田中監督の想像力の源

追っかけた憲法ミュージカル監督の田中さんの卓越した想像力は俯瞰して想像するところと、人の苦しさの深さを想像できる事ではなかったろうか?
苦しさの深さを感じる心があるから、その上にドラマを想像し、観客を知らず知らずのうちにプレーヤーに巻き込む想像力の広さを持っていたのではないだろうか。
あの深さはどこで学び、どこで経験したか?
 そうではなく、あの深さは学んだり経験して得られることはなく、逆に全部を放り出し、解き放し、ありのままの自分と向き合った時、はじめて感じられ想像できるのかな?とドジは改めて彼の心の中を想像した。きっと学んだり経験して得られないから難しい。
田中監督の想像力の源かもしれない。
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ヒトの経済対策

持続可能社会とかの声も聞こえるが、産業構造だけでなく何を考えているのか不可解なことをしている。
 100年に1度の経済危機と言いながら、経済を立て直すためと言っては、国はお金を印刷したり、借金〈国債)してまでお金を使う。
 確かにヒトの動きは激しくなり、世界の株は下げ止まり、元気を出しはじめたかに見えなくもない。
 でも変だぞ!
 経済が危ないというのは、ヒトビトが暮らしていくのに必要なもの〈一応ここではお金だとする)が足りなくなってきたと言う事だろう。
 お金を印刷するのは分る気もするが、昔話の狸が木の葉をお金に変えるのと似ているなー。昔話は騙されるヒトがいるから狸の気持ちは分るけど、ヒトがお金を作るのだから、ヒトが人を騙すことになる。話としては面白いが景気対策になる?
 お金が無いと言いながら、お金を使う。使ったらなお更なくなるのではないかなー。やることが分らない。そろいも揃って地球上のニンゲンが揃ってやっているのだから、どうしたことか?
 下界へ降りて話を聞けば、血液を増やし循環を良くすると真顔で言う。
 その気持ちも分らないではないが、やっぱり不可解。
 一応、ヒトビトの暮らしに必要なものをお金だとしたが、経済ということだから、お金や物まで含めて考えてみよう。
 お金を使って道路や施設を作ったり、売れそうなものを沢山作る。
 物の動きで見ると、地球の資源から施設や製品に移動しただけで、ヒトに必要なものが動いただけであり、持って来た資源は持ってきただけ減っている。
 ヒトが暮らすのに必要なものは一見増えたか〈循環が良くなる)に見えるが後ろの原料は確実に減っている。必要な物の不足が経済危機の本質なのに、物を消費して、経済が良くなるはずがない。良くなったように見えるだけではないか。これで経済的に安心できるのだろうか?
 結局はヒトは勝手に資源を無限と言う前提で目の前のお金やものを豊か?にして
 膨らましたり破裂させたりして繰り返し繰り返し遊んでいるのかもしれない。
 (ここから見てると)何時まで続く?と思う。
 最初のボタンを掛け違えているから、次々変なことになる。
 そっちからこっちを見るように、こっちからそっちを見るのもいい。
こっちから見ると、 100年い1度の経済危機ではなく、史上最大の経済危機であり、景気や金融の循環とは関係なく経済危機は深化している。
 地球を見ないで経済を語っても意味がない。
 経済対策の芽はは沢山あるが声は殆ど聞こえてこない。
 
 
 
 
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俯瞰力=全体を察知する力

ドジが憲法ミュージカルを追っかけている中でこんなことがあった。
 昨年は、一昨年の成功を受けて同時期に全国3箇所で稽古が行われた。
 当然、田中監督が東京会場へ直接来て監督できるのは全日程の3分の1になる。
 公演3週間前、ドジは【今年は去年のようには行かない】と確信した。
 舞台上で稽古する人たちがバラツキ、時に演技上の違和感を生んでいる。素人のドジの目にも見えてきた。稽古は積んでも中身が伴わない。
 最終的には監督も気がつたのか応急措置を講じ、立派に成功させていた。
 後の反省会で、監督や指導部、裏方、舞台に出た人たちから率直に語られていた。
 総監督の役割を改めて知った。
 演技上のことであれこれ言わないタイプの監督だが、大元の【目配り気配り】
  をしている。
 学級担任をした経験で言うと、指導者は担任とは限らない。子供がリーダーシップを握る事もあれば、補助の先生が実質リーダーをやることもある。
 要するに全体を察知する人間が必要でそこが全体を動かすことができる。
 多分どんな人間の集まりの動きもそうに違いない。
 謙虚さよろしくそこを譲ってもたれ合っていては物事上手く行かない。
 厳しく言うと責任とはそういうものではないだろうか?
 形上の責任と実質が合っていても合っていなくてもさほど重要な事ではない。
 どこにもそれがない時、集団の動きが鈍り、全体が思うように運ばない。
 

 
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ミュージカルと想像力

ミュージカルは想像力に尽きると思う。演じる主体〈自分自身)と、お客さん、この二つの想像力の総和によって出来不出来が決まるのではないか?
この二つは不思議にも一方を広げると他も広がる。相互に関係しているようだ。
 舞台上のプレーヤーが想像力において観客に負けると観客は舞台から目がそれ、更に離れる。お客がプレーヤーの想像力を引き出すこともあるが、殆ど稀。
 だからプレーヤーの、想像力は大雑把では済まない。稽古のように地道な一つ一つ丁寧さが欠かせない、とドジのくせに思っているようだ。
2幕の幕がなかなか開かない。このまま終わらなければ良いが‥。
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忘れられない言葉

追っかけていたミュージカルの田中監督が、稽古の時、ナレーションン役の若い女性に演た後、舞台のみんなに聞きけるような大きな声で「〈演じる人が入れ込み過ぎると、思ったように他人には伝わらない。せりふに貴方の〈これまでの)人生をかけるんだよ!来週までの宿題だ。」と明るく淡々と語っていた。
 私なりに言葉を俯瞰する事の大切さと、その言葉の背景にどれだけの想像があるかによって、言葉の響きも意味も異なるんだ。せりふと自分の人生を向き合わせた時に出てくる空間と意味。だとすれば人生をかけない限り言葉は半人前にしか働かない。だから稽古が必要だし、稽古すれば一回一回変わって良くなるんだ、
そういうものか。
言われてみると当たり前のことだが、そこまで気が付かなかったし、言葉に出来なかった自分が見えてきた。
 稽古し磨くことの大切さはミュージカルであろうと、日常の会話であろうと、
 人前での話しであろうと同じだろう、とドジは考えているようだ。
 要するに同じ言葉であっても、言葉の意味は人生同様日々変わるものだと言いたいのではないだろうか?
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シナリオが見えない。

第2幕は
書いたスケジュールではなく心情を含めたイメージ、想定している全体図。(全体図は変わって行くが)それは自信に繋がる。
憲法ミュージカルの監督はシナリオはとりあえずの目印で(スケジュールのようなもの)頭の中にはそこに書けないシナリオを持っており、彼の自信のもとのようだった。
シナリオを持っているのが個人であれグループであれ、これがないとばらつき不敗の論理は働かない。
短距離走だから暢気な事は言っていられない。
 難しいい事は言うまい。
人を大事にする礼儀である。身近な人への礼儀を欠いて
 遠くの他人の心がつかめるだろうか?
 挨拶も出来なくて何が伝えられよう?
 そんな乱暴なミュージカルを誰が見る?
  礼儀が難しかったら、人の良いところを少しでも見つけて褒めたり批評し合って、相互のエネルギーの質と量を高めてもいい。
 礼儀も褒めたり批評しあうのは相互を俯瞰する初歩かもしれない。
 大変そうな地球上でドジドジはそんなこと?を考えている。
 
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ミュージカルの意味

ドジのミュージカルの追っかけは、2年前【憲法ミュージカル】を見てからだ。 
 殆どのメンバーは素人で、学齢前の子どもから、80歳を過ぎた老人、車椅子の人もでる、総勢百人。
 初めて見た時、幕が開いて間もなく涙が出てきて足からガチンガチンに堅くなり熱くなった。
 終わりまでそれが続いた。
 その時監督の田中○○さんに興味を持ち、それ以来彼と憲法ミュージカルを追った。
かれのすごさは、お客さんも、裏方も、どの人も、幕が開く前も、やってる時も、終わった後もいつのまにかミュージカルの一員にしている。
彼は現実社会が舞台なのだ、と言ってるように見えた。
オーディションも受けず、ドジは最初から最後の反省会、次の計画までミュジカルを追っかけていた。いつのまにか追っかける人が増えていた。
 監督はじめ歌唱や踊りを指導する人が怒ったり注意したのをただの一度も見なかった。
 全て個々人の内面を引き出すための声掛けだけだった。
 指導者はあれこれ言わないが、全体をようく見ていて個々人をどう生かすかを最後の最後まで自分に厳しく生かし方を求めていたようだ。
 素人には玄人の技術ではカバーできない、個々の真似の出来ない内面的な価値観や感性がある。
 それらの全体を舞台に位置づけるのだから、スケールは大きく、(均質的な)プロには真似のできないミュージカルになる。
 (勿論、プロはプロとしてのよさはある。)
 追っかけをしたミュージカルは舞台の上も下も若い人がいっぱだった。他ではあまり見ない風景だ。
 
ドジは ブレーキを踏まないよう注意して応援するだろうが、今はミュージカルの意味が微妙。田中監督ならどう内面を引き出し、俯瞰図《全体図》の中にどう位置づけるか?と思う。
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七生養護裁判から学ぶ

ドジは先日、東京地裁で日野市七生養護学校の性教育についての判決が下りるのを見に行った。
 問題にした市会議員や東京都教育委員会へ不当な介入をしたと裁判所は判断し、全体的には原告が勝訴した。恐らく被告側は抗告し裁判は続くだろう。
 勝訴したとするが、教材は都教委が持っていったまま、被告として訴えられてるメディアは判断の外に置かれた。
 ドジは、原告弁護団や裁判官共に教育論の浅さを感じた。教育の事なのに子ども不在。
 裁判だから法律を基にしてということだろうが、それで良いのか?
 社会のいろいろな事は法律だけで成り立ってはいない。立法(律法)以前の自然の法や条理もある。それは基本で除外して法律だけで交通整理出来るだろうか?
 持って行って返さない教材教具をどう見るかである。
 あの持って行った教材教具は学校側が購入したり作ったりしたものだが、
教材教具を持ち主の観点だけで見ていいものだろうか?
 教師が教材を作る時、教育上子どもが求め子供に必要なものを作る。
 こんな場合もある。
 ある子供の書いた作文を学級みんなに紹介することがある。この教材は子供の手作りだ。子供の言葉や動きは教材の原料提供者で、著作権はどちら?
 子供達の経験やアイディアで教材を作ることもある。
 内容的に教育で使う教材を発注している大元が教師だとは簡単に言い切れない。
 ある意味で教材教具の求めた大元の主は子供ではないか?そうでなければ教材教具の意味がない。
 この辺の線引きすること事態難しいのは事実だが、曖昧だからといって一方的に持ち去るものが違う。あれには子供の心が入っている。
 子供の作文や絵などの作品を教師が勝手に処分してはいけないように
 現場の教師や子供が持っている教材教具を一方的に持ち去るのは教育や人の条理に反していないか?心を持ち去るに等しい。
 これを判断の外に置く事は、結局条理に反する事を判断しなかったことにならないか?裁判以前の人としての判断を。
 そんな事でこの判決は曖昧さが残るが、この後の発展整理が楽しみでもある。
 七生の性教育と言う山をそれぞれの立場で深めて俯瞰して見て欲しい。
 是非、この後、あの山にある大事な大事な宝のような中身を、被告も弁護団も裁判官も掘り起こして欲しい‥ とドジは願っているようだ。
 選挙も裁判も勝った負けたは分りやすいが目を曇らせやすい。    
 

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自然体が授業のコツ

 1、教室いる人たちの中で最も理解困難な子供に焦点を合わせ、その子の反応を見ながらできるだけ話す内容を精選し、出来るだけ内容を少なくして、ゆっくり丁寧に、単純に話す。
 伝える工夫としては、(出来るだけ)論理的にならないようにし、伝わりやすい単語《名詞》やフレーズを中心に助詞は最小限にする。
 オバマ氏がチェンジ・イエス ウイ キャン・ワン
 小泉氏のワンフレーズ政策
 田中角栄氏の演説の数字の多用  は教師の技術と似ている。
 2、授業の開始、特にこれからやる内容が全員でやれる内容であることを短い言葉で伝え、興味と意欲を喚起する。途中でだれたら、分りやすい言葉を挟んで意欲を持ち上げる。
 これは教材を作る時、その構成の仕方も同様。
 話す場合も補助教材を作る場合も、全体量を最小限にし、聞いたり読む
 主体が子供達だから、あれもこれも入れたがるが、教師中心になり、押し付け学習の意欲を下げ子供は逃げる。
 3、間の取り方
  話す時は出来るだけゆっくり話す。
  子供に想像してほしい大事な言葉の後は、さらに間を長めにとる。
   これはプリント教材の時も同じで、空白は大事な意味があり、空白によって
   伝えたいものの意味が変わる。絵や書道と似ているかもしれない。
 4、話す自分が自分の話に耳を傾け、聞いてる子供と同じ流れで思考する。 
   そうすると子供にどう伝わりどう反応しているかが見えてきて協調してくる。
 5、子供に伝えるもののうち言葉で伝えられるのはメッセージの30パーセントぐらい、子供はこちらの全身の動き、表情、目の動きなど全体でメッセージを受け止める。変だけど役者みたいなところがある。子供も全身こっちも全身になると教室が一体感になる。
   
   こうやって列記すると、誰も身動きできなくなる。
  実は逆で、力を抜いていちいちこんな事を考えないで頭を空っぽにしてやるのがこつのようだ。そうしないと子供の心に集中できない。自然体の追求のようだ。
  修行ではないけど繰り返しやらなければ力が抜けないし子供に集中できない。
  ここでは教師経験で言葉にしたけど願いぐらいで意識もしないし出来たこともない。教師かどうかは関係なく、どんな人のコミュニケーションも原理的には同じかもしれない?
 職業として40年間トライし失敗を重ね
てきた。ドジは今もこれからも千の風になってもトライし失敗を繰り返すだろう。
 だからドジドジなのだと言う噂がある。

  
  
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スズメに教わる

スズメの学校のドジドジはスズメから学んでいるようだ。
 エサを持って庭先へ出ると、スズメは隣の屋根や高い電線に飛び移り、あちこち俯瞰している。ドジを避ける意味だけでなくネコなどの周囲の危険に対処してる。
エサをやって電線のスズメに手を振ると、今日は1羽か2羽のスズメがミカンの木まで降りてきて、家に入ると、いつものように山鳩と一緒にスズメが群がってエサを突っついている。
 どのスズメもエサより安全を優先する。その逆は1羽もいない。
 距離を縮めるヒントがここにないか?

ヒトも同じで、誰がどこで何をしていようと身の安全を第1に優先して行動する。俯き加減にひたすら歩いていても、メッセージを拒否しても同じ。
 
地球的な資源の枯渇、温暖化、疫病、世界的な経済危機や武力衝突から、個人的な1日3度の食の安全に至るまで、ヒトの安全が脅かされている。その出口が見つからなくて、所謂「世界的な閉塞感」とヒト自ら言っている。
 ヒトはその時、どの安全を優先させるかの違いはあるだろう。
 この町に暮らす人々は誰もが危険を察知し安全の確保を望んでいるだろう。
 日々の生活に追いまくられ、この町に在り、起きている安全を損なうものを誰しも知って早めに対処したいだろう。
 でも生きなければならないからスズメ同様、危険そこそこでエサをとらなければならない。
 問題は安全・安心の何を優先するか?である。安全安心は一人ひとり違うから押し着せられないが子供は将来の最大の共通項かもしれない。
 現役の頃、教室に入る時ドアの開け方から教卓に足を運ぶまで、どれだけ教室の空気を読むのに集中するか。そして、まずはじめにかける言葉も指導の細案を持っている時も、子供達が求めているものにうまく答えないと、間違いなくそっぽを向かれ、授業は失敗する。
現役時代ほとんど失敗ばかりしていた。
養護学校の先生、保育園の先生、子育てする母親の真似はできないと、ずーと思っていた。
 このイメージ・感覚が全てを決めると、ドジは堅く思っているようだ。
 
これまでの政治の文化はそうではない。陣営の勝負をやっていないだろうか?
 ヒトビトはそれを求めてはいないし授業やミュージカルならそれまでになる。
 他人への一声も駅頭の宣伝も町行く宣伝カーも、渡されるビラも、授業であり、教材のプリント見たいな物。安全が確認されると安心して次のステップへ進める。
  良し悪しは
 それを識別するリトマス試験紙はある。授業後、子供が寄って来るか、散っていくかを見ればいい。他の事でも同じだろう。
要は小さな新しい芽が大きく育てば勝っても負けても
次に繋がるから(本当にやっていれば)失敗はあっても負けはない。≪不敗の論理≫
だから選挙も授業同様、本物かどうかがが試される。ゴールはないから磨き続けることになる。磨けば周りの風景が良くなるから御褒美は十分。人生の一コマなんだからそれでいい。
 
 これは、スズメの学校の話。

 
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