世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
俯瞰すると
阿部さんに習って俯瞰すると
お金と理性と言葉(情報)が詰まってしまって回らないと ちょうどこんな世の中になるんじゃないかな 世界も日本も
行き詰まってるのは お金だけではなさそう。
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年越しの準備
かつて 私たちは 恥を文化の柱にし控えめを美徳としていたとも言われた。「菊と刀」
今は 恥(モラルやプライド・自尊心)を忘れたかのような公の掛け声と マスコミの音頭で 私たちは 踊っているかもしれない…
もし、そんなだったらと 振り返りながら 除夜の鐘を待とう。
とりあえず 掃き掃除 終わったら 窓ふき… なかなか大変だ! ハ~ へんなホコリがこびりついてる。
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今 大事な事
経済的な地位が下がるのは仕方ないとしても 倫理的な地位まで失ってほしくない。
それこそ 精神的な自信まで失い 子供や孫に 謝りようがない。 こういう時こそ 公もマスコミもフェアープレーに徹してほしい。
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先ずは 子孫への謝罪
「…私たちの子や孫、その先の子供たちに、謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。…今を生きる世代に責任を果たすことが出来たと考えている。」慰安婦問題での首相発言2015.12.28
子を持つ親として嬉しい限りの言葉だが、子供たちからすれば 70年前の謝罪より 現在 私たちが子孫に対して課してる 返す当てもない世界1の借金や解決法が分からない地球温暖化や放射能廃棄物の処理について 先ずは謝罪してと ならないか。
私たち世代と自分の本気度と誠実さが問われている。
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鈍感なジャーナリズム
アメリカの仲介で日韓の慰安婦問題に話がついたかのような報道もあるが
多分、むずかしいだろう。
個人であれ国家であれ 物事には決算できることとできないことがある。両者は そのことを自覚しないまま決着しようとしたようだ。
アメリカの仲介があったとはいえ 両者は判断する前提が解っていない。例えば首相が拘っている「子供や孫に…」は気持ちはわかるが 寅さんなら「それを言っちゃー おしまいよ。」になる。要するにセリフを取り違えているし 大統領も「日本が履行できれば…」と無理を承知の…たら…れば 返事。
ジャーナリズムも 両政府や指導者の不足を見ていない。ホワイトハウスの苦笑いが見えるようだ。
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無意味な報道
軍事行動を憲法や悲惨さを基に時評する向きがほとんどのようだが、どうして世界や日本の現状を基に論じないのだろう?
自然現象であれ社会の出来事であれ 個別な経験や1側面を持って論ず図ることなく、全体の中に置いて 因果を総合的に把握するのは 「科学的」などと
断わるまでもない常識なのに 賛否に関係なくそこを抜いて論じている。それでは意味が無く 報道する意図が解らない。
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大して変わらず
「この紋所が見えないか!」「問答無用!」[手を挙げろ1」 昔よく見た時代劇や
西部劇 やくざ映画の決め台詞。
内外の政治を見ていると つい あの場面を連想する。
「グローバリゼーション」とシャレた言葉で言いながら 地球規模で動き変化する時代にあって 200年以上も前の前近代的な発想と行動は大して変わらない。
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話し合う作法もない平和外交
確かに言葉が伝えることの限界はあるが 民主主義は言葉を前提にした仕組みだろう。
民主主義下においては 平和を実現実現する手段も武力より話し合い。
戦後、日本はじめ世界は平和の為にどれだけの言葉による外交力を積み重ねたか?
国際的には 話し合いのテーブルに着く作法すら 確かではない。
言葉の限界を知りつつも 意志疎通は文化の問題として、体制の如何を問わず 放棄したり否定していては民主主義とは両立しない。
この辺が世界における民主主義が民主的外交の到達点なのだろう。国際政治では 前近代を引きずっているものが多い。
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聞こえない言葉
2015年 最も心に残った言葉は フランシスコ ローマ法王の「地球と弱者からの搾取を止めよ。」だった。
残念なのは その声が聞こえないかのように 世界のどこからも(こだま 木霊)が 返っててこない。
勝手な解釈かもしれないが この言葉に通じるような言葉すら 他に思い出せない。
世界の識者や特別な人でなくても 近所の子供やお爺さんばおあさんからでも 山彦が聞えてこないか…
実態とは関係なくやたら聞こえ拡散する言葉と 聞こえず消えていく言葉があるようだ。
伝わる言葉と伝わらない言葉 言葉が伝えるものと伝えられないもの。
もともと 《言葉》とは そういうものかもしれない 。
ローマ法王の言葉は 心までは届かなかったのだから 学者や「先生」方は付け足しぐらいしたって良い。
そんなことも 気が付かない!
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一人一人が問われてる
世がどうあろうと 世への適応と生まれ持った本性との間に どんなに矛盾が生じても ヒトは 自分や家族の為に そこで
生きる他ない。
一人一人が問われているのは そこではなく 抱える矛盾の中にあって 自分や家族の為に出来ることをするのか
他人に丸投げするか ではないだろうか。
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