世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
やっぱり、続きの芝居だ!
政局・政争上は当然だとは思うが、こんなことに時間を使うのはやっぱり暢気な気がする。田舎芝居の続きを見ている感じだ。与野党が、どんな社会・どんな日本にしたいかの、設計図を持っているならまだしも、その設計図も持たずに、ただ甘たれた子供!(子供の甘えとは別)のように「あーしたい、こーしたい」「アレはだめ、これはだめ」とある部分のそのまた部分について大声でわめく政治の相変わらずのお芝居。政治家だけでなくメディアや多くのジャーナリストも同様通説的な部分から抜け出ず、社会全体を見通しての情報や解説ではないから、これも(かわり映え)しない。どうしようもないと思うが、異常気象だって、資源の枯渇も(日本の資源外交の遅れも含め)子供の健康や成長も、待ってはくれないのに。‥‥むむ アホか?
参議院選挙を終わって
今朝の新聞は「自民歴史的大敗」の大見出しが1面トップを踊っていた。昨夜も選挙結果を見届けることなく11時ごろ床についた。年寄りだから公示以来選挙報道は割合細かく見たつもりだが、どの政党や候補者の訴えや政策を見ても、極端な言葉で「差異」を際立たせているが、どれも部分的な考えの違いに終始し、全体(メタ認識)的な状況認識どれも同じようで違いは感じなかった。産業経済政策を見ても、地球的で人類的な環境や資源などのよって立つ基盤と個々の経済政策が繋がらない。政策やマニフェストを通して見ても、部分の列挙で、現状をどう見てどうしょうとしているかが繋がって見えない。 何とか想像力で補い全体をつないで見ても状況認識の原図は結局戦国時代か、「40人の盗賊」レベルの物でしかない。温暖化だ、異常気象だ、原油がどうだと言いながら基本的な現状認識は数百年数千年前と変わらない。子どもの教育問題ももまったく同じで、子供たちが今どうなっているのか、何が問題なのかの全体状況での認識や原因が全くつかめていないと思う。どの教育政策も大きく的をはずしている。
主張や政策ばかりではない。選挙結果を報道するキャスターや、コメンテーターなど取材報道する人たちも政治家同様状況のメタ認識(全体総合認識)が伺えない。
先日、「株式会社と言う病」著者 平山克己を読んだ。その中に会社や経済活動におけるメタ認識の大切さと現代の欠落振りが書かれ、現在の経済活動が病を内包する必然性が丁寧に説かれていた。それでも彼はグローバリゼーションの言葉を使いながらも彼の地球的な認識や
人類的な認識は私には可也不満だった。
参議院選が終わり、次は衆議院の解散総選挙に向けて政局は動くだろうが。続きの芝居ばかりでなく、視界を広げ、子供のような物の本質を直視するような芝居に変わってくればいいなと願っているが暫くはお預けだろう。
蛇足だが、近頃は政治家は勿論だがメディアに登場する人たちに思索的な態度や物言いのする落ち着いた人を殆ど見かけない。次々出てくる人はセールスマン〈語弊を勘弁}のようで相手の話を平気で遮断し、落ち着きなくぺらぺらよく喋る。思索的で落ち着いて話す人(知性を感じさせる人)はメディアから排除されているのだろうか。新聞テレビ等メディア関係の指導的な人たちのその辺の資質が問われているような気がする。自分の経験ではどの分野でも話の聞き方の悪いリーダーを一人として思い出すことが出来ない。
頭を空っぽにすることの難しさ
「学び」にも2通りあるようだ。知識や情報を得るのと、感覚を磨く学びである。 学校の学習は主に前者だろうし、修行やお稽古は後者にはいるかも知れない。人は『感情の動物』と言うから、社会生活では後者も極めて大切な人間の行動のベースになる。月に1度お寺で坐禅を組んでいるが、外界と自分に集中し、頭を空っぽにするのは難しい。自動的に頭の中をいろいろな事が浮かび駆け巡る。その間自分と外界(例えば目の前の壁や外の鳥の声など)一切認識せず意識されない。自動思考が多いとその分、現実認識は欠落する。また情報や知識は大切だが、同時にそれは認識の枠を意味するから、主体的と思っている認識もその窓枠の中からから認識することになりかねない。情報や知識が飛びかう中、ゆっくり消化する時間がないとその恐れはおおいにある。
読書はいいものだが、その結果、「知識人・教養人・学識経験者・専門家」になるタイプと、融通無碍な詩人やお坊さんのようになるタイプがあるのではないだろうか。詩人やお坊さんも本を読むから、きっと本の読み方が違っているのだろう。一方は頭の中が知識や情報でいっぱいになるし、一方は頭の中を空っぽ?にするために読む。
大人と比べ子供がすごいのは頭が空っぽ?で頭の中の変なものに邪魔されず、枠にはまらず、まっすぐ物の中心(大切なところ)に感覚が向くところではないだろうか。弱い立場の子供は生きる本能として誰でもが生まれながらにしてその感覚を持っているようだ。
頭が空っぽ?がいいのではなく頭が空っぽになるようなそんな学習や学びや本の読み方が大事だと思う。そうすれば学習や学びの後、気分さっぱり頭はすっきりするに違いない。そうすれば、今みたいな世の中にはならないはずだ。
しかし社会や学校は我々の頭をいっぱいにし、生まれながらにして持ち合わせた感覚から離す一方ではないだろうか。
各党首の話を聞いて
山中 恒
クラスの子どもたちにも読み聞かせした大好きな子供の本(本人が児童文学作家と言われたくないらしい)の作家からである。夢見るような気持ちで彼のホームページを見た。子供の心を捉えたスケッチの見事さに、忘れかけていた昔をを思い出した。
東京の町田市に住んでいるというのを何かで見たことがある。是非一度お会いしたいとおもう。会えなくても、家を見て、何かを届けたいと、切に思っている。
彼は子供のまっすぐに見る視線と鋭さを、今も持っている珍しい大人だと思う。
参議院選挙の意味
我々は、人間も地球も自然の連鎖と有限な存在であることを忘れている。社会だけでなく、環境や資源そして子供たちに至るまで、これだけ今日的な問題が露呈しているのに、我々は自分たちのやっている事の足元を見失っている。何故当たり前のことだけでも思い出し、基本に戻そうとしないのだろう?
暢気に、 こんな選挙をしていていいものかしら?とつい思ってしまう。