世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
国家主義のあり様
行き詰まった世界において 国家主義は 元々の民との関係 そしたグローバル化した今日は 世界との関係でそのあり様が問われている。
状況判断と構え
世界は災害も経済も一蓮托生の関係を強めているから、国家別の統治機構の不合理を克服して統合へと向かうのは自然の理であり逆行は部分的で一時的現象と見るべきだろう。
しかし、年々進化しているものの不合理は拭えず山積しているのも実情である。
今回の人類規模のパンデミックで克服されるものも数多い。
こんな文脈の中で各国が内政や外交の政策を選択することになる。
果たして そんな構えになっているだろうか? 全ての市民と国家が問われているのだが‥
市民の愚痴の意味
政府のコロナ対策の不明さは経済の現状認識の不足が原因しているのではないか。
本来なら野党やマスコミが補うところだが 機能していないようだ。
今のところ 市民の出る幕は無いが 果たして本当に無いのだろうか?
わりを食うのは奴隷ではなく市民なのだから せめて愚痴ぐらいこぼさなきゃ。
全世界的なルール作り
個々別々だから 個人間であれ 組織間であれ 国家間であれ切りが無く一つになることは有り得ない。
共生・共存し・共栄するには 全体的に見た所での理や大道に付く他ない。
現代社会はそこには至っていないが 成るべくして成るものだ。
部分的・地域的には色々あるが 今後、より広く全世界的なルール作りを目指して進むものと思われる。パリ協定や核兵器廃絶はその先駆けか?
小異を残して大道に付く
民主主義陣営からの中国や習近平氏に対する主な批判は民主主義に対する価値観や仕組みのようだ。
もちろん それはそれとして在るとは思うが 民主主義が世界の種々の課題に完全に機能していない現在、中国の自然と社会の逆転した関係の方がより問題ではないか と思う。
理念の違いを並べるより共通した課題を論じる方が生産的互いにプラスになると思う。
「小異を残して大道に付く」は東洋のみならず世界的な人類の知恵では無かったか?
民主主義を越える理念は何時?
これだけ自然災害が社会や経済に影響しているのに 「民主主義「」を越える理念を聞いたことが無い。
バチカンからもメルケルからも 習近平からも聞えない。
発信されてるのが不明な自分に届いていないだけなのか、或いは 見出されていないことも 有り得無くはない と個人的には(今は)考えざるを得ない。
これは自分中心の勝手に描いてる物語だが、これも私にとっては仕方ない。
いずれにしろ 自然災害を加味した理念や価値観を一般化し共有できるに
は まだまだ一山二山ありそうだ。やっぱり5~60年はかかりそう。
専門家への誤解
国の稼ぎ頭の大企業は株式市場に上場している株式会社である。
株主の利益は直近の業績に左右されるから会社経営はそれに答えなければならない。
大企業の政治への関与が長く続くと政治や行政だけでなく社会の仕組みの隅々まで形作る。
コロナのように 想定外の出来事が起きた時 出来上がった社会の仕組みは それに対応し難い。
現在のコロナのによる混乱は 多分に出来上がった社会の仕組みが関係しているのではないか。
社会の仕組みに組み込まれた人たちには 苦手な課題であり 一般市民は 専門家への尊敬の先入観がそれを見え難くしている。
かぐや姫の誕生の秘密?
朝五時半 西の空にオレンジ色の満月がくっきり浮かんでいた。見る見る西の山の端に沈んでいくのだが
「姿を消した」感じだった。
つい かぐや姫のお話を思い出した。
昔の人が 仕事をしながら 東から登るお月さんを見て 西に沈むお月さんを見て あの物語を想像したのは自然だろうな と思った。 生まれて初めての経験だった。
全体知
民主主義や社会主義のイズムや宗教的な理念も「知」の如何が大前提ではないだろうか。
さもないと 「木を見て森を見ず」に陥り今日のように行き詰まりと混乱を招く。
知は相対性が問われるが、大自然を基にすることによって。理念的には「全体知」として完結する。
問題になっている科学者会議云々は 国家にとっての知性や科学の知見から論じるべきではないだろうか。その視点が見当たらない。
現場軽視の風潮
全体的に政党やマスコミは 時代に遅れ 市民の暮らしや現場の現状や実態の認識を欠いていることが目立って来た。今後の動き 特に教育や福祉への取材や報道への一歩踏み込んだ検証が期待される。
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