守屋さん問題

防衛省の贈収賄事件で守屋政務次官夫妻が逮捕された。
 この事件は何を意味するか?
 守屋氏自身が言葉にしてる「軍隊」(自衛隊)やそこを管轄する防衛庁は何よりも規律が重視される。(だらしない若者を軍隊に入れて「焼き直せ」の話が出るぐらい)
 そこの官僚トップの政務次官が何年にも渡って汚職をしていた。逮捕された翌日、後任の政務次官が記者会見で国民に謝罪する。謝る人が違わないか?
  ここ数年だけでも運輸、国土、原子力、銀行、保険、厚生、文部、農林 警察 地方自治体 挙げれば切がないが行政が関与した不正な事件が発生した。そして今回最も規律の遵守が求められる防衛省幹部による腐敗した事件である。耐震偽装や食品偽装など次々出るのは、押して知るべしである。この件でもっと深刻な問題は、昨日守屋次官の後継の次官が国民に謝罪会見をしていたことだ。官僚の事務方トップと言っても組織的にはその直接の上司で任免権を持ち、全ての裁量し、管理監督指導していた【防衛大臣】が何故国民に謝罪しないのか?官僚のトップは政府であり大臣であり政治家である。
 官・政・業の癒着などと揶揄して言われるが、この言い方は誤解の元でもある。法のシステムとして官僚も業も行政の権限の前では勝手に一人歩きは出来ない。何故なら官僚組織の最高の権限は行政の総理大臣を中心に、取りまとめの官房長官であり、各省の大臣である。人事権を始め、裁量の権限を一手に持っている。法的に責任関係は明白である。何故?上司は 部下の仕事上の間違の責任を取らないのか?
どんな職場でも、(一般家庭でも)直属の長が責任を取る。
実はこれまでも全てと言っていいほど、霞ヶ関の上司は謝罪もせず責任も取らなかった。おかしくないか?
 
 法治国家のシステムが壊れている。権限を持つものが責任を取るのは世間の常識なのに、公の機関や立場の人たちが責任を取らない。部下に責任を取らせる。
いつの間にか(植木等もびっくりするような)無責任大国になってしまった。どこもかしこもだ。これでは、「このごろチョット変よ!」と多くの人が感じるような犯罪や事件が次々出てくるのは当たり前ではないか。
 
 福田さんと小沢さんが大連立の話をした「心」は私なりに、分るような気がする。(単に年齢が近い事もあるが、私の推測だが、2人は共通の危機感を抱いていたと思う。多分、国の内外から迫るする日本の経済的危機に、【内輪もめ】などしている場合ではないという共通の認識があったからではないか。大連立が良いかどうかは簡単ではないし、私は「危機」も、多分、お二人が考えているより根の深いだろうと思うが、誰の目にも見える形で現実的に経済危機が迫っていることも事実だろう。(私は勝手に、)お二人の胸中を察する思いでいる。

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「教職大学院19校認可」

これは、11月27日朝日新聞夕刊1面の大見出しである。
教員の指導力不足を解決し、レベルアップを目指しての文科省の施策らしい。
 新聞を見て「あーあ、まだやっている。」とため息も出ないぐらいバカらしくなった。 国は「お金がないない。」と言いながらこうしてお金を使う。(こんな事をするならどぶに捨てたほうがいいと心底思う。教師の資質を上げるのにお金なんかビタ1文いらない。)
女房に「文科省の役人は、こんな事を本気で考えているんだ。いまどきこうしてお金を使うんだから。」
 女房はもともと中学校の教員だったから、細かい解説はひつようなく了解する。
 小中の現場で定年になるまで教師としてあれこれ経験してくると、上記の策が全く見当外れであることは少なくても(出世)より(子供)に目を向けてきた先生なら、教師の立場に関係なく殆どの先生が心から納得するだろう。
 教師達の言うことが信用できないなら子供に「好きな先生」のアンケートをとるといい。 子供を利用したくないと言うなら、保護者に「いい先生」のアンケートをとるといい。
 また、すでに教職大学院出の卒業生が既に現場で教師をしている人結構いる。実際、どうなってるか評判を聞けばいい。だから文科省のこの方針の良し悪しの実証は少しも難しくない。
 にも関わらず、こんな案が出てくるのは、役人や、直接子供と関わらない学者は教師の資質を自ら持ち合わせず,理解できないからに他ならない。(彼らの経歴や職歴を見るとおおよそ求める方が無理な気がする。)
大学で余計に学問し実習して簡単に身につくものではない。教師の資質や指導力は現場で見ていると文科省の役人の意向とは逆なっていることが多い。
教師に必要な資質は子供時代からのいろんな生活経験とそれを基にした想像力である。
 資質を持たない学者に【教育】と言う理屈で枠にはめられ、にっちもさっちも行かない教師は既にもう沢山でているし私も沢山も見てきた。退職を余儀なくされた【特訓された】先生方も少なからずいる。
 東京学芸大の教師を育てる先生である【ある教授】は現場経験を志したのは立派だったが半年もしないうちに、お休みせざるを得なかった。(そんな例もあるぐらいだ。似た話は山ほどある。今年日本教育学会に参加させてもらったが、殆どの学者は小中学校の教壇に立つのは無理だと思う。何故なら子供と付き合う資質を持たない。)
「お金がないない」といって、こんな馬鹿げたことが世の中をまかり通る。
 月瞰図で地球を見ても、子供のそばで世の中を見ても、やっぱり、かなり滅茶苦茶だ。
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「月から見た地球」の復習

先ずは、青く美しい球体が夜空に浮かぶ。望遠レンズで写真を撮る。以前撮った写真と3枚並べて見る。海や陸はかなりはっきり写っているが勿論自分のいた街や人の動きは全く見えない。目を凝らして3枚の写真の陸地や海を比べると、青く見える海が幾分広がりその分陸地が小さくなっているようだ。北極や南極の白い部分がわずかだが減り海が広がっている。望遠鏡を取り出しもう少し細かく見ると、ヒマラヤやキリマンジェロ等の山々の白い部分が小さくなっている。端っこから陸地を追うと、何と、あちこち緑に見えた部分がちいさくなり、茶褐色に変わっている。再度海を見ると何と海に浮かんでいた島々がそれぞれ一回り小さくなり、中には見えなくなったのもある。 また陸地を追うと、山火事だか戦争だかピカピカ・ぼうぼう光っているところがある。確か地球上の人口は急速に増えていると聞いてきた。しかし目の前の地球を見ていると人の住めるところはこの3枚を比べても小さくなっている。気になって高性能の電子望遠鏡を取り出して見ると、なんと雲の流れが過去のものと明らかに違う。しかも、レンズかガラスを通すように地球がボケてきている。地球はどうなるのか?と、行った隊員は全員心配顔で、顔を見合わせた。

私は月から見た地球の姿を鳥瞰図や俯瞰図ならぬ「月瞰図」と言うことにした。我々にとって何が大切か?の優先順位が分りやすいのでこれを基本に物を見たいと考えている。

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言葉は道具

人が言葉を習得し言葉を使って社会生活をする。だからより多く複雑な言葉を習得することにより社会の求めに応じられると考え、現在の受験競争や学歴社会はある。
ところで、チャップリンの「ニューヨークタイムズ」?だったか,ベルトコンベアの前で機械に合わせてチャカチャカ動き、会社を出てもチャカチャカした動きが止まらない、と言うのがあった。
 現代は、コンピューター制御で、お風呂に入り、飛行機に乗り、心臓を動かし、熟睡する。
 「言葉は道具」とも言われる。するとチャップリンではないが
言葉と人の関係が逆転し、言葉が人を動かし支配するなることも考えられし実感でもある。社会の仕組みも動きも社会的な言葉によって決まる。私が言いたいのは、このような中で個人の持っている言葉は社会的な道具としては殆ど用いられない。社会的な言葉(道具)や文法でへんてこなことになっても我々はそこからは逃れられない。全部が全部こうなっていると決め付けるわけにはいかないが、これが我々が生きている社会と我々の現実的かつ基本的な関係ではないかと思う。だからこそ、価値の逆転した馬鹿げた地球上の人類を月から何人(なにびと)も見ること出来るようになってしまった。

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すずめはまだ来ない

(淋しいが)どうしてもすずめが来ない。猫に襲われるのを避けている。
 すずめは身の安全とえさの優先順を絶対間違えない。今のところ間違えるすずめは一羽もいない。
 人間も本来はすずめと同じだろうとは思うが、現実は優先順位が逆になっているようだ。
 月から地球を見ていると、誰でも100人が100人、人間が自らの安全を省みず足元を掘り崩していることに気が付くはずだ。
 昨日近所の考古学を学んでいる大学生とそんな話をすると。「人間だから欲を離れては
生きられない。仕方ないよ。」と何のためらいもなく言う。自分の年のせいか?と思ったり、その学生は分っているのかなー?と思ったりした。彼は考古学で何を学ぶのだろう?一晩明けても、やっぱりすずめの方が我々人間より、考古学をやると言う学生より賢いと思う。

我々は知らぬ間に、本末転倒し、価値観の逆転したへんてこな空間を(普通として)生きているのではないだろうか?

状況についていけない人間と月からはそう見えるはずだ。

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開拓と開発

「少年よ!大志を抱け」は郷土北海道の開拓者精神の言葉。
「ディベロッパー」は土地や家を売買し、時には辺鄙だった田舎に突如町を出現させる。
「開拓」と「開発」の違いは何だろう?
 両親の親たちは明治時代「内地」から北海道に移り、開拓・開墾し農業を営んだ。あれには「開発」は似合わない。
 いつの頃からか、「北海道開発局?」が政府機関として設置された。
明治以降、北海道の経済は成長し人口も増えた。今は夕張市に象徴されるように、経済成長はともかく、街はシャッター街が増え、田畑は荒れ、若者は去り人口は減少する。
 開拓が似合う時代と、開発の行き着く先との違いではないか。
 これが日本中、世界中が「経済発展」の名で、開発したらどうなるだろうか?
ともかく、明らかに方向の異なるものを【開拓】と【開発】の1字違いで区別しているが、ややこしい表現だ。
 さらに「ディベロッパー」と横文字で格好良くなると、+と-の区別がますます難しくなる。
 文句のつけようのない格好いい言葉やシャレた言葉【プラスチックワード】にはよっぽど気をつけないと大変なことになる。
 「巧言令色少ないかな仁」は単に、個人の人格の域を超え、「社会支配の道具」として見なくては間に合わない時代になっているようだ。
 それにしても多くの店頭にハデハデな商品が並ぶのは何故だろう?どこもかしこも、本屋さんまでそうなってる。
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子供時代

先日、高校のクラス会があった。30人ぐらい集まったが、田舎の学校なので、幼馴染が一緒に小中高と進学した。その中に小学校1年生のとき(黄色組み)同じクラスの子が5人いた。当時は恥ずかしくて言葉も掛けられなかった女の子(今は66のおばあちゃん)だって見境なく抱きつきたくなるような衝動すら走った。何からかにまで分かり合っているような気がした。この5人は60年ぶりだ。
今、戦後日本の作文教育では有名な田宮輝夫先生の本を読んでいる。彼は17~8歳で代用教員で今私の住んでいる近所の学校で教師として出発した。子供の作文に添えられた子供の作文より長いような先生の1文は、子供への想像力が素晴らしくとても真似できるものではない。出来れば1年間でも一緒に仕事がしたかったと思う。
 彼は教師の免許を持っていないだけでなく、個人的にも貧しい農家に育ち12人兄弟でご飯もろくに食べられなかったようだ。「田宮」の姓も養子先のものらしい。
 多分、想像力の源はここらと関係あるだろう。ないない尽くしに見えてたあの時代でも、肝心の自然はたっぷり吸収したに違いない。
子供時代の思い出は単に「思い出」ではなく、その後の仕事や勉強や暮らしなど全ての土台と言うかよって立つ(足の裏)のように、今に続いているように思う。足の裏が自然を吸収した。
 そう考えると、何でもあるように見えて、肝心の自然を殆ど吸収できなくなった現代の子供たちの(足の裏)はだいじょうぶかな?

今後、田宮先生みたいな先生がでてくる可能性があるだろうか?とすら思う。

教育再生会議の先生方(委員)の見ている先は全く逆だ。
 それより、それより、会議の先生方は足の裏から自然を吸収できるような立場にいらっしゃっただろうか?もしかしたら足の裏の話が通じない人ばかりかもしれない。

免許はなくても、それだけは必要だ。

幼馴染はみんなそこだけはしっかり確かめ合った感じだ。

本当に幸せな時間だった。

 

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あぜ道を歩いて

友達の畑の草取りで、隣の畑の境界のあぜ道を歩いていて気が付いた。
 どんな小さな草もちゃーんと生きている。中には小さな黄色い花や、ちっちゃなちっちゃな赤い実をつけて周りと一緒に一人前に生きている。
 昨日、近所の中学校が学校公開しているので見てきた。
 重い障害を持ち周りに迷惑な行動をとる生徒に、先生が良くなってほしいの気持ちで、必死に耐えながら指導していた。暴れる子供も大変そう、先生も大変そう。
 私も現役の時、似たようなこと沢山やってきた。
 あぜ道の小さな草を見て、昨日やっていた指導(私も長年やってきた指導)がどんな意味を持つのか考えさせられた。
 
スタンダードに近づけるべく、指導する。あぜ道の草や、家の窓下に来るすずめにスタンダードはあるだろうか?障害を持った草や生き物っているのだろうか?ちょっとしたら人間だけが作った【スタンダード】の基準で人を作り変えようとしているかもしれない。
草も虫も、 雑草や害虫の名で引き抜かれ駆除される事はあるが、スタンダードでないとは言われないし矯正されることもない。草や鳥って(スゴイ!)と思った。
 そこに教育や教育技術の基本があるように思った。
  まずは笑顔で向き合うことだ。遠回りしたかな?
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行政マヒ

ねじれ国会で、立法府が立法できずに困っていると思っていたら、それ以上に行政全体の管理監督庁は機能不全かと疑問に思うことがある。

  新しいところではあっちこっちの食品偽装。この国は何からかにまで偽装まみれではないかと錯覚しそうになる。そしていつも業者が1列に並んで「ペコリ」の儀式。

 ところでこの国は業者を取り締まる管理監督庁はないのか?法律を守るのは業者だが法の監督するのは税金で賄ってる行政・役人・公務員ではないか。
 (監督の不行き届き)の責任が国会でもメディアでも殆ど問題にも話題ににもならない。

国のシステムが機能してるか否か?国をあげて「国の人間ドッグ」を急いだ方がいい。
 管理監督庁は業者への調査・指導・指示・命令・は業者への殺傷与奪を左右しかねない権力を持ている。何故結果責任が問われないのか?【お見逃し】がまかり通るはずだ。(何故か車だけは例外)

おっとり刀の悪代官が知らんぷりして、涼しい顔で怒った顔をする。これもペコリとのセットの儀式のようだ。これでは、「どうにも止まらない」わけだ。 (1セット      ⇒       )

 

 

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非科学上の「科学的」楼閣

「砂上の楼閣」と言う言葉があるが、似たような意味で、現代の社会は、非科学的な『科学的楼閣』だと思う。
 「科学技術の進歩」と普通に言われるように科学は現代の一般的な価値観になっている。現代の地球上で、我々のあり方は体制の如何を問わず科学的云々の名を使っても(←向きの)非科学的な経済社会の上に在り、常に論理・現実共に、根源的な非科学性が問われている。
 今日も、両党首の大連合の相談の経緯が論じられていたが、、日本の最高権力者の総理大臣や、参議院最大政党の党首が(いくらメディアの力が強いと言え)ある新聞社の社主の意向に沿い国政の如何(大連合)を約束するという。
 突如自ら総理の職を辞す異常事態後、2ヶ月しか立っていない。
  一般的にはありえないような、国の進路を左右する頭脳の中枢でこんな乱暴なことが何故こんなに連続するのだろうか?
 福田首相や小沢党首は政治家としても今までのリーダーのようなパフォーマンス重視ではない誠実さを感じ、嫌いではない。
 どのマスメディアも口にしないが、前総理も、今回の両党首もぶち当たった壁があったからだと思っている。その意味で両党主を引き合わせ暗黙に了解察せた社主にも理があったのだろう。
 両党首からは『国政の滞り』『国の内外の課題』『政策遂行・実現』などの一般的な言葉しか聞こえないが、ぶちあたたっている壁はそんな抽象的で一般的なものではないだろう。そんな一般的なことなら、従来どうり一般的なやり方で済んだはず。
 我々の立っている非科学の基盤の崩れを(普通・一般的・科学)の言葉で処理できなくなっているからではないだろう。この検証は今後の日本の経済や社会がどうなるかを見る以外にない。何故なら両党首も話を持ちかけた人も其の壁を【いろいろな意味で】言葉に出来ないだろうから。

「阿吽の呼吸」や「プッツン」は分らないではないが何のことか分れと言っても無理じゃろが!何とかせー!  と言いたい。

世界のリーダーも日本のリーダーも「普通」と「普通でない」を認識し区別し言動に移すことが困難な、そんな時代に入ったのだろう。他人事で他人事でないような気もするが、大変なことだ。

メディアの論調には「壁」への突破口を模索する臭いすら感じない。何故バタバタした騒ぎだけを問題にするのか?。
社会に随伴する少々の崩れなら行政府で間に合うはず、与野党の立法府がバタバタするのは地滑り的な崩れを確信をもって予見しているからに他ならなく、給油などは言われるほど決定的な問題ではないだろうと思う。

メディアは何を見てニュースを流し何を見て論評しているのか見ている先が分らない。

非科学的な『科学的楼閣』の非科学性に我々は言葉を失っているのではないだろうか?。
大元に目を向け、矛盾に気付かない限り、
      
(物事の区切・決まり・囲い) があくはずはない。

 

 

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