立ってしまいかねない。
端的に原発に見られた(安全より経済の効率化)を求める産業構造は逆転した「(人間)と)(自然】」の認識から生まれたのではないだろうか?
民主主義と自己中心の紛らわしさは自然と人間の関係を基本に戻すことによって区別しやすいかもしれない。
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