私の考える対立・対抗軸

日本の政治の対抗軸を求める評論が新聞や雑誌でも目に付く。内政では、地方分権の実質化の違い、また強力な改革路線かバランスに気をつけた改革路線か、外交ではアメリカを基軸とするかアジア外交とのバランスか、等論ぜられている。世界の全体的なグローバル化を考え、日本の位置を考えると、対抗軸は世界的で少しオーバーだが人類的な意味を持っている。
私は対抗軸を次のように考えている。
対抗軸は主義主張や政治力学で考えるべきものはなく、事実や現実の関係から見出すものと考える。対抗軸を極論的にいうと
(人類を含めた)地球をとるのか(地球を含めない)人類をとるのか 補足的に言うと
 (人間の内面を含めた)自然をとるのか (人間の内面を含めない)人為をとるのか  ではないかと考えている。
例えば、経済で考えるとパイの拡大(経済成長)や分け前(分配)で人と人が対立しても、富そのものを無断で取り出している地球とは対立しようとはしない。しかし地球と取り出している人類が対抗してるのは、客観的事実である。人にも言える。
自然をないがしろにした、諸々の人為が、社会を閉塞させ人を荒廃させてはいないか。
上記の客観的な対抗軸が政治だけでなく経済や文化教育は勿論、家庭や個人の価値観や生活にいたるまで意識されるようになれば良いなと考えている.特に子供には早く気がついてほしい。否が応でもそういう環境のなかでこれからも生きていくのだから。
      


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 思い出すこと2 小学校の先生になった初めての日

埼玉県の上福岡市の第2小学校に着任した。始業式が終わり並んだ子供たちを離れの木造校舎の教室に誘導した。着席した子供たちを見て、はて?この子達に自分の言葉が通じるだろうかと不安になった。子供たちも初めてなので緊張してるから行儀がいい。(勿論その時は子供たちが緊張してるとは思わなかった)
私は恐る恐る、「廊下に出て背の順に並んでください。」と声をかけた。子供たちは廊下に出て並んだ。次に「しゃがんでください」「立ってください」もやった。大体そろってできた。私はホーとして教室に入れた。背の低い私はそれまで高校でアルバイトをしていたので、視線がいつも上に向いていた。急に下のほうに下がったので、なにやら、わけのわからぬ小動物がうにょうにょ這い回っている感じだった。
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思い出すこと1

自分はもう年だし時々振り返るのもいいかなと思う。しかし「今」に最もも関心があるので、断片的になるが「今」に繋がることを確認の意味で記してみたい。今日はその1。
私は今生まれて65年になろうとしている。最も小さいときの記憶は3~4歳の頃だと思うが、家族で防空壕に逃げ込んだ時のことだ。(終戦の日や小学校へ入る前のことはいくつかの場面はのこている。)北海道の田舎町の外れに我が家はあった。真夏の天気のいい日だったがなぜか親父も家にいた。昼頃、近所の大橋さんのおじさんがメガホンを持って「警戒警報」と連呼ながら走っていった。親父さんは木札を表札のところにかけた.間もなく、さっきのおじさんが「空襲警報」と連呼しながら走っていった。親父さんは表札をひっくり返してかけなおし、両親と兄弟4人は(その時は弟二人は生まれていなかった)がリュックや水筒を持って、家の前の防空壕に逃げ込んだ。防空壕の中に焼き物のつなぎ煙突1本を空気孔に屋根に挿してあった。私のすぐ上の兄貴が、そこから空を見て、「B29が来るぞ」と格好いい物を見るかのように嬉しそうに言う。私は順番を待って空を見ると、銀色に光った飛行機が2機が青空高く飛んでいるのを見たような気がする。全く怖さはなく兄貴との面白かった思い出として残っている。親父やおふくろ、上の兄貴2人は記憶の中ではサイレントだ。
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粉飾・偽装社会

おとといは姉歯建築士等、偽装建築集団が逮捕され、昨日は粉飾決算の堀江氏が3億円のお金を積んで保釈された.今日の朝刊は、厚生省の外郭団体(会長 奥田経団連会長)が帳簿などの偽装隠匿で、原稿料を装い厚労省職員等に金銭提供との大見出し。
テレビをつけると朝からニュースもスポーツもタレントを中心にショウアップされ報道されている。マスメデアの粉飾偽装だ。
先日、このブログで「学校や学級の偽装建築」のことを書いた。
世の中、公も民もなく粉飾偽装があふれているようだ。
建築は言うまでもなく、どの分野にも管理監督する所轄の官庁があるはずだが
責任をとったというのをほとんど聞いたことがない。会社なら経営の責任者が責任を取るが通例だ。上意下達の役人も建前は民間以上に責任体制はあるのだが、過去の例を見るとほとんど責任らしい責任は取ってはいない。学校で言えば学校長。議員さんも公務員云々の話をよく聞くが、自分自身が特別公務員で、公務員を監督する立場にあることをお忘れになってはいないでしょうか。なぜなら法律をつくる国権の最高機関の公務員なのですから、最高の責任者ではないでしょうか。今回の1連の事件の監督責任者いないのでしょうか。固定資産税は誰が決め誰が取るのでしょうか。
それはそれとして、スポーツ番組でやたらタレントを使って絶叫するのはやめてほしい.ショウアップして、盛り上げ、視聴率を上げるためなのだろうけど
私は迷惑だ。子供の頃からスポーツは大好きだったし、実際のスポーツ観戦も趣味だしラジオやテレビの実況も
よく見てきた。しかし最近の報道はやかましくスポーツの面白さが消し飛ばされてしまう。せいぜいスポーツや選手の味を殺さない程度にしてほしい。音楽でも何でも文化には、それ固有のの雰囲気と味があるというのに。粉飾偽装され安っぽく合成剤で着色された報道番組が家庭の茶の間まで入ってくるのでうんざりすることもある。勿論全部が全部ではない。報道に目を洗われたり、涙することもある。しかし心配な大きな流れは指摘しておかなくてはならない。いつまで粉飾偽装の社会では人類は生き延びれないだろうし、うんざりする人も出てくるだろうから新しい人や新しい展開を待つことにしよう。
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親の社会的責任

子供たちの困った問題が生ずると、親の躾等、親の責任を問うことがよくある。
確かに子供を育てる家庭や親に責任はある。
ここで考えてみたいのは、どこまで親に責任があるか。親は子供の全てに責任を感じるものだが、社会的な責任まで全てあるのか。
先日、東京都の議会報告を見ると石原知事は、保守系議員のニート対策についての質問に対して
「豊穣な社会の中での甘えの露呈。支援を行うが、やはり当人、保護者の自覚の問題。」と答えている。(知事は戸塚ヨットスクールの顧問でもあるから当然か)
人気抜群だから多くの都民もそう考えているのだろう。
教育、医療、心理関係の現場でそう考える人は滅多にいないと思う。
ニートや引きこもり、不登校、抑うつ状態などは、学校や社会への不適応という共通点がある。不適応は本人の自覚の問題か、器の問題か,簡単には言えない。
世の中には困った環境や集団もあるわけで、場合によっては不適応は健康な印でもある。
まして今日のように、父親が単身赴任したり、残業で帰りが遅かったり子供も塾などで、母親が晩御飯を一緒にしたり家族団らんをしようとしても、かなり難しい現実。父親だけではない。母親だって同じような立場だろうし、実際はそれ以上に過酷ではないだろうか。多くの父親だって、好き好んで帰りが遅いのではない。
仕事という社会的責任があるからだ。親の責任を優先させられる人がどれだけいるだろうか。社会的責任を優先させないとほとんどの人は食べていけない。これが現実だ。
こういう中で、学校に行けなくなった責任まで親は持つことが可能であり正しいことだろうか。現実の子供を教育するのが学校だし、管理も運営も学校がやっているではないか。器を作っているのは学校ではないか。このような状況にあって、学校に行けないのまで親の責任というのは誰かが身勝手過ぎないだろうか。お店にお客さんこないのはお客さんのせいといっているのに等しい
かつて英国の鉄のサッチャーは不登校を出した保護者に罰金を科したと聞いているし、神奈川県では、夜、徘徊している青少年の責任は親にあると条例化したことを新聞で読んだ。言葉だけ聴くと尤もだと思うのだが、現実はどうか今1度思い出してみてはどうだろうか。

補足 これを書き終わって ちょとがテレビをひねると、文部大臣が今国会に教育基本法の改正を上程するとの談話を発表していた。その中で、上記の家庭教育についてもはっきりさせるとのこと。付け加えて今日的なニートについても「職業につく態度の育成」も項目にこめたとのこと。
これも、チャンネルをくるくるやるテンポで見ていると、尤もだありがたいと思うはずっだ。ところが現実に直面している人は、「もうやめてくれ」と言いたい所ではないか。私流にその現実を感覚的に言えば、植物にたとえるなら、水のやりすぎによる「根腐れ」肥料のやりすぎによる,「肥やしやけ」が原因なのになぜ追加するのかといいたい。
この表現も誤解されそうですが、親の甘やかしとは全く異なります。簡単に言えば
人間が本来持っている自然の性質を、よってたかって奪ったからにほかならないのです。所謂お勉強や躾は社会に出て行くのに大切なものです。だかっらといって、この人為的なものを無制限にやっていいものではないのです。人間はどんな人間も基本的に生物であり動物なのです。周りの自然と己の自然を融合した土台をないがしろにしては、どんな人格も構築できないだろうと思います。人を恋しがるのも、労働し自己実現を図ろうとするのも、他人に与えられたり育てられたりするものではないと思います。回りがそれを邪魔しなければいいのです。法律を変えたり
お金をかけなくてもいいから、天から与えられた性質を奪ったり壊したりしないよう運営し気をつければいいのです。本人や現場の話に耳を傾けてほしい。
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身体感覚パート3

身体感覚変化の自分の経験です。
先日、知り合いの小6の男の子と立川市の昭和記念公園へ行き、手漕ぎのボートに乗った。漕いでいて、背中の辺りが顔のように1漕ぎ1と漕ぎが感じられる。実に気持ちがいい。はて?と思ったのは、自分が中学・高校・大学生の頃、ボートは
デートの定番でもあり、ブーム的な人気があった。私も、中学の頃から友人と時々乗った。(だから今でもボートには少々自信がある)
漕いでいる時の体の感じがあの頃と全くといっていいほど違う。今のほうが気持ちがいい。しかし今の感じは、初めての感じでもない。ずーと思い出してみると、
今乗っている時のいい感じは、小学校3~4年生頃までにさかのぼる。(その頃までのイメージも、場面場面途切れているが残っている。)そうだ!あの頃の体の感じだと思い出した。
なぜあの頃の身体感覚が萎えてしまったのか、思い出して見た。
とにかくあの頃の気持ちの良かった感覚を取り戻すのに、40年近くかかったことになる。自分ではこの体の感覚の違いと変化は心理学や教育の中でも重要ではないかとずうと考えてきた。
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身体感覚パート2

このテーマは2度目。
簡単に言えば「体の感じ」と言うことになるが身体感覚の
言いたい中身を言葉にするのが難しい。「身体感覚を育てる」とか「身体感覚のバランスをとる」というような動詞的に言ったほうが近い。身体的な自分感覚と言ってもいい。また禅や太極拳・舞踊など東洋的な文化の中に直接ではないが言葉や方法があるようだが、おそらくすべての文化に含まれているのだろうと思う。学生時代ノイローゼになりひどい不眠症に陥り、にっちもさっちも行かなくなった。そこから抜け出すために
「身体感覚を変えれば克服できる」と考えていろいろやってきた。今は「やってきてよかった」「確かだった。」が実感だ

細々でもいいから、ライフワークとして発展させ効果的で解りやすいものにきればいい。断片的になるが、時々取り上げたい。
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学力テスト

文科省が小中学生の基礎学力を上げるために、来年から対象学年全員に学力テストを実施するとのことで、新聞の社説や読者の投稿など部分的だが賑わっている。
競争による弊害などが述べられるものが多い。中には子供の勉強や学校離れを心配するものもあった。現場的には確かめ済みの意味もあるから当然だろう。
私はもっと誰でもわかる基本的なところでの矛盾を指摘したい。
以前、ブログでも書いたが、今日企業の採用試験で重視しているのは以前のような学歴や学力ではなく、コミュニケーション力や、創造的な発想力、などの人格的な人間力を求めるるようになって来ているという統計的な事実がある。これが企業が競争に勝つために最も必要とする人材だという。経済団体の担当者はこの力は小学校からつけてほしいとのコメントもそえられていた。私はもっともなことなので、早速行政的努力のなされることを期待したいとその日のブログで書いた。案の定、学力テストの実施計画に見られるように教育行政の壁を越えると全く変わってしまう。誰が考えても、学力テストで前述の企業や社会が求める人間力をもった人材を育てる策とは考えないのではないか。もっと人間の土台をしっかり育ててほしいという要請が、教育界に入るとこのようにがらっと変わってしまうのです。
一斉学力テストがすべて間違いだとは思いません。しかしそれが教育的にプラスの意味を持つには今日の児童生徒の実態とテストの方法を慎重に検討する必要があります。その面から言うと、あまりに乱暴すぎます。テストでハッパをかけ競わせるのが有効なのはごく限られた場面だけです。全国的に実施して有効なのはおそらく学校制度の整わなかった、明治のはじめまでではないかとさえ思います。「官から民へ」「地方分権」これとも不整合。
どっちにしても時代錯誤がなはだしく、このような教育は人文科学の科学から程遠い。
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新しい人

政治も経済も教育も日常の生活も人間の全ての営みや所作は広い意味で文化といえる。1元的ではない意味とか価値というものさしで見ることができる。
現在の行き詰った社会に作家の大江健三郎さんは「新しい人」を期待している。大江さんとは違うかもしれないが、私も「新しい人」に期待している。
それは既存の主義主張や政党政派・お金や権威に全く捉われないで、実際に人間の幸福に意味と価値を見出そうとする人。(逆に言えば、右翼でも左翼でもどんな宗教団体に属していてもいいからそれに捉われないで考え行動できる人)そのような本来的な意味で「新しい(文化的)な人」にめぐり合えたらなーと思う。そして自分もちょっぴりでもそっちのほうを向いて歩くよう心がけたい。
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崩壊過程

朝布団の中で小1時間考えたことは、「幸福」という観点から見たとき、多くの人たちが(発展過程)にあるという思いとは異なり、現実の人間社会は全体として(崩壊過程)にあるとはっきり思えた。それは現実が(格差社会)の枠をはるかに超えて崩壊しているように見えるからだ。
公的機関が幸福を奪いさらに奪いつくそうとしてるのに、人々は、「もっともっと!」とメディアのお囃子入りで唱和する。
被害者も、唱和するのだから、進行の抑制は効かず崩壊のスピードは速い。国によって多少ニューアンスの違いはあるが、日本はトップランナーに違いない。
心配しどうにかしないとと考えている人たちもいないではないが、ほとんど点在しているにすぎない、極僅かに点線(ラインまでにはなっていない)か小さなグループ程度で組織といわれるようなものは皆無だろう。
崩壊はいつまでも続かない。壊れてしまえばそれ以上は壊れないからだ。そして新しい時代は崩壊過程の中で点在していたものが新しい芽として時代の体をなすのだと思う。今、点はどこに存在しているか解らない。身近な隣のハナタレ小僧の中かもしれないし、アルツハイマーのおバーちゃんの中かもしれない。ちょっとしたら、自分の中かもしれない。
私は喘息もちの老人だが、せめて「危ないぞ!気をつけろ!」と声をかけぐらいはし
こけている人がいたら、笑ったり、踏みつけたりせずに、ちょっと手を貸すぐらいのことはしたいなと思う。


今日のテーマとは関係ないが、以前このブログで株で1年以内にプラスの結果を出しその時は、報告すると言ってきた。
この4月6日やっと、トータルで2000円水の上に顔を出した。株は教育の世界とはまったく異なり、ヒンシュクをかうかもしれないが、いまは面白くて仕方ない。午前中はパソコンにかじりついている。意外だったのは、囲碁に似ていたり、自分の心と直接対面しなけれけえばならないことだった。修行!修行!と格好つけながら暫らく遊ぶつもりだ。女房も子供もニコニコ見ていてくれる。ありがたいことだ。
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