適応指導

小学校の教師生活40年のうち前半の25年間は通常学級、後半の15年は障害児学級担当になった。20年ぐらい前に方向変換した。大きな理由は通常の学級にいた重い自閉症のW君にもっとやってあげられる時間があったらいいのにと思ったことと、通常の学校教育が行政や保護者からの有形無形の圧力で、手足が縛られ、教育らしいことが困難になったと判断したこと、障害児教育のほうがまだ教育らしいことができるだろうと考えたからだった。実際、障害児教育にも問題はあったがほぼ予想通りだった。
先日、障害児や不登校の児童生徒の激増が今後も続くだろうとこのブログに書いた。教師生活の前半、現在増加してる障害児や不登校児童生徒にあたる子供たちはどうしていたかを思いだしてみた。かつても 似たような子供はいるにはいたっが数が少なかったし程度も軽かったように思う。はみだしっこはどこにもいるものだと特別変わったこととは考えなかった。教師をてこずらせたことはあっても、そのことが原因で授業が成立しなかったり、学級崩壊した話は聞いたことがない。(めったにはないが同僚から見ても、明らかな指導力不足が原因で上記のような結果になったケースはあった。)
もう一つ、以前と違うのは、学級集団がいろいろな子供を包括する柔軟性がなくなってきたことだ。そしてどこへ行っても、似たり寄ったりで、画一的でよこのつながりがなかったり悪かったりする。本来子供の集団は
画一的であるはずはないから、本当の意味で学級集団になっていないことになる。居場所であるはずの教室が、「学力の競争 競争」と叫ばれる中、大元の学級集団がないがしろにされたり壊されている。教師はここに最も精力を要求されているはずなのに最近はほとんどそれらしい論議もお目にかからない。大人たちに言いたい。学級(集団)の大切さは小難しい教育論以前のこと。だれでも、子供のころを思い出せばわかる話ではないか。本末転倒が、保護者のバックアップの下にシステム的に進行しているから深刻だ。
昔から国の指導要領では適応指導を課してきた。不適応な子供が増えると、その子供たちを、不登校児、障害児扱いしているようにすら見える。原因と結果を取りちっがえている。
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大丈夫ですか?

東京のはずれにある、人口17万余のありふれたこの町だが、子供たちがどんどん壊されていくように感じる。市内の小中学生は10年前と比べるとおよそ1割は
減少している。ところが、学校に通えない不登校児童・生徒数はこの間およそ2倍(80→160)、心的障害児・生徒数は2、6倍(100→260)と増加した。内容を見ると今後もこの勢いで増加することが予想される。私の試算では全国や東京都の平均値からも、突出して多い。
学校現場を長く経験してきた私は、早くから予測してきたし、原因もおおよそ見当がつく。
困ったと思うのは、現場の先生方や教育委員会をはじめどこからもこの事実が知らされない。保護者を含めほとんどの市民は一般的な教育への不安は感じながらも、これらに直面した人以外は、この現実と向き合うことはない。時々聞かされる教育関係者の話も原因や対策は世間の噂話か言い訳程度。改善されるとは到底考えられない。
似た話だが
この町のいろいろな人に1年間の自殺者数の予測を尋ねると、ほとんどの人が4~10人。
「まだまだ多いです。」と促してもせいぜい20人どまり。統計的には40人を超しているのです。(実際の数を聞きに警察署に行ったのですが、教えてくれませんでした。)
命や子供にかかわるこれらの現実をも市民は知らないのです。メディアや政治は知ってか知らずかコメントらしいコメントをを見たことも聞いたこともない。日本中どこへ行っても似たり寄ったりではないでしょうか。現実を把握せず物を言い行動する大人たち。本当に大丈夫でしょうか。地球異変の問題など程遠い問題にちがいありません。ゆでだこか鍋がえるの私たち。

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後味よく書けたらなー

振り返って自分のブログを読むとやっぱり批判が多い。確かにそのブログを書いた後の後味の悪いことが多く書いたり消したりすることもよくある。
原因は根深く,直すのは難しいとは思うが、せっかくの日記だから何とか気持ちよく書けるよう努力しようと思う。1元論ではなく多元論が大切と頭では考えているのだが、体や行動が伴っていない.○×式の思考がこびりついているんだ。

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文科省の機能障害

2月9日朝日新聞の1面に大きな見出しで「言葉の力を柱に」の大見出しでサブタイトルに「ゆとり」転換「思考力を育成」次期学習指導要領全面改訂原案とあった。
確かな学力をつけるための基盤づくりという位置づけ.学力低下を招いた 現行指導要領の柱だった「ゆとり教育は」事実上転換されることになるとの説明だ。
多くの人はこれをどう読むのだろうか? 一般の人の常識でも、いろいろな意味でゆとりがなければ、思考力を育てるのは困難だと思うのではないでしょうか。実際に授業する教師だったら、よっぽどの例外な人を除いて、精神・内容・時間・方法などのゆとりは必要条件だと(新卒には悪いが)新卒の教師でも例外のないぐらい考えるでしょう。
審議会には実践家はほとんどいないとはいえ、教育学者もいるはず、何でこんな馬鹿げたことが(あまりにもひどいので)教育のトップから方針として出されるのだろう。学力低下の原因が全くわかっていない。
ここに至っては、ごちゃごちゃ考えるのも意味がない。社会のシステムや他の行政機構同様、機能マヒ・鍋ガエル状態と捉えた方が明快な感じすらする。これらの馬鹿げた堂々巡りも子供以外は末端までなびくから不思議だ。一方的に強いられても説明できない子供たちはたまったものではない。これでは、今後さらに教育は悪化し、教育の諸指標として数的にも表れるはず。関心ある人は学力でも行動でもいいから自分の好きな教育の結果らしい項目を一つ選んで数字を追跡して見るといい。不登校児や障害児の増加と同様の結果
出ると思います。
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滅茶苦茶ではありませんか?

学級担任に進められ、5年生の一人息子を小児精神科へ診てもらいに行く。
突然「自閉症」の診断。「結婚も就職も諦め身近なことができるように養護学校へ」と医者に勧められる。その日お母さん落ち込み、薬でやっと寝つく。今日、ある人の紹介でお伺いした市内のある学校の母親の話。今私の勤めている学校では、毎朝のように、昇降口や教室前で大泣きする1年生の男の子がいる。誰がこの子を見ているのか解らない。泣き止む見通しを誰が持っているのだろうか。ほかにも、クラスからみ出すといって関係機関に行くことを勧められている、3年生の男子。その母親も悩んでいるらしい。私は「彼が自閉症ならクラスの3分1が自閉症だよ」とその担任に言ってしまった。他方、燃え尽き症候群だかなんだかわからないが、クラスに愛想を尽かしているかに見える2人の先生は、突然定年をかなり残してこの春退職する。本校は単学級でたった6人の担任しかいない小さな学校でもそんな有様。近くの中学校は学年崩壊で、教育委員会への署名運動がなされた。不登校児ならぬ登校しぶりを訴える先生方の声はどこへ行っても、山ほど聞く。
そういえば、私の勤務校では「思考力を育てる作文指導」のテーマで具体的方法でわざわざ辞書を使った漢字の使用を促している。それがマイナスに働くことは、
実践した人ならほとんど例外なくといっていいほど知っていること。それが堂々と研究紀要になり、公に発表報告される。今日これらが堂々と公費を使って
まかり通っている。
「学校が壊れてる」以外に言葉はないが、上からも親からも、「行け行け」の声しか聞こえない。教師の横の会話はとっくに途切れてるから外には出ない。凄い。(言い訳になるが私は嘱託。)職員会議の出席は許されず、正式に発言できる立場にない。上司に背くと、採用取り消しが前例。よいわんわ、めちゃくちゃでござりまするがなの今の学校。


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知らぬ間に障害児激増

人口17万余のわが町は、ここ10年で小中学生の障害児は実数3倍以上の激増振りだ。不登校も2倍以上。全国的に増加の傾向はあるが、わが町は目立っている。私は教育関係者だが、当局から具体的な数字を示されたり、原因について述べたのをかつて聞いたことがない。文科省は障害児が6パーセントにまでなるだろうと予測しているから,本市もさらに倍増する。少子化云々するがこういう現実は当局も、学校の教員も、保護者もましてマスコミも一切語らない。
当市は今市議会議員の選挙中だが保革誰からもそれらのかけらも聞こえてこない。そういう中、当市は1万人近い小中学生が、普通学級に、障害児学級に養護学校に、そして、学校へ通えなかったり、登校を渋ったり、登校していても、毎朝薬を飲みながら騙し騙し通っている子、などなど。元気そうに登校していてもどれだけ楽しく希望を持って登校していることか。経験的には、「心細い」をはるかに超えている。大人たちよ子供に甘えるな!よく見ろだ。












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戦争と平和

戦争と平和は反対語のように思っていた。
戦後60年、日本は戦争をしなかった平和な国。総理大臣も時々引用しているし世論調査の結果も同じようだ。ところで今日の日本を平和といえるだろうか。
武力による戦争はしていないが、自殺や病気や犯罪の数、家庭や学校そして地域の壊れ方、人心の傷みはは広く子供にまで及んでいる。
戦争や平和の様相は時代とともに変わる。今は国を挙げて「お金お金」でお金のためにどれだけ犠牲を払っているか。経済きょうそうならぬ毛、ルールなき経済戦争になってはいないか。戦時中、新聞やラジオのメディアは戦意高揚のため戦場の事実とはかけ離れた大本営発表をそのまま報道したそうだし、住民の相互の監視体制もあったと聞く。男の子を産むと表彰されたりご褒美がもらえた話も聞いた。現在もどこか似ていないか。
戦争と平和は対極ではなく、社会の状態を数直線上に表した位置関係ではないかと思う。
だから戦争より悲惨な平和があってもおかしくない。極端な例だが、戦争がなくても地球の荒廃は人類を戦争以上にダメージを与え悲惨にする。
現在の日本の社会は数直線上、戦争と平和がどんな位置関係にあるか考えてみた。
そうすると今日の憲法論議で展開される、 戦争NON=改憲反対 は現実社会へのリアリティが感じられずく説得力に欠ける。まして今日の大赤字を抱えちいさな政府を目指す国が平和のためとはいえここで軍事力を準備するという改憲派の主張も現実からは方向違いを感ずる。
「今」が問題なのに。両者とも、なぜそこから論議しようとしないのか?論議の空回りの落ち着くところは決まったようなものだ。学級会がいい例だ。「今日の日本と地球そして一人ひとりの現実を見よ」だ。
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