見るぞ!初夢?ボケ夢?

株で1億円儲けて、会社経営に乗り出す。その名は( 投資会社 地球と子ども)  儲けた1億円をいろんなところに投資し,金儲けをする.儲けたお金は、地球と子どもを守るために使う。ケニアなどのストリートチルドレンや難民の学校建設援助募金でもいい。
 
 ちょっと格好良すぎるが、本来の企業や政府はじめ、全ての営みはは、そんな発想で役割を果たしていたのだろう。大昔になるかもしれないが、いかなる組織や集団もその構成員を守ることが最大の役割だったろうに。最近は企業や政府も目先の利益をおいかけるばかりで、結局投資すればするほど地球や子どもに痛みを与え、リスクの傷は深く大きくなる。目先の儲けしか考えないから体力を消耗するばかり。時間が経つと大穴をあけ埋められない。つけは構成する環境や構成員に、始めは弱いところに、やがて全てに正当化されて回ってくる。

 世界中どこもそんな傾向にあるようだ。「せいてはことを仕損じる」を忘れてる。夢で見たような会社が本当に出来たら面白い。はやってそんな会社が増えるとまたまた楽しい。

 これを見たのは朝早く布団の中だったので、夢なのかうつつなのかよく分らないが中身だけ覚えていた。これは正夢、逆夢 、ボケ夢だろうか。

 こんな夢を見ながら無機物になって地球と子どもの間を飛び回る。これは私の間違いない永遠の夢。

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気をつけよ甘い言葉と暗い道


 若い女性への言葉だと思っていたが、今は、誰にも当てはまる言い得た言葉だ。

 どこへ行っても商売の作り顔か浮かれた人以外は子どもも、大人も表情が暗い。不安の時代、閉塞時代と為政者自ら評す世の中だから、暗く前が見えにくい道を歩いている感じなのだろう。
 
 国会の議員さんは総理を始め、与野党関係なくテレビに出てくる人は皆表情が暗い。元気が良くても大声で怒っているか、悪乗りして浮かれているかの違いだけ。顔を見てホッと安心する顔は私はお目にかかっていない。

 暗さの自覚は人により違いはあるだろうが恐らく程度の違い。身近でも、真から明るい人はあまり出会わない。

 甘い言葉のほうはどうだろう?
 いざなぎ景気を上回る(好景気)と政府も日銀も証券関係のアナリストも口をそろえて言って久しい。政府の看板は「美しい日本」の国づくり。誰でも憧れる言葉だ。親へは子どもの学力と規範意識の向上を宣言し、子どもには「いじめをなくす」「いじめに負けるな」と大声で励ます。老人には「金持ち世代」と持ち上げる。甘い言葉はあちこちに、ちらべられ溢れてる。

 暗い人々の顔を見ると、これが甘い言葉に過ぎないことがわかる。今の時代は、朝日の社説にもあったが、国民全体が、夢ある言葉で戦争に向かったあの時代を思い出させる。あの戦争も為政者も結果が分っていて戦争に向かったのではないだろう。日本の発展を願ってのことに違いない。しかし今考えると、現実と結果は明らかに人々の思いとは違っていた。

 今の暗い空気と人々の知性や理性の喪失を思わせるに荒れや乱暴は日本だけでなく世界中に見られる現象だろう。あの時代は一応、地球の資源は無限だと、誰しも暗黙の前提として考えていたにちがいない。

 今は温暖化に見られるように、地球が有限であることはかなり多くのの小学生でも分ってきているし、どこでか感じている。好景気も、美しい日本も、教育改革も掛け声をかけている人は本気だと思うが、果たして?とかなりの人が感じているのではないかと思う。暗い顔はそれを表していないか。どの野党も、メディアの解説も、専門家として紹介される大学教授も、政府の政策に批判的な論評を含め根っこは似たり寄ったりで時代を把握していない。政権交代や政権争・選挙以前の問題だ。【最近本当にどこに投票していいか困る。前回は白紙投票の選択しか出来なかった】
 
世の中は上から下までどこでも裸の王様がいっぱいではないか。
童話の「裸の王様」に出てくる子どものように、見たまま「王様は裸だ!」と私のような喘息もちの老人でなく、元気のいい若者が言ってあげたらいい。

 暗い顔の裏で感じている現実は総理も私も子ども達も、そして少々怒っているお天道様【地球】も同じではないかな。朝から晩まで茶の間に押し入る商売上のお笑いの喋りや作り笑いやバカ笑いも、ピエロのように悲しさを含んでいるかのもしれないが、実際その辺は、まだ私にはよく分らない。

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地球の安全と人類の幸福

 神も仏も、どんな哲学も科学や芸術も、その主張の違いは【地球の安全と自らも含めた人類の幸福】と言うテーマの前では、書かれた本の違いより、1冊の本のページの表・裏の違いの程度ではないか?

 生まれたての赤ちゃんは言葉にして物は言えないが、世界中一人の例外もなく、この普遍的なテーマに全身が満ちている。しかしどこでどうなるのか分らないが、気が付いてみると、あちこち顔を向け、このテーマに似つかわしくない姿になっている。

 いつしか自分もその中でさまよい、神の御名により神を冒涜し、正義の名により法を犯し、ページの表裏が分らなくなる。


 しかし、誰しも根っ子は同じ。願いも同じはず。そんな目で周囲の自然を、人を見れるといい。

 最近近くで、赤とんぼを見なくなったが、間違って引き抜いた庭のアスパラは芽を出した。近くに人を恐れ外へ出たがらない子もいるが、裏の家からは溌剌としたあかちゃんの泣き声も聞こえる。

 私の住んでいるここは地球であり、その子も人間。

 ぐちゃぐちゃ言い、ドジドジやりながら、元いた道に戻らなくては!  と思う。

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法律と法

一応ここでは、法律は、人為の法、自然の法則のように人為以前普遍的な価値やルールを法とする。
 独裁と言われるヒットラーや金正日にしろ、法律によって政治を行っている。法律を(正義)とするなら、正義の名によって、虐殺が行われたことになる。虐殺は法律的には正義であっても法の前には許されない。
 キリスト教会で祈るとき、最後に「キリストの御名によって       ~アーメン」となる。円滑に事を進めようとする時、権威や正義を冠にして行うことがしばしばある。
 
 大切なのは冠の中身なのだが、多くは冠の前にひれ
伏しがちである。

 それは法治国家だから手続き上も問題はないが、先に出した例のように、法律が法を破ることは少なくない。法律を道具にして法を破る。民主主義や選挙もときに道具になり、民主主義の名によって民主主義を破壊し平和の大義名分で戦争をする。このような取り違いは、身近な世相でも、歴史を見ても、珍しいことではなくむしろ一般的。
 
この関係はややこしいが判断・判定の基準は割合はっきりしている。それは「法」。
 法律と法の関係を、取り違わないようにしないととんでもないことになる。神も仏も崇高な価値だが、時にそれが対立や憎しみ、殺し合いの道具にもなりかねない。何事もその基盤である、自然探し、法探しが大切だと思う。うっかりすると、言葉探しに陥る 。こういう自分もしょっちゅうその渦に巻き込まれる 。

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真空地帯


 50年以上も前、野間宏の原作で映画化された「真空地帯」があった。子どもだった自分はその映画を見た記憶は無い。反戦映画であることは知っていたが何故「真空地帯」というのかわからないできた。

 昨日、硫黄島の戦いを描いた、「父達の星条旗」と「硫黄島からの手紙」の映画ををはしごをかけて見た。見ていると「真空地帯」の意味が分るような気がした。戦争のなかで人がまともに生きられる空気がなくなり、異常な神経と行動が出てくる。米軍は敵味方を見間違い、味方を撃ち殺す。日本軍も隊内の仲間を信じられなくなり、なぶり殺す。

 まさに共食い共倒れが始まる。
 そんなことを考えながら見ていると、不安の時代とか閉塞状態と言われる今日の日本の状況が脳裏に浮かんできた。現在の日本は戦争はしていない。真空地帯とはいえないだろうが、空気が薄くなり息苦しくなっている感じがする。
 そういう中で、親殺し子殺し、虐待、自殺、異常犯罪、いじめ自殺などの行動を始め、虚言・偽言は周囲の至る所で見られる。

 真空地帯と現在の空気は地続きに感じる。そしてさらにその空気は希薄になりそう。掛け声とは反対に、物事が進んでいる。各分野で言葉と実態の乖離が進む。大きく離れたのをウソとか偽装と言う。

 言葉に気をとられ、事実や実態から目を離してはいけない。手品の仕掛けを見破る時のような目で、見抜こう。その力がかつてなく求められている。
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潔く、すっきりさせよう

 このブログで自分の思いの丈を思いっきり書いているが、時々すっきりしないものを感じることがある。
 
 社会や政治・教育など自分の反省や批判を含め、批判的に書いていることが多い。しかも、政府等の公人の場合は個人を特定している場合もある。書いてる私はパスワードのdozidozi2005だけ.臭いはするが、姿は見えず、所在のはっきりしないオナラのような存在でかいている。
 卑怯と言うかマナーが悪いと言うか潔くない。子どもたちにはいつも、「あった事をありのまま書きなさい。」と教えてきた。だから、私も身元をありのまま書くことにした。
 
 椿坂俊夫(65歳)元小学校教員 
  191-0041    東京都日野市南平2-60-4          
 
 私がこのブログを書いているのを知っているのは、家族や友人や教え子などの一部だった。名前を出すのは家族や友人は私の性格も知ってか、止めたほうが身のためと助言してくれた。
 私も匿名の気楽さもあり家族に迷惑を掛けてもいけないと考え【いいか】と割り切ってきた。しかし、自分もいい年だ。自分の主張をオナラで終わらせたくはない。それなりの責任を持って書くのがフェアーだと、別の形に割り切った。

 (しばらくは ここに名前を出したことを家族には  ナイショ      にしておこう。全てが全て、うまくいくことはない。)
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投資

 私は定年後、株式への投資を始めて3年になる。授業料?や冷汗をかくようなこともありリスクも払ったが、今は授業料も払い終わり、いろいろな意味で株式投資をして良かったと心から思う。家族や友人も喜んでいるようだ。
 ところで、株をやっていて面白いことに気が付いた。福沢諭吉(お札・お金・資本)は労働時間も休日も昼夜の区別無く働き通しということだった。投資は休みなく上がったり下がったりする。銀行預金の利子も、サラ金の借金の利息も同じ。当たり前のことだがこのことに気が付き私はその不思議さに大発見をしたような気分になった。お金とははそういうものなんだ。

 政府は今、来年度の国家予算を組んでいる。国民から集めた税金の使い道の計画である。(少々、語弊はあるが)考えて見ると政府がどの事業にどれだけお金をかけるか。わたしがどこにどれだけ投資するかと似たところがある。

 投資をして儲ける場合もあれば、損する事もある。今、国が子孫に付けを回すような借金があるのは,投資で失敗した結果と言えるだろう。(勿論政府だけの責任とはいえない。)税金の大口を払う大企業に頭が上がらないのも仕方が無い。

 総理は記者会見で、赤字国債を減らし、いじめ対策の予算を増やしたことで「メリハリのある予算を組めた」と胸を張っていた。

 私はこの感覚が(お坊ちゃま)で、こんな感覚で投資をするのから赤字になるのは当然だと思った。ここに来て、いじめ・自殺がメディアで喧伝され、その対策費としてカウンセラーや電話相談事業を拡大する教育予算の増額をしたらしい。教育に少し明るい人だったら、総理のような言い方はしないはず。いじめ・自殺は不登校や発達障害児の激増と同じ鉱脈にあるし、基礎学力の低下とも相通じている。(いじめ)だけ見ても,ここに来て騒がれているが、いじめの質の異変は少なくても20年前から現場では言われていたことである。病気で言えば(こじらせた)も同じ。メリハリなどと得意げに言うのはいかに従来も今も教育を知らず無策なのかをあからさまにするだけではないか?と思う。

 いじめ対策の投資(予算の増額)が当たればいいが、今までの経過(株で言うチャート)をみるとまず当たるはずはない。全体的に教育のリスクを膨れ上がらせ先延ばししているだけではないか。せめてリスク管理の用意が準備されていればいいが、それも考えている様子は無い。

 税金をこんな形で投資するのだから、お金はいくらあっても間に合わない。借金は増えるばかりだ。他人のお金だからと思っているかもしれないが、血税と言う大事なお金だ。よく考えて損の無い投資を
して欲しい。

 私がやった株取引のビギナーリスクの【授業料?】と同じで    は困る。私は小遣いで株をやっているのだから。

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拉致問題

  「北朝鮮がよその国から人さらいをする。」全くもって許されないことだ。

そして解決は行き詰まってかなり時間も経つ。どうしたらいいか?今までの方法(圧力と対話路線)ではなかなか埒が明かないのだから新しく方法を考えないといけないだろう。

 さらに制裁の圧力を加えるのも一つの方法ではある。行き着くところは武力。日本の核保有も議論しなければなら無いかもしれない。ただその現実性は、思いはともかく現実的には日本の現在の立場や現状を考えると難しい選択肢だろう。

 それ以外でどんな方法があるかを考えて見た。私は難しい問題を身近に引き寄せ考える癖がある。どんな人間関係でも責任が片方だけということは無い。あくまで(関係)であり、相互の関係だからだ。

 経済力で見ると日本と北朝鮮は大人と子どもぐらい力は違う。私は小学校の教師を長くやってきた。どんなクラスにも、勉強の出来ない子や、宿題をやってこない子、周りとしょっちゅう喧嘩している子、それどころか決まりを破り非行などの悪さを繰り返す子、昔流に言えばどのクラスにも(問題児)はいた。この問題児にどれだけお説教し罰を加えてもいいが、それらの子どもと信頼関係も作れず話し合いも出来ない教師は、理由の如何を問わず失格だと思う。教師は教え子と教育関係(信頼関係)を結び教育的な手法で育て、直すことで給料をもらっている。どれだけこどもの非や親の至らなさを指摘しても教師は責任から逃れられない。そう考えると、日本のやり方はもっと工夫の余地がありそうだ。

 要するに今までのやり方は外交が単純すぎないかと思う。このやり方をエスカレートさせ解決の見通しが立つのであればそれもいい。今回の6者協議を見ても、北朝鮮が避けているではないか。北朝鮮の態度に問題があるのは当たり前だが、問題は解決に向かうかどうかにある。

  拉致された身内はとにかく安全に返してほしいはずだ。

 これだけ難しい問題の解決には拉致問題を中心に、歴史の経過や現状の分析などこの背景をしっかり把握しなければならないだろう。もう一つ大事なことは、日本は国内国際的にも多くの問題を抱えているが(どの国も同じだが)その多くの問題との関係やバランスを丁寧に把握し、丁寧に対処することだろう。

 報道を見ている限り、言葉遣いをはじめ、対処の仕方が粗雑に見える。教師の感覚から言えば、北朝鮮の「ならず者」振りをどれだけあげつらっても、反感をかうばかりで、距離は遠のく。まず北朝鮮の(身勝手な話でもいいから)話を十分聞いて見たらどうか。解釈や対応はは十分聞いた後で一つ一つ(制裁も含め)丁寧にしたほうがいい。
  外交的にこの部分が粗い感じがする。十分話を聞いて、北朝鮮が本音のところでの願いを知ることだろう。テレビの解説などを聞いていると、体制維持や経済支援が朝鮮の要求のようだが、確かにそうだろうが、解説する人の言葉にリアリティが薄い。十分接触した時は同じ内容であっても、言葉や表現が違ってくるものだ。

  スタートあたりのことだがまずはその辺から手がかりは得られないだろうか。

 次は、一致点の拡大である。民間レベルでも文化交流でもいい、、墓参でもいい。交流できるところがあるだろう。私が言いたいのは制裁にしろ圧力にしろ、全く一致点の無いところでは全てのことは意味が無くなり、効果を期待するのは難しい。

 これは個人の関係でも国際関係も結局は同じだと思う。その点も外交に入るだろう。麻生外相の核発言は気持ちは分るが外交のトップとしてもっとしたたかさがほしい。

 身近な人間関係にもいえるが、立場や考えが違うほど、礼儀正しく言葉使いも丁寧に、人間関係の原理原則に立って関わるべきだ。

 心置けない友達は少々粗雑な言い方も相手に伝わるが、そういう関係ばかりではない。素人目にも外交が単純すぎるし粗すぎる。
 補足するが、拉致被害者の家族も「圧力を加えて云々」言ってるが本音だろうか?返してほしさで言っているのは分るが、安全に返してほしいのではないだろうか。むしろ親族は理屈に合わなくても、この冬の寒さは大丈夫だろうか?とか、食うに困ってはいないか?と心配になるのでははないだろうか。
 外交的にもむしろそのような本音が正面に出す方が、形式的な議論に終始するよりましだと思う。国際世論上も説得力を持つ。
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新教育再生会議(幸福構造改革編)

経済構造改革の最重要課題と銘うってやった教育再生会議は一部で予想された通り、結果は裏目に出た。

 1番困ったのは、財界と政府。若手の社員や大学出の新入社員の質の低下が著しく,「基礎学力」どころではない。    体力、精神力、社会性等の基本的な資質に欠け、社員同士の会話もままならず、無断欠勤、病休なども増え、企業戦略全体がが描きにくい。政府も不登校・障害児・ニート・病気・自殺の増加でその対策で出費がかさむ。学校はといえば、不登校や発達障害の児童生徒が激増し、普通学級で授業を受ける児童生徒数の率が下がり学力テストそれ自身受けられない子どもが増え、統計自身の意味を成さなくなってくる。学校の雰囲気もどこか殺伐としている。
 
 教師は威張ってはいるが、非常識極まりなく子どもに向き合おうともしないし向き合う技術もなく向き合うことが出来なくなっている。(今どころでない)子どもは学校と勉強が大嫌い。勿論いじめ自殺は増える。

 そんなこんなで、幸福構造改革の政府は新(真でもいいのだが)をつけた教育会議を立ち上げた。
 まずメンバーだが、政府・財界・教育学者の代表は従前どおりだが、新しく加えたのは、小中高大学校の現役の先生と児童生徒学生も希望者を抽選して委員になってもらった。(子どものわかる言葉で論議する)

 提言の中に教師の資質の向上も入れる。だがその後が面白い。【新】再生会議では、まず教育の対象者である子どもや学生に評価してもらう。それを行政・管理者・学者・保護者・《本人》必要に応じてプラスαのメンバーで評価し、対策を講じる。対策の中に、配置転換も含める。

 これは方針が発表されるや、実施前から効果てきめんで、急に子どもも先生にも笑顔が戻り、学校が明るくなる。勿論保護者は理由は分らないけど、子どもの笑顔で、落ち着き幸せな気分になる。

 そうすると中には、「教師が子どもにへつらい迎合する。」と言出だす人もいるがそれほど心配は要らない。(それは子どもの厳しさを知らない人です。子どもの方が大人よりはるかに敏感で厳しいのです。 子どもは自分の発達に何が大切かを本能的に知っているようです。)
 
 この感覚はどんな学者や専門家大人はほとんど、もこどもにはかないでしょう。
 
 勿論表現力の問題はありますが、それはそこにいる大人次第で解決します。

 今までやってきた教師の免許証更新制やいじめっ子の出席停止の方針は撤回です。
 教育委員会も上意を伺う前に子どもに向き合う必要がありまから、何らかの形で住民や保護者、児童生徒に評価してもらえるようにしなければなりません。(今までは、評価の対象が逆転しています。)国の教育行政も選挙とは別に国民の評価が必要です。やり方次第では児童生徒のも評価する側に立てます。
 
 教育は本来政争の具になるようなものではない。権力や法律以前の自然法が大前提であるべきです。自然の法則は「理性」ですから立場で利害が異なるようなものではありません。言辞や思弁でどうこうするものでもありません。
 
 前の再生会議はそれに発想が反対でした。裏目に出た結果を見てやっと国民も少し気が付き、この新しい答申を出すことになりました。メディアがことの結果を正しく報道してくれるよう願っているところです。

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構造改革の目標数値

今の経済構造改革で目標や目印としている数字は年間で言えば国民総所得(GDP)であり日常的には株価であろう。
 幸福の構造改革なら国民総幸福指数(???)であり、日常的には、天義務教育における子どもの欠席児童生徒数のトータル数や温暖化情報を天気予報のように毎日伝えるのがいい。
 インドの近くにブータンと言う人口5-600万人、所得は日本の10の1にも満たない小さな国がある。そこの首相だったか?トップリーダーは、あえてGDPを目指さず国民総幸福指数を目標にしているらしい。それでいい。
 人は誰しも求めているのは幸福であり、それはお金とイコールでないだけでなく実際には二律背反になることは誰もが経験している。
 日常的に株価に左右されている人は限られているが、温暖化や子どもの欠席日数は、誰もが影響され、今の変化を知る手がかりになるはず。温暖化は徐々に確実に進行しているが、今の科学だから変化を数値化できるだろう。子どもの欠席日数は戦後と比べても比較できないほど増えている。欠席日数は日本の現在と先行きの幸福の状態をかなり良く表すと思う。
 この目標なら、国民が立場に関係なく皆で幸福を求めていると言う一体感を得られるだけでも嬉しくなる。
 お金で一体感を得るのはちょっと難しいかもしれない。
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