情緒障害

子供の発達障害の広がりは文科省予測どおり、日本中で大変な速さで広がっている。障害は行動の表れ方によっていろいろ障害名がつけられるがおしなべて情緒障害に入る。
情緒障害は脳の大脳皮質ではなくその手前の辺縁系の障害が原因だと考えられている。
最近、日本中が情緒障害のようだと度々思うことがある。
情緒障害の行動特徴はいろいろあるが、具体的な表れ方の一つに《人の話をよく聞かず一方的に喋る》がある。(実は私自身その傾向が強く他人のことは言えないのですが)
これは自分を含め周囲の身近なところから、テレビに出てくるほとんどの政治家や学者まで共通に見られます。喋る体制や工夫は十分すぎるぐらいしているのですが、逆に聞くほうはその構えさえ見えないことが多いようです。これは単に個人の(聞く話す)の技術上のことだけでなく諸機関の情報間の偏り、そこから発生する間違った対策や対応、そして意外な結果。これらは官民問わずあまりに多い。(今日のテレビ報道も急にワールドカップは影を潜め秋田の事件を根掘り葉掘りくどいほど時間をとり首相の訪米まで影が薄くなるほどで首相がどこで何をしてるかほとんどの国民は知らないのではないだろうか)こんな現象を社会病理学で《社会的情緒障害》とネイミングされる日が来なければいいが。
要するに人々の見たり聞いたりする時のの想像力が問われているのだが。落ちている。(小泉首相の動向は夜になってかなり報道されましたので上記を一部訂正します。報道に偏りがあることは変わりありません例えば自殺や発達障害の急増はニュースとして未だには全く報道されていません)
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朝日の社説よとぼけるな

6月28日朝日新聞の社説 「教員免許 更新制までは必要ない」の見出しで教育審議会の答申に対して行き過ぎだとして一応批判的に書かれていた。
私は勿論(そんな馬鹿な)と思っているが、社説を読んで、審議会とは別に嫌悪感を感じた。細かくは言わないが、社説を書いた人やそれを認めた論説委員たちが、全くと言っていいほど現場や子供達の状況が分っていないからだ。それも少しぐらいではない。のに理解を示したごとく書くところから来る嫌悪感だった。
私は前にも書いたが、教員の質を高める必要はいやと言うほど感じている。本当に教員の質を高めるなら、子供や親が直接評価すべきだ。教育を受けている本人と、かけがいない子供を預ける保護者が最もふさわしい。私は教師生活で最も気にしたのは子供の視線であり、つぎに保護者だった。上司や同僚も気にならなくはないが、前者とは比べ物にならない。(実際は子供を守るため闘うほうが多かったかもしれない。そうもしないと子供は守れなかった。このように書くと組合の先生とか日教組とか言われそうだがそんなレベルで考えたことは1度もなかった。教師をやりたかった、しかなかった。)今もそれでよかったと思っている。子供の視線を見ない教師の仕事は教育と言えるか。その上のことだ、(子供との信頼関係はここではちょと横において)保護者との信頼関係も大事にした。しかし、100パーセントにしようとは一度も考えたことがない。体調を壊したりして十分打ち込めない時は信頼度は80~85パーセントを目指した。調子のいいときは60パーセントを超えていれば十分と考えていた。自信のあるときはそれで勝負?できる。自信のないときは安心感がほしい。なぜより信頼感をあげようとしなかったか。それは教育は人と人との
すり合わせだと考えるからだ。経験や感覚や価値観の違いのある人と人とのすりあわせでお互いに新しい価値を生む。それが教育だ。信頼感の感覚がそれを甘くしてしまうことがある。
だからと言って50パーセントを切ったりコントロールできないほどにするのは論外だ。子供や保護者の評価は難しい面もあるが基本の関係だから技術的にはどうにでもなる。今までの教育行政の過ちも見ず、間違いの上塗りの免許証の更新制のような基本的な間違いを繰り返し強化するものに「~までは必要ない」の認識と表現はは実質的には方向を肯定した意味になる。メディアは至るる所で語感や文体・構成などちょっとと見た目では判別できないところの手法を用い世論の誘導をしている。(教員は子供をスムーズに誘導するため目に付かない技術を教育技術として用いるのでメディアのそのやり方はよく分るのです)
朝日の欺瞞的な体質で、結果としてこの更なる行政の間違いを推し進めることになる。朝日もメディアのダイナミックス的な役割を果たしてる。メディアのダイナミックスは承知しているはず。《不思議と教育のダイナミックスとも共通します)朝日は権威と右・左のバランスに明け暮れている。是非・善悪・正誤の根拠を実際の具体的な現実に求めてほしい。教育なら子供であり学校現場だ。霞ヶ関を見ていても、子供からは最も遠い霞か雲かの話になる。ジャーナリスト魂を呼覚ませ。
朝日のお偉いさん達勘違いしちゃいけないよ。ジャーナリスト魂の建前では飯は食えないと思っているかもしれないけど、付けは必ず回ってくるよ。(教育も全く同じだった。つけた人が今もまだ気がつかず付けを払っていないが、いつまでも逃げ回れるものではない)
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学び

昨日、ワールドカップの日本選手が今後の発展を考え決勝まで残って見て来てほしかったと書いた。求めるところはジーコのプロ意識だろう。(ジーコの今の立場ではいえない)
(教え)と(学び)は違う。選手は練習メニューと、いい監督の指導をしっかりこなせばいい選手になり強いチームになると考えているのではないだろうか。
これは前記の(教え)の中の発想であり、一方が抜けている。
見回すと、そこらの子供達はほとんどその発想になってはいないか。それどころか保護者や社会全体もその傾向に見える。ちょとしたら日本は学びと言う文化の伝承全体的に途切れたり薄れているのではないか。そうするとあの選手達の行動は責められないし普通かもしれない。今までは経済力もあって日本のスポーツは世界的に地位を押し上げてきた。
ところが子供達の体力は低下し気持ちは内側に向き自発的な精神は萎えてきている。経済も今の地位を保つのは難しい。だとすれば早晩スポーツの世界的な地位は落ちていくに違いない。冬季オリンピックも想定外だった。
ワールドカップの結果から各界のリーダーは教訓を汲み取ってほしい。(骨太の方針)と称して目先の利を追うやり方を指導するのでは世界から取り残されるばかりだ。セルフエデュケーション(自己教育)が教育の基本中の基本であることを
思い出し覚えてほしい。
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日本のワールドカップは終わったの?

23日ブラジル戦に負けたあと、いくつかのテレビ局でアナウンサーが「日本のワールドカップは終わった」言っていた。その二日後に選手達が帰ってきた。決勝戦や閉会式もできるだけ見てきてほしかった。礼儀もあるだろう。私は礼儀もさることながら、自分の出番が終わったら早々と引き上げる見識のなさが気になった。
学校の学芸会や音楽会は全体に公開し親も見に来るが、30年ぐらい前から自分の子供の出番だけ見てすぐ帰る父母が目立ってきた。学校では他の子供達の作品も見てほしいと放送を入れるが足は止まらずその傾向は増すばかりだった。終わった後職員室で職員のあきれ声をきいたもんだ。(自分の子供だけ見て分るか)この声は自然とわいた。たしかに他の学年の作品ももみないと子供を取り巻く学校の雰囲気や、これからの自分の子供の見通しも立たないはずだ。(今考えると親が既に余裕をなくしていたのを職員が察知できず、職員が勝手なこと言っていたのかもしれ)
サッカーも同じでないか。帰国してテレビやビデオで見たとしても本当に大事な細かなところは分るはずがない。4年後を考えたら日本より強いたチームから学ぶのは最低限のことではないか。経済大国にそのお金がないもも思えない。もし、予算がないとしたら自腹切ってでも、見て勉強するのがジーコも言うプロ意識ではないか。
こんな当たり前のことがどこからも聞こえない。(見習い)はどんなトレーニングや監督にもできない選手の素養だろうと思う。親のように余裕がないとも考えにくい。
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戦争より怖いこと

「戦争と平和」人類の最も不幸が戦争で幸福が平和だとずーと思ってきた。
最近そう思わなくなった。今生まれてきた子供が地球を去る80年後は、地球は戦争なんかやってられないのではないか。生き残りのサバイバルゲームは既に終わり
そのゲームをする力も残っていない。前世のバチが当たって皆で償うのに必死。一見悲惨だが意外に落ち着いて仲良くいい顔をしてる。それが私の心象風景だ。
そこで人々は喋る「昔はよったね、戦争なんかできて、いまは戦争もできない」
今日の状況を考えると絶望しそうだから、物語はハッピーエンドにした。
言いたいことはその時点から今日を見たとき、今はどうすべきか。80年後すなわち今生まれてくるベビーの立場から考えるとどうなるか。
「先祖様がもう少し道楽をひかえ、喧嘩に明け暮れなければ、こんな惨めにならなかったよね」孫のような子がおじいちゃんやおばちゃんになって言う。物語通りだったらば、この例外から逃れられる人はこの世にだれもいない。戦争準備やその反対もいいが、孫は80年後「こんなこと分らなかったのかなー?」といわれそう。戦争より怖い地球の破壊は一時も待たず確実に進んでいる。
資本主義も社会主義も地球資源の奪い方と分け前のやり方に違いがあるだけで、
地球から無断で持ってくることには違いがない。住家の地球や自然を大切にし借りたものは返すぐらいのやっさしく律儀なた本当の意味でグローバル(地球的)な社会になるといい。
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縁起でもない

昔から先のことを心配しすぎると、内容を問わず「縁起でもない」と有無を言わさず疎まれた。今地球は壊され続け、地球も人類もわが子や孫までが命に関わるような心配な状況にある。これは戦争と違って人間の選択を超え、自然的に確実にやってくる。人にできるのは,その規模をより少なくしたり、いくらかでも遅らせたり、被害を最小限に食い止めるだけ。これは科学と言うのもおこがましい当然のことだ。自分や子の命を守るのに、声掛け合わなくてはいけないが、声をかけると「縁起でもない」とはじきだされる。飲み屋も同じだ。上司の悪口や、自分のなきごとや、異性にまつわるエッチな話も〈無礼講)といって許されるが、まじめな話はだめ。飲んで本音を出すのだがやっぱりタブーがある。
日光の(見ざる聞かざる言わざる)のお猿さんは江戸時代の庶民の処世術を表していると聞いたことががるが、違う解釈があってもいいと思った。確かに今の社会は、ほとんど戦前を思わせるほど大本営発表(勿論やり方は違う)に全体がなびいてる。学校の先生は勿論上のお猿さんのようだ。しかしあれはお猿さんだから可愛いのだけど、人間や先生がが同じようなことをしていてはおかしくはないか。ちょとしたらあの絵が伝えたいメッセージは「あなた達は猿ではなく人間なんだから逃げないで、事実に目を向け、話をしっかり聞き、思っていることは勇気を持って言いなさいということでなないだろうか。
伝統的な武士道精神は単にお上に忠誠を誓い盲目的に従うだけでなく(忠義)といってお上のおかしさにははっきり諌言(いさめる言葉》しそれでもだめな時は、押し込め(部屋への隔離)が正当化されていたとも聞く。絶対服従の封建制度にあっても、自然な人倫がなくては社会は維持できないからだろう。今は上下左右老若男女(要するに全ての人)が、そこまで問われている時代だ。要するに一人ひとりだ.他人のせいにするな。
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個々の情報と全体的な情報

世は情報社会といわれ情報が溢れてる。情報を教育に置き換えて考えてみたい。
教育原理の一つに、子供は個別の教育よりその子供の全体的な教育の枠組みで育つと言うのがある。情報に置き換えると個々の情報より情報全体の関係でで作られる意味が人々へ影響を与える情報として伝えられると言うことになる。
秋田の殺人事件を見た人は彼女のの内側に立つだろうか批評家のように外側に立つだろうか。いつの間にか外に立っていないだろうか。
地球が壊れかけており、あちこちで大変な被害の出ていることは多くの人が知っている。しかし自分達が加害者だと言う加害者意識はどれだけ持っているだろうか
二酸化炭素を地球に排出してる経済大国の日本が太平洋上のツバルと言う国を海中に沈めていると言う関係は否定できない事実だ。誰も加害者にはなりたくないのは事実だが、情報の全体的な関係からはそう思わせないものになっている。情報が教育として考えたら、秋田の事件も地球環境の破壊も気候の変動も我々を無関係か被害者の立場に立たせる。彼女を壊したものや地球の加害者の立場に立つのは難しい。そうなっていないか。実際はそれどころではなく、犯罪の背景や地球の破壊現象そのものから目を反らすものになってはいないか。人々にとって大切なものから目をそらすものになっていないか。
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友好的競争関係

ワールドカップ予選は23日にブラジル戦を残すだけになった。やっぱりマスコミ報道とそれに反応している「騒ぎ」が気になる。応援が選手に必要以上のプレッシャーをかけていないだろうか。最も戦いやすい環境を作ってあげているだろうか。1・2戦で気になることはいくつかある。負けた後の選手の動きだ。サッカーではジャージを交換する風景を良く見る。私はすがすがしい気持ちのいい場面だ。高校野球だって並んで礼に始まり礼で終わる。囲碁や将棋は終了後の振り返りをするのは礼儀で負けたからと言ってすぐ立ち上がってはもう相手にしてくれない。サッカーやラグビーも最後は(ノーサイド)の笛を吹く。ノーサイドはスポーツ精神の礼儀の意味があるのではないか。負けていくら悔しくても、挨拶もせずグラウンドにひっくり返ったり、うつむいたまま引き上げるのは今一しっくりこない。疲れていてもお互いに笑顔で「ありがとうございました」とやってほしい。23日、勝敗に関わらずそれが見られなければ逆説的だが応援の仕方、メディアの盛り上げ方に疑問を持たざるを得ない。巷の騒ぎも、グラウンドのあの緊張した悲壮感にも偏狭さを感じる。23日そうならないことを願いながら、しっかり見ておきたい。やるほうも応援するほうも思いっきり楽しんだらいい。世界のお祭りじゃないか。ジーコがカーニバルで踊っていた笑顔を覚えているよ。あなたのインタビューでの顔を見ると申し訳なく泣きたくなることがあります。勝っても負けても、全選手と監督に「よく頑張ったね ありがとう。」と言って皆で迎えてあげようよ。この声がメディアに聞こえればいいのに。もう まったく 《天まで届け》だ。
この友好的競争関係はスポーツだけでなく愛国心なんかにも言えそう。とにかくどんな場合もヒステリックや視野狭窄だけはいただけない。
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聞く力

教員を40年やって他人の話をよく聞かずよく喋るのは教師の職業病だと気がついた。(勿論自分を含めた話で同僚とも自嘲気味に苦笑しながら確認しあうこともしばしばあった。)
今は毎日碁会所にいきいろいろな職業の人と碁を打つ。合間に挨拶方々おしゃべりもする。そこで気がついたのは他の仕事の人も教師以上に他人の話を聞かず、一方的に喋る人が多いことだった。こうして意識して見ると、学校公開で見る各教室の授業風景、子供の心配事での父母との相談、一昨日は教育懇談会も会話としては意外にかみ合っていないことに気がついた。
特に,話すほうはまだしも、聞くほうがまずい。会話力特に聞く力の不足(低下)と言える。(自分自身もその中にいるからおこがましいのだが、多分相対的な違いで気がついて偉そうに言っていると思う。)
そんな問題意識を切実に持っていたら、先日の教育懇談会で、ある教師から、今持っているクラスの1番の問題として吐露された。偶然の一致だが確認されやっぱりと思った。以前企業がもっとも学校に希望する能力は基礎学力、中でも会話力の育成にあると報道された。これを見ると社会が求めている会話力はそれを育てる大人や教師がが既にその力が萎え低下していることになる。教育上世代にまたがる問題なので解決は難しい。何故そうなったかの具体的な分析も必要だが、感覚的には戦後の経済復興と今に続くその延長が関係している気がする。ある意味で付け回ってきたのも仕方ない。問題はこれらのことに未だに気がついていないこと。
話の聞けない子供はシステムから生まれてる。単純に責められない。聞く力が単に態度の問題ではなく経験や想像力など他人を理解する人格的な発達の問題にあることは言うまでもない。今は話の聞けない人を拡大再生産している。夫婦でどれだけ会話の時間があるだろうか。中身以前しかもなんとも致し方ない条件の人が思いのほか多いのではないだろうか。「まして子供は」ということになる。この方程式の未知数は分りやすい。
補足 テレビ登場するのお笑いタレントや政治家は瞬間芸で話のやり取りは
まねできないが、コミュニケーション(意思の疎通)の会話として見てみる事もあっていい。つい芸と会話を取りちがえがち。テレビの外、巷でもでも良くあること
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言行不一致

株をやっていると自分はひどく言行不一致なことに気づかされる。
売買は自分でルールを作ってやるのだが、特に売るとき、株が上がったら上がったで、もっと上がるんではないかとの思いがが増して売れない、下がったら下がったで、そのうち上がるだろうとの思いが増してやっぱり売れない。結局自分が作ったルールを自分で破ってしまう。そして損をする。株のおかげで自分の言行不一致を思い知らされた。こんな大事な性格を もっと早く気がつきゃいいのに。
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