世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
酸欠状態の子供たち
酸欠の魚は口をパクパクさせて浮き上がってくる。
今、子供たちは体の内・外の自然を取り上げられ、酸欠状態のようになっていないか?
大人が自然を犠牲にして競って経済社会築き、自ら閉塞状態に陥ってる中では、子供たちの酸欠状態には気が付きにくい。
(反省を込めて)子供は誰が看ているかを問いたい。
発展の小さな芽
人は食べ物と水のあるところを選んで住み着き食べ物のない砂漠は移動はしても住む場所ではなかった。
農業国であった日本が食糧自給率40パーセントの工業国になったのは、素直に(発展)と喜べるのだろうか?
長い目で見ると、人の住めない世界へと作り変えていないか。
生きにくさを感じる今日この頃だが、やっと「1次産業の崩壊をくい止める」の声も極わずかだが、書店の店頭で見られるようになった。
超大国の債務不履行
超大国と言われるアメリカが債務不履行によって世界に迷惑をかけるかどうか、ぎりぎりの段階にきているようだ。
オバマ氏は2兆ドルの借金を議会に要請しているが、保守党は「1兆ドルまで」と主張しているようだが、どっちにしろ大きく雪だるま式に借金を繰り返すアメリカに依拠して世界経済は成り立っている。
世界の超大国がこんなだから、世界の国々の経済は「推して知るべし」と言って良い。
アメリカをはじめ先進国が軒並み借金で首が回らなくなったのに、働生き方(国の産業の在り方)が議論されないのは不思議である。
日本の震災復興や原発問題も(産業の在り方)をベースに話し合われるべきではないだろうか?
人為の限界
勤め人は人の顔色を見ながら仕事をするが、農家の人は作物や天候など自然を見ながら仕事をする。
どちらも長いことやってると、人間に違いが出てくるようだ。
人がどう意識しようと、人間は基本的には、自然の一部であり自然に支配されていることに違いはない。
脱自然で固まりよりどころを見失った原子力村のリーダーたちによって、同様の都会的な感覚を身につけた私たちが盲目的について行ったのかもしれない。
人為で基本的な自然との関係を変えられるものではない。
(経済効率)のもたらしたもの
原発事故が安全神話に基づいた(安全より経済効率)の考え方の結果だと言われてる。
今はその反省の上に、脱原発を含め安全の確保が各界・各層で論じられている。
論議が今後のエネルギー対策に矮小化されているようでならない。
逆に発想して、 経済効率を優先してきたのは原発だけでなく経済全体であって、この間、環境から社会の仕組み、一人一人の生活まで大きく変え、失われてきたものは多方面に渡り、生命をも脅かす原発事故はその一端ではないのか?
(国難)とも言えそうな状況下に置かれ、(安心・安全)が損なわれていることは立場を越えて、全ての人のの焦眉の的ではなかったか?
「異常」「狂ってる」
年のせいか、自分の体だけでなく、記憶力や根気など精神的にも異常なところを感じたりもする。
自分がおかしいからか、社会や人間の行動にしばしば異常さを感じきた。
「異常」とは口はばったくて口にしにくかったから、好きな音楽家である坂本龍一氏がある週刊誌で原発問題を巡って、放射能廃棄物を蓄える人間を「異常」「狂ってる」とはっきり言葉にしていたのに安心した。
(原発は研究目的で研究室ですのは良いと思うが、利潤目的の事業として行うのは間違いだと個人的に考えている。)
坂本氏は尊敬はしていても人格的に異常さは感じていないので、自分も時にはその言葉を使うことが許されるのかな?とどこか緊張が解けたようで、ほうっとした。
読み取らなければならないこと
今日の朝日新聞の社説隣の読者の声欄に「だまされぬ批判力を育もう」と呼び掛けるこの町に住む同年輩の男性からの1文があった。
その中で、「戦前は皇国神話にだまされ、今原発の安全神話にだまされた。神話にだまされたということは、誰かだました者、ミスリードした者がいることになる。私は先の戦争も今回の原発をめぐる問題もマスコミには一定の責任は免れないと思う。……敗戦直後映画監督の伊丹万作は「『騙されていた』とい言って平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」
の言葉を引用し、声の主は続いて「この言葉通り、私たち国民は、現在まで何度騙されてきただろうか。私たちは報道されていない事実こそ読み取らなければならない。」と結んでいた。
同じ町に住んでいるんだから、何かの時にでも是非お会いできればと思った。
社説やその下の(記者有論)よりはるかにリアリティを感じた。
現役の時、子どもたちに「勉強は何のためにすると思うか?」と問うたことがある。私が心の中で準備していた言葉は(だまされないため)だった。
神経が分からない
(国会論戦)と言うのも口幅ったいが、与野党を問わず全ての先生方が(経済成長路線)を信じ、それを前提にしてひんなく相手を口汚く罵っているようにしか見えないのだが… 果たしてどんなもんだろう?
(日本だけではないが)ダントツの借金を何十年と抱えこみ、返済の見通しも立たない中で、(経済が成長)を前提に議論する神経が分からない。
こう言うのは他人ごとではないはずだから、原発同様【現実感の喪失】は自分自身も肝に銘じなきゃ、 子供たちが大変なことになる。
仮説が違っていないか?
経済論議の(新しい産業)と(産業構造の転換)の言葉は党派や主張の如何を問わずしばしば用いられている。
しかし、中身的には千差万別だが、発想的に新しくなくはなく転換していると思われるものは私には見当たらない。
それは、エネルギーや震災の対策に於いても基本的には変わらない。
だから、議論されてるどの対策も効果を上げるようには考えられない。
政治も政策と言う仮説に基づいた社会実験だとすると、実験の仮説に疑問を感じていることになるのだが、その辺の議論が見当たらない。
私の株の仮説実験は、世界も日本も経済は縮小(シュリンク)してきたし、産業構造を基本的に転換しない限り縮小するだろうとの仮説でやっている。
今は、(期待通り)ほぼ証明されたとの心境でいる。
尽きない実験好き
今日は予定していたお芝居を見に行くどころの心境ではない。
台風が接近しているからではなく、 囲碁で知り合ったkさんと飲みながら、株のことを思いっきりしゃべりたい。
午前中にほぼ明らかになる仮説実験の結果が待ち遠しい???
結果次第では、今後は(森に幼稚園)の次の段階の実験に重心を移せる。
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