世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
言い訳はよせ!朝日の社説
この法律の運用は慎重にしたほうがいいとう主張だった。
4~50年前までならこれでもいいかもしれない。子供からすると『上意下達』の強化で済むようなことではない。今は、子どもの成長発達に太陽や水や空気に繋がるような意味合いを持っていというのに。
国会の先生方も、大新聞の朝日の社説も(他のメディアは押して知るべし)「教育」の言葉を使うも、子供の実情を論議の対象の外におき、子供たちを今以上に壊すことが分りきったようなことを教育再生の名で大人が法律を作って子供を蹂躙する。
私は国のおろかで絶望的な政策能力の酷さ、そこに誰も立ち入れずコミットできない、マスメディアや我々大人の存在を再確認させられた。
朝日の社説は、何の警告もしない他の新聞やテレビよりはよりましだと言えなくもないが、所詮『後の祭り』を社説で取り上げる、現実社会への鈍化さだと、敢て申し上げたい。これではこの政策の間違いが明らかになったときの(貴社がよくやる)のアリバイ工作にしかならない。ここまで来たらしょうがないから、せめて検証作業だけは丁寧にやってほしいものだ。
朝日新聞 またもや どうかしてる。
今までも幾度となく朝日新聞の報道振りをを批判してきた。
今朝は『学校変わるか 未知数』の大見出しに「教育3法が成立」の小見出しで報道されていた。将来朝日が、この報道の責任を自覚してもらうためにあえて書き記しておきたい。
子供や教育が問題になっている今、この3法を実施したらどうなるか、調べたり考えていっているのだろうか?未知数で済むはずがないではないか。教育が学問の分類で社会科学に属し、教育科学と言われている。競輪競馬でもそれなりに予想を立てる。全国の子供たちはすぐさま影響を受けると言うのに。
ジャーナリズムである朝日新聞が教育の予測を立てられない立場は何なのか? 本当に予測がつかないと言うのであれば、そんな法律を作ってはいけない。何故なら子供は実験の具ではない。多分朝日は与野党の立場を考え中を取ったのだろうが、問題なのは子供の立場である。子供に対しこれから実施する法律が未知数とはあまりに無責任で酷い。予測と異なった結果が出たのとはわけが違う。大新聞は最低、子どもへは誠実に向かい合ってほしい。30名からいる編集委員はこのことに何にも感じなかったのだろうか?
影響が大きいだけに一言っておきたい。
理由はこれまでもこの日記に書いてきたのでここでは書かないが、安倍首相の言うように、『これによって学校現場が一新する。」と胸を張って言うこの言葉は、現場で子供と長く関わった経験から、改善されるどころかさらに悪化するだろうことに、殆ど絶対的な確信を持っている。だから、個人的にはまたもや朝日は大事なところでズッコケていると、従来のやり方を再確認してしまった。
教育が抱える多くの問題。例えば不登校、自閉症などの発達障害、学力や心身の健康問題など、死に至る異常行動など行政が(今までのように統計の数字のごまかしをせず)まともに統計数字を発表すれば2年以内にその変化は数字に必ず表れるはずである。全国に先駆けて東京が実施している諸施策で、東京の現場は明らかに悪化し、私が個人的に収集した統計や資料では、はっきり全国平均からぬきんでて悪化している。残念ながら行政はこれらの統計を一般都民どころか教育関係者や現場の先生達へも知らせない。例えば、自分の勤務したり住んでいる町の不登校や自閉症の子供の数を知っている教師や親は殆どない。この数の増減は、学校教育の実態を知る上で重要な意味を持つのに。
朝日新聞にも、権力のチェック機能や独自の調査・取材する役割と責任があるだろうに。
毎度のことだが
天下の朝日も、どうかしてる?
こんな無責任な記事を撒き散らすのだから、これからやられる教育対策に一般国民も朝日のように無責任な態度が普通
だと感じるだろう。(こんな書き方をすると朝日新聞には悪いが、他の新聞やテレビはこの法案に期待感をもたせるような、殆ど「ヨイショ」的なな報道である。しかしこんなこと,他社と比べていってもしょうがない。
過去の教育政策も同様の態度だったが、政府同様マスコミも政策の結果や反省の言葉を聴いたことがない。
政府もマスメディアも言い放しでやり放しが普通になっている。
国民の求めている経済ですら、政府やメディアの言われたとおり痛みを我慢し4~5年経っているの今、庶民にとって(おいしい果実)どころでない現実を見れば、政府やマスコミの人たちの一人や二人は謝ってもいいだろうし、庶民も気が付いてもいいはずだが?
目の前の家庭や職場で、こんな事をしていたら、空中分解してしまう。
不思議と言えば不思議な話し。
こんな変なことを、まかり通うらせている大人。
今日の子供の問題が、大人に責任がある事は誰もも否定しないだろう。
しかし具体的に誰が?どこで?となると、あやふやになる。
子供と長年関わってくると自分自身を含め、大人の問題はあまりに多い。分りやすい一つの例を挙げてみたい。
誰でも知っている(例外はあるかもしれないが)どの小学校でも、授業の開始と終了はチャイムによって子供たちに指示する。午前中の2時間目と3時間目の間に20分ぐらいの休み時間がある。天気がよければ殆どの子供たちは校庭で遊んでいる。休み時間終了時刻と3時間目の開始時刻の間は(殆どの学校は)5分間である。だから子供たちは、休み時間終了の合図のチャイムで、遊びをやめ5分後に3時間目の準備をして授業をする教室で席についていなければならない。果たして可能か?
子供は遊びをやめ昇降口にむかい。靴を履き替え、教室近くの流し場で手洗いやうがいをし、多くの子供はトイレで用をたす。それから教室に行き3時間目の学習準備をする。音楽・図工・体育・家庭科・理科・図書などの場合は準備してからさらに授業をする教室へ移動する。学校や担任によっては並んで揃って移動する。そこで着席になる。これを5分間で出来るか?
各学校、毎月1回避難訓練をする。授業を止め、校内放送で教員の指導の下、一斉に避難開始し、避難場所の校庭に全児童が揃うのは、管理職がストップウオッチで計時するが経験したどの学校も5分前後だった。非常口を使い、靴の履き替えもなく、おしゃべりも一切せず5分かかる。勿論トイレや手洗い教室移動もない。
だから、3時間目の授業開始時刻は出来ないことを求めていることになる。
これが日本のほとんど全ての学校がやっている。
日頃、『先生の言うことを聞きなさい。』『決まりを守りなさい。』『廊下をは走らない』と指導しているから、まじめな子どもが、3時間目に遅れまいとするとどうなるだろう?否が応でも、どれかの決まりを破らなければならない。
心を痛める子供はいないだろうか?
まじめな先生が遅れてきた子供を叱ったとすると、その子供はすんなり授業に参加出来るだろうか?
この問題は昔からあったが、昔は先生達も(仕方ないとして)それを暗黙の了解で対処していた。最近はそんな悠長なことは許されない。
(大人が子どもを壊す)多くの中から、誰でも知っている、どこでも行われている、分りやすいことを取り上げてみた。
こんなことは普通、教師や親が気が付かなくてはおかしいのだが、そん話は教職40年、どこでも話題になった記憶がない。
これは一つの例で、子どもの発達成長を無視し阻害していることは学校の内外に山ほどある。目に見えやすいこんな事が、長年ほうたらかされているのだから、他は押して知るべしである。
例にあげたようなことが何故起きるか? 答えは簡単。子供の動きを知らない行政官に法的なカリキュラムが作られ管理されているからである。
国会で可決されるであろう教育3法はどれもこれと同様の発想の上にある。法律の及ぼす結果の予測がが全く違う。教育現場や教育現場の認識を欠くためか、法の限界や功罪を知らないからに違いない。あの3法の結果は子供にとって悪くなってもよくなることはまずありえない。今後、教育問題はさらにエスカレートし、子供の状態を表す統計の数字にはっきり表れる。
それが社会問題になった時、権力や行政は政策的な誤りや行政の責任には絶対しない。メディアや国民も同じ。今まで、教育の責任を現場教師や法律に負わせてきたが、これからは次第に、親や子ども自身に向けられる。殆ど間違いなくその流れになる。公教育の責任を家庭や教育を受ける子ども自身に向けるのだから、すごい所まで既にきている。親や子供はやっていけるのかなー。
(
「今」の大切さ
人が何かをしようとするとき、大切なの「今」がどうかに根っこが据わっているかどうかではないだろうか。
革新系の論理に『歴史の真実を知ることが、未来を開く力になる』式のものをよくみる。確かに、歴史から学ぶものは多い。
今、国全体が揺れてる年金問題の責任をさかのぼって云々する論調が政府のリーダーや与党の方からよく聞く。
確かに責任の経緯を知ることは問題解決上大切である。
しかしどの場合も、現在どうか?に根っこがあってのこと。保守も革新もとかく、今現在から目をそらし、語るのは共通した傾向のようだ。
立場はどうあれ、「今」から目をそらすのは腰砕けに見える。権力者やインテリによく見られる傾向ではないだろうか。
逃げとシェルターを準備して話す。
『今、私は思う』の論理と論調がほしい。
欲張りだから?
今日のような社会の乱れを、人の「欲」のせいにする論を時々見る。確かに強者への憧れなのか多くの人がお金や権力、風聞や見かけを競うのを見ると、幸福を求める社会とは少しずれた社会になっているだろうし、それらが人が持っている欲望や本能のせいというのを聞く。しかし本能(ここでは欲も含め)丸出しだからだろうか。仏教も欲を苦しみの根源としているし、キリスト教も、欲を嫌い清貧を尊ぶところがある。本能や欲ってそんなにいけないものだろうか?今日の問題はそれが肥大化した結果だろうか?宗教などと言葉の使い方が少し違うかもしれないが、私はそうは思わない。本能や欲は神が与え、法にもあった、大切な自然の法則だろうと思う。問題は人が勝手に作った社会的な価値観や意識で、欲や本能のバランスを崩した結果ではないかと思う。どこが違うか?前者は個人に忍耐を求め後者は歪んだ社会の是正を求める。社会は個人によって構成されてるからどっちかはまぎわらしい。唯現在は前者のスタイルで前のめりになっているかんじだ。たとえ個人に求めるとしても、唯我慢を求めるのではなく、出口の方に目をやることを求めた方がいい。出口はだれもが内部に持っている自然への感性ではないだろうか。出口は自分の中にあるのに、取り違え他の人為に求めたから今日に至ったともいえなくもない。
日本無責任国家か?
やっぱりゲームやテレビに偏るのは心配
映画『それでも生きる子供たちへ」を見てきた
映画は別にして、平日の午前中だったが、いつになくお客さんが多く、しかも殆どが20歳前後の若い人たちだった。それは、なんでか嬉しかった。
帰り道、渋谷駅前のハチ公のある広場を通った。ちょっと変だが、そこに集まっている人たちのようすが映画以上に印象的だった。
どの人も今風におしゃれだったことは以前(3-40年前の印象)と変わらないが、全体にどこか当時と違って見えた。
様子を見ながら、山中 恒の児童文学「サムライ」のあるシーンを思い出した。
戦後、北海道の炭鉱の町美唄?(確か作者が美唄出身)のまち外れ、当時、「サムライ」と言われた貧乏長家など集まる下町の、倉庫の壁にうつろな目でもたれる無気力な子供たちが描かれていた。その日の食べるものにも事欠く極貧の中での事こと。
以前はハチ公前の若者は待ち合わせのせいか生き生きするものを感じた。ところが今回は、次に何をするのか当てもないような、溢れるエネルギーを感じない。目の前で事件が起きても、何事もないように、ジーとしているのではないかと思われた。
渋谷区で作った「地球上で遊ぶ子供たち」の彫刻のモニュメントがそばにあったが、何かそれがゴミの山に見えた。
あの映画をまた見たいとは思わないが、ハチ公前は、また行って、ゆっくりウオッチングしたいと思う。
映画は良かったが、子供の視線だけで、月から見た視線のない事が、ちょっと不満だった。
人を感動させるもの
今年になってミュージカルを3つ見た。 プロのが2つ、アマのが一つ。歌や踊りの技術は私の目にもプロがはっきり上。だけど、私はアマの舞台の「追っかけ」をやった。また見る機会があれば追っかけたいと思う。とにかく幕が開いて1分経たないうちから、涙がこみ上げたきた。終わるまで全身、足の裏まで熱くなっていた。終わりの幕は会場拍手が鳴り止まなかった。プロの舞台もきれいで良かったが、あの熱い感じにはならなかった。どこが違うのだろう?
3月に30年近く前から知り合いの音楽家の主宰したプロ集団がジャズを中心にし「愛」をテーマにしたミュージカルを観た。時代的にも懐かしさを感じさせる楽しくきれいな舞台だった。十分満足した。
5月の末に、沖縄の精霊を通して「憲法」を表現したミュージカル「キジムナー」を観た。脚本・監督・音楽・振り付けなどはプロの手によるが、演じた100人近くは、殆どが近隣の町に住む素人だった。私の知っている居酒屋のお上さんや、工場で働く顔見知りの人や、同業の現役の教師もいた。結局このミュージカルに熱くさせられ、追っかけをやってしまった。
6月にはいってすぐ妻と、予定されていた『フィガロの結婚』モーツアルトのミュージカルを観劇した。人の恋にまつわる心の機微を楽しく表現している。勿論、監督から舞台づくりのスタッフに至るまでプロである。舞台作りも演ずる歌やダンス等の身体表現もさすがプロだと思った。
しかし、これも先に見た「キジムナー」のようには熱くはならなかった。
観劇後、妻もなにやらすっきりしていない感じだ。なぜかと考えた。私が思ったのは、表現への思い(伝えたい中身)と技術の関係にあるのではないかと思った。
要する思いと技術のバランスにあると思った。
技術は高いに、こしたことはないが、中身への思いを凌ぐと逆に技術が思いを伝えるのを阻むのではないかと思う。5月に見たアマの舞台は技術より数倍の演ずる者の思いがストレートに我々にに伝わったのではないかと思った。(勿論技術は高い方がいいのだが、技術が思いを邪魔することはなかった。)
普通、プロの技術がアマをはるかに超えているが、人に与える感動は少し違うかもしれない。
私は観劇が好きでプロとアマを問わず機会があればできるだけ観て来た。そしていつごろからか、表現したい中身のリアリティ(現実感)には、本来はプロとアマのハンディはないのではないかと仮説的に考えてきた。今まで、それを確信するまでには至らなかった。
でも今回、仮説として描いてきた本来の舞台に始めて出会った感じだった。多分これは音楽や美術・文学なども原理的には同じではないかと思う。
ついでに飛躍して言うと、経験的にも子供たちへの作文指導や朗読もこの原理は全く同じだったと思う。
さらに言うと、今、学校公開などで授業を見ていると、この逆の中身の伴わない技術偏重の指導が一般的なようだ。上からの指導がそうなっているから即教師の責任とは言えないが、子供達の表情を見逃している。 感動と言う面から見ると、 バランスを欠いている。自分の安心感を優先させたプロの陥りやすいところかもしれない。
映画 「それでも生きる子供たちへ」
「大人は誰も、昔は子供だった。でも、そのことを忘れずにいる大人は、ほとんどいない。」
厳しい現実の中、それでも生きる子供たちの輝く生命力。まだ
この世界に、希望はある。
「見えない子供たちにも」ひとりひとり、かけがいのない生があ る。喜びと悲しみがある。そのかけがえのなさが一人ひとりの名前に託されている。
彼らは生きるために助け合う。
窃盗も辞さない子供たちの夢と現実。
暴力にさらされる子供たちと、愛に飢えた少女。それぞれの悲 しみと希望。
子供たちの未来のために、大人達ができること。
これは今、渋谷で上映されている世界の子供たちの現実を7つの国の監督達が描いたのを繋いだ映画、そのパンフレット か ら 拾 った言葉である。
近いうちに見に行こう。
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