爆弾抱えた我が町

以前このブログで,「障害児激増します」と書いた。昨日、それに関係した我が市の公的な資料を見せてもらった。とりあえず発信しておきたいのは、この市において、ここ10年障害児は恐ろしいほど確実に増してるし、今後このままというより今まで以上の速さで増えるだろうと予測されることです。市当局は、障害児と不登校を分けて捉えているようですが、合わせて捉えなければ実際が見えません。(特に中学)
 資料を見ていて市や関係者に全く危機感が感じられませんでした。実際、学校現場も同様です。数字的にはとっくに責任ある都や国も(勿論、野党や組合・学者も)問題にしなければならないものです。たぶんそうはならないと思います。
結局、マスコミを騒がすような大きな事件が起きるまで問題にされないでしょう。
いやいや、今日の状況は、一時マスコミが騒いでも、75日もたたないうちに、みんなの意識から消えるようです。涙ながらに《遺憾の意》を表明して1件落着です。
実際私自身、1人の中学生のことを、教育委員会の担当に話しに行ったのですが,聞き置くだけで、その後何の連絡もありません。
今新しく増えている障害児や不登校児の行動は論理的にも経験的にも不測を予測しなければなりません。
ある意味で爆弾はどういう形で出て来るか分かりませんが、統計と現実を見ると、爆発するのをひたすら待っているようです。認識の無いのが恐い。
この問題はここまでくると教育問題と言うより世の中の問題だと思う。
年寄りの取り越し苦労ならいいが。皆さん どうですか?
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列車脱線事故

 またも悲惨な自己が起きてしまった。まずは亡くなった方のご冥福と、いち早く傷ついた多くの方々への救助と今後の対策がしっかりうち立てられることを願っています。その上で思うこと。
事故を知って、まず思ったことは、電車なり線路なりの機構的な問題があったのではないかということでした。スピードの出し過ぎと聞いて、会社の経営上の問題が原因と直感的に思いました。そっちの方面は全くの素人ですから的はずれかも知れませんが、とにかくシステム上の問題と考えなければ、再発防止は出来ないと思います。秒を争うような、運転を求めていたのならなおさら、飛行機のように、副運転手を付けるべきです。あの小さな運転席で1人に任せること自体、人のいろいろな場合を想定していない。
突然、心臓麻痺だってあり得ることです。経営上の合理化が、安全面に関係したかも知れません。
とにかく再発防止には、システム上の責任と、実際的な事故対策が大切です。認可され経営しているわけですから、交通運輸の担当省も当然関わってくるはず。(今のところ何の談話もない)           もとJRの運転手さんが涙をこらえながら「お客さんも、若い運転手も犠牲者です」と話していたが、全く同感です。この国は上意下達が徹底してるのに、なにかあるといつも、トカゲのしっぽ切りですます。
これもどのぐらい待てば治るのでしょう。この事故でもう1つ思ったのは、1~2秒の正確さを争う電車のダイヤは 文化としてどうなんでしょうか。幸福な姿とは考えにくいのですが。とにかく教育同様、現場と 利用者の立場から徹底的に原因を究明し、社会的な責任もはっきりさせてほしい。
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学力検査の結果?

文部科学省は1月に実施した学力検査の結果、改善が見られると発表した。翌日の新聞ははそのことを一斉に1面で大々的に取り上げ報道した。担当大臣は「ゆとりじゃいけないと気づいて軌道修正した結果、今度の結果に若干ながら表れているんじゃないか。底を打ったという感じで学力は上がりつつある。」と述べ、脱ゆとり路線を変えない方針とのことだ。コメントした教育学者二人はそれを評価し、一人は漢字や計算の反復の傾向を必ずしも評価していないようだ。現場の教師の声として「教師ら 努力報われた」の声を大見出しに、「一喜一憂いさめる声も」と補足の見出し。読むと数人の教師の評価の声を中心にやはり補足的に『数字で一喜一憂してる文部科学省を見ていると、実に滑稽に感じる。計算や漢字は、100マス計算や、漢字ドリルの旋風が吹き荒れたのだから上がるでしょう。そんなことで上がるのを学力と呼ぶのは恥ずかしい」との声も。私は、漢字は国語指導の10分の1にも満たなかったと思う。計算は夏休み後、調子を取り戻すのに集中してやったことはある。子どもと教師がかみ合わず、学級崩壊しそうなクラスの担任に、漢字や計算のプリント学習を助言したことはある。テレビや、プリントは、指導力が無くても、よっぽどでない限り、離席せず、一応、静かにしているものだ。私の経験では時間がもったいなかった。だから補足の声が実感だ。しかし今回の談話はそれどころではない問題を含んでいる。それは、年に15000人生み出してる不登校児、障害児の激増.この子ども達は、学力検査そのものから除外されている。除外者数は普通の欠席数どこらではない。数字を言うなら、当然この数も発表すべきではないか。抑うつ児童・生徒数の驚くような多さが、発表されたのは半年前ぐらいだ。若者の自殺、引き籠もり、不登校,ニート、障害児、精神疾患は増加の一途を辿っているのに。何という分析だろう。これで教育の舵取りや、世論形成されているのだからはかなわない。おそらく、一般の保護者も、経済界もこんな教育や若者を期待はしてないだろう。結局つけは回ってくるのだから。それより子どもはどうするんだ?子供は口なしで我慢するだけなのだろうか。大人と子どもを繋ぐ通訳が必要なようだ。
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日本!ガンバレ!

中国の反日運動への対応を見てると、ちょっと心配だ。メディアに登場する教授や政治家の言葉が国内向けで、話し合い、解決しなければならない相手国に通ずる共通の言葉になっていないからだ。教師をした経験で言うと、子どもの喧嘩の言い分と似てる。教育などの国内問題と同様、国際問題でも全体的な状況把握のリアリティが感じられない。状況は内外問わず、かなり底をついている。(そこまで気が付かなかったと言れても困るが)  相変わらず経済中心の発想になっている。経済中心ならそれなりに、しっかり計算して、企業のように、フットワーク良く動いてほしい。足がもたついてる。発想が経済中心なのに語る人はその自覚が無く、変なところで精神性を持ち出す。感情的な言論は問題外だ。(現在)の状況把握を丁寧にやってほしい。この対立は長引くほど、いいことはないはず.今の論評を見てると一見定石のように見えるが,教育同様対応の方向が悪い。囲碁で言えば級レベルか。教育同様ミスリードではないか はっきり言ってこの問題は学者や政治家より財界人に現実感を感じる。 とエッラそうに書いたが、じじいの目にはそう映るから しょうがないのじゃ 勘弁 勘弁。学力検査結果の分析の大臣や学者の酷さは今日でも書こうかな。この方達の言葉とほとんどそのまま取り上げたたメディアの基礎学力・考える力を問題にしたい。当たり前のことを忘れている.またまた偉そうに言ってすみません。 憤懣やるかたない のー。 世論調査についても言いたいことがある。世論調査の質問項目とその結果は過去のほとんどどの問題は、想定内と言うより企画内に見えた。調査以前のメディアの論調通りだから。ほとんどの人は、メディアを判断材料にしている。それを越えた独自の情報を持ってる人は少ないのではないか。周囲の人や街頭での市民の反応もほとんどどこかで聞いた範囲内のことだ。メディアの言葉の使い分けまで細かく見るといい。言葉には語感で価値観を表しているものがある。批判ではなく非難、親~ではなく、反米・反日・反中国・反社会性であろうと後者は誰も良くは思わないはず。長く子どもに関わってくると、その辺も気になります。左右を問わず、10社近いメディアに統計上の間違った報道をメールやファックスで知らせたのですが、どこからも、受け取ったという連絡すらないのです。(最低の礼儀ではないですか)ある新聞社にそのことを電話すると「いちいち返事など出来ない」との素っ気ない返事でした。権威主義の裏を見た感じで、以後気をつけるようにしてるんじゃ。トホホ
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自動思考のコントロール

自動思考とは意識的・意図的ではなく自然と頭に浮かび、考えさせられ頭から離れずそれを意識的にコントロールできない。特に不安定な時や習慣化しているとき、多くなる。精神医学・心理学用語だ。昔から言われてる雑念や煩悩といわれるものと考えて良いと思う。誰でも持っているものだが、心が傷つけられたり、情緒障害や神経症・心の病などでは共通して自動思考が高まる。そののことによって、場にそぐわない言動が出る、本人にとっては頭や心がそれでいっぱいになるのだから、当然なことだ。思いと事実の境がはっきりしなくなる。だからこの自動思考をどうコントロールするかだ。実践の中から2つ。1つは、他人とのほど良い擦り合わせ・コミュニケーションだ。厳密に言えば人はそれぞれ、価値観や感覚を異にしている。それを程良くすりあわせ気持ちを通わせることによって自分自身を把握できる。不安とは、自分が捉えられない状態とも言える。すりあわせは強すぎても弱すぎても不安を高める。そこが難しい。マニュアルにはない。頼るのはこちらの直感と想像力しかない。もう1つは、「思い」と「事実」の照合。はじめ本人を相手に照合するのは、は嫌がるかも知れない。こちらがやってみせる。たぶん本人は興味を持つとおもう。人は誰でも「思い」と「事実は」ほとんど異なる。突き詰めると全て100%異なっているはずだ。恥ずかしいことではない。問題はそれをどれだけ近づけられるか。それだけである。日常生活で経験していることを、左右の対照表にして、書き込むと解りやすい。自分の思考や思いそのものが事実との関係で捉えられる。自分を左右するのは自分の思いではなく事実だと言うことに気がつくだろう。そうすれば自分の思いを事実との関係で、コントロールしやすくなる。実践では、かなり難しいケースだったが、確実に改善に向かった。 これは誰にとっても自らを解き放すのに、大切なことではないだろうか。

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学校のシステム

昨日,小学校のピカピカの1年生も、ひと月もすると反応が変わってくると申しました。原因が学校のシステムにあるとも述べました。説明を補足します。どの学校もカリキュラム(教育計画)に基づいて教育するのですが、これが教育される児童中心ではなく,公、即ちお上中心になっているのです.設置者は当然公です。しかし教育の中身・カリキュラムは歴史と共に変わっています。大きな流れは教師中心から児童中心、注入から学びへ です。戦後のきょういくはこの流れの逆行でした。そしてこんにちは更に加速化しているのです。新1年生を待ち受けているのは、週ごとに学習する一斉の指導内容です。しかも文字や数字。大人が見ると{お勉強}と映るものです。一人一人の心とどれだけギャップがあるか想像いただけるでしょうか。分単位のチャイムですら、子供の感覚になじむのはそれなりの時間が必要です。先生や友達とも関係は出来ていません。始めはほとんど偶然の寄り集まりなのですから。そこにもってきて、ひらがなや数字の練習。子供は何を想像して書いているのでしょうか。子供はどんな意味を感じているでしょうか。教育は最低学ぶものにその意味が認識されてなければなりません。本人にとって意味の感ぜられないものを強いると結果は嫌いになるだけです。いたって簡単な理屈なのです。これは大人も同じですから、難しい専門的なこととは言えません。そして結果がこれだけ出ているのに、更に拍車がかかっているのです。不登校が出るのは当然なのです。教育が子どもの方を見ていないんです。始めに鋳型ありきなのです。今日の学校のシステムとはそういうことです。子供にとって更に不幸なのは、同様なことが、家庭でも地域でも広く深く進行していることです。この関係は、子供の全生活にまで広げ捕捉ししスピードアップしているのです。考えてみてください。子供達はどれだけ自分の時間を保障されているでしょう。「いやいやテレビやゲームもたっぷりしてるよ」と言われるかも知れません。しかしそれは、本来子どもが望んでる時間と空間なのでしょうか。そこに仲間はいますか?私の経験では真のコミュニケションを望まない子どもはただの1人もいませんでした。全く例外はありませんでした。

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学校は非教育的?

勿論皮肉だ。小学校1年生の入学式。どの子も輝いてる。実際、子供達は1日も早く「勉強しよう」とせがむ。それは国語も算数も、音楽も体育も図工も全てに渡ってしかもほぼ全員だ。勉強ばかりでない。休み時間も元気に友達と遊ぶ。お掃除も大好き。初めのうち高学年が掃除をするのを恨めしそうに見ていて、「お掃除をしよう」と声かけするとワーと歓声が上がる。それは今まで小学校10校近く経験したがどこも例外はない。しかも現在も同様だ。子供って素敵だなーと思う。ところが,ひと月もしないうちに様子が変わってくる。始業の合図があっても、席を離れていたり、勉強道具が机上に出なくなったり。掃除当番が回ってきても前ほどでなくなってくる。これが半年もすると、ほとんど逆の反応や声が出てくる。勉強しないで外へ行こうと声を掛けると歓声になり、「勉強しよう」というとため息が漏れてくる。どの学校もどの学級もほとんど同じ。小学校の教員で低学年を何回か経験した人ならほとんど同様に感じだろう。興味を無くし嫌いにしたのは、何故か?事実として学校教育の名で嫌いにさせられている。答は簡単だ。誰でも強いられた物は好きになれない。人の法則だろう。日本の小中学校の不登校児童生徒数は毎年1万5千人新しく生み出されている。、教師仲間で生徒を見ていて、「順調に悪くなってるね」とこっそり囁かれてるのを多くの人は知っているのだろうか。誤解の無いように付け加えるが、これは教師や親の個人に期すことではない。システム上の問題だ。なぜなら新1年生の例のように、ほとんどと言っていいほど例外がないのだから
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大衆の病理

 先日、花見のついでに本屋へ立ち寄った。背表紙に「大衆の病理」というのがあった。目次を見ると
 社会学の社会病理現象のことだった。なるほどと思った。社会病理というとなんだか抽象的で説明がいる。大衆の病理となるとまさに人々に具体的に現れたところではっきりするし数字的に明らかになる.   ①自殺  1日96人
 
 ②病気   毎年3%増
 ③障害児に激増 この20年間でおよそ2倍今後割合早く今の2~3倍の見通し
 ③不登校、引き籠もり、ニート 増加の一途 発表の数字には操作がある。(不登校)
 
 ④犯罪  低年齢化 悪質か 刑事犯罪警察認知数 1日およそ8000件
 
 ⑤自然破壊 気温上昇 異常気象の増加 
 
各項目 どれも実質、数量的に毎年世界的な記録更新だ。(オリンピックなら金メダルのラッシュ。)  他にも,虐待 母子家庭 離婚 家出 集団自殺 麻薬 犯罪の低年齢化 癌の発生 などなど。誰が見てもこれらは一連の物として繋がっている。しかも自然ではなく人為だ、内容は必ずしも不景気を理由には出来ない。今日の日経新聞で東大のある学者がニートの原因を社会の階層化 (そこでは経済を指している)と論評していたが、ほんと?と思った。歴史や外国をを見たら素人でもわかることじゃないかなー。
ただこれらはメディアもあまり取り上げない。これらを一連の物として報道したり、背景を探ろうというのもほとんど見られない。だから多くの人が世の中の閉塞感と「最近ちょっと変だね」のように感覚的にしか捉えられないのではないだろうか。教育の世界でもほとんど議論の対象になっていません。何故か?都合が悪いのだと思います。責任をぼかし責任を取らない。反省がないから繰り返かえす。これは日本の病理体質か?だとすれば具多雨的に自分を含め人に出る。とにかく子どもは明らかな被害者だが、病理に境はない。感想を聞きたいです。
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わかるなー

同じ町に住む、同郷北海道、年端も同じある老人の詩 。事情で今は一人暮らし。いなかの空気、時代、出稼ぎ と似たもの同士で分かる気がします。今日は1つだけにしますが、この声は、天まで届いてほしい。そして彼のかけがえない、身内の人たちに。

   ひろみ がんばれ  (ひろみは 娘の名)
  
  つとめから、帰るペタルを 無造作に
 
  踏めば 子達の 顔を 思い浮かべて             も1つ

  
    昭和29年頃  暑い夏に思い出

   野良仕事 おふくろ不馴れな 口笛を

   吹くとき 不思議に 微風が

   生年時代の 心かすめる          彼は詩人だ


   
  
   
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身体感覚

身体意識と言ってもいいのかも知れないが、私が今まで1番長く関わってきた言葉だ。座禅を始めるとき、身体を左右前後に揺すり調整するが、あの身体の感覚だ。スポーツなど体を使って技術を習得するときのあの体の感じ。身体感覚は変化する。高まりもし低下もする。育ちもし萎えもする。意識的な努力で変えることが出来る。学生時代、自分の仮説(テーマ)にした。今、その仮説は全く正しいと確信している。当たり前のことだったのかも知れないが、私には、長い長い実験だった。(今も実験は続いている)
人の状態を把握するとき基本的で根っこにあたるところに思える。特に教育において。人を育てるとき無視できない。人は性質として備わっているのだろうが、今日のように、意識や人工が先行する時代 この性質が萎え損なわれやすい。この状況は大人にも子供にも広く見られる。他人事ではなく、40数年前私自身が経験し不眠症になってしまった。普通教育、障害児教育  共に基本的な観点であり、育てるべき内容だと考える。
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