世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「子供にとっての水や太陽」
これは、私が関わっている次回の教育懇談会(子供や教育を語ろう)のテーマです。
植物は水や太陽がないと元気に生きていけないように、子供や我々も、それに該当するものがある。全ての子供や人に共通するものもあるが、最終的には個人一人ひとりは異なり、その子(人)に必要な、水や太陽を見つけなければならない。参加者の子供や、参加者自身のそれをお互いに求め探しより近づくのが、この会の趣旨である。
3月10日(土)14:00~16・00
日野市社会教育センター(豊田)
連絡 椿坂 042-591-2267
子供やお年寄りの参加も大歓迎
どうぞ気軽にご参加ください。
勝ち組・負け組みの時代か?
世は、競争による格差社会の様相を呈し、『勝ち組』・『負け組み』と区分けの言葉が分りやすく社会に伝わった。どちらかと言うと、この言葉は、負け組みから発した言葉ではないかと思う。
確かにそのように区分けして分りやすい時代はあったし、現在も競争は限りなく激しさを増すようだ。
競争原理の理屈は限りなく持続可能だろうか?論理的に言うと、勝者は少数であり、繰り返すと、勝者はますます少数化し最後は競争そのものが成り立たず、勝者はいなくなる。
実際も、「勝ち組」と区分けされた、人たちが本当の「勝者」になれない現実が、急速に進行しているように見える。
それは、ワイドショーの事件だけでなく、職場や隣近所の身近なところから、世界で一人勝ちし、世界の超大国と言われるアメリカも、同じではないか?
伝えられる銃犯罪、ワーキングプア、医療や教育ばかりでなく、『自由と民主主義』を標榜する国そのものが、世界から怪訝な視線を避けられないでいる。それらが今後好転するとは国の内外でも、最高権力者自身さえも、考えていないのではないか。
ベトナム同様、イラクをどんな形で撤退しても、アメリカへの信頼は下がり、国の内外で、「勝者」の判定は得られないだろうと思う。せいぜいリーダーの撤退の面子や大義名分だけだろう。
超大国アメリカにしてそうだから、まして単にお金や権力や名声を得たと言う『勝ち組』からどんな実態や素顔が出てきてもおかしくはなく自然。むしろ逆さまの傾向が強まってでてくると思う。
なぜなら、見かけと実態の乖離は意外性だけでなく、度を越した競争の内在する矛盾の影響は、勝者は敗者よりより強く多く受けるだろうと考えられるからだ。(敗者はリタイヤできるが勝者はできない)
既に小学校の教室にはその傾向が現れて久しく、一般的とも言える。
『教育格差』の原因を家庭の経済力や経済を背景にした学校の条件整備に求める傾向があるが、一面納得するが、「的外れ」だと思う。
「美しい国づくり」と言って、国がその的外れをやり、野党やメディアもそのチェックすら出来ないのだから、しばらくは大変だろう。
的外れの矢はブーメランのように、即、己に戻ってくることを知るのに材料には事欠かないし、すでにその時代になっている。
メディアのように意外性では済まないし、お祭りでもないのに、『踊らにゃそんそん』と乗り遅れまいと、調子に乗って(ノリノリで)踊っていると、とブーメランは自分に戻ってきて自分を襲う。踊っている人は自分の投げたブーメランとは気が付かない。
最近は「自業自得」の言葉もあまり聞かなくなったが、時代的には『ノリノリ』の方が、合わない過去のもの。
大局と方向
学校と言うところ教委見直し②
準備される教育三法の一つに、国の地方の教育委員会への権限強化がある。
現在ですら、国家の教育行政の中央集権的な体制(上意下達)と言われる中にあってさらに強めようとしているようだ。国、教育委員会、学校、子供、この関係は人や立場により見解は可也異なってくるが、私が学校で経験したことを、思い出し、私なりに整理しておきたい。私は3県、12の学校を経験した。どの学校も、いろいろな意味で、法や制度を越えた上意(国や教育委員会)への気の使いようは、一般社会では見られないようなことがまかり通っていた。例外はなく違いはニューアンスの範囲内だった。公務員だから当然と言えば当然だが、子どや、教育を中心に考えると多くの ? の違和感を感じることが多かった。世間で「日教組云々」の話を聞くが、実態とはかなり違い、結果、教育そのもをを曖昧にし、ある意味で、教育行政を進めるときの小道具の役割を担っていると思う。(具体的に論じないと、意味不明だとは思うがここでは省く)
私が卒業して始めて着任したのは、埼玉県のある団地の中にあるマンモス校だった。初めての校内の研究授業で教育委員会から、指導主事と庶務の職員が公用車で学校へ来て、研究会に参加した。来たのは、昼の掃除の時間で、玄関への出迎えは、管理職と事務等のようだった。
研究会が終わって、見送りは、校長の指示もあって、全職員が玄関への廊下から玄関、玄関から校門のあたりまで、並び、『ありがとうございました』と、深々礼を言った。研究会では、研究の論議とは別に、時間が来ると、講評と言う形で指導主事は研究内容に評価を下し方向を出す、学校長が、職員を代表して『謝辞』を述べ、全員が礼をする。これはどの学校も同じようで、現在に至る。どうも戦前からの伝統的な流れのようだった。
指導主事は、教育委員会からの派遣なので法的には上司当たる。指導主事の指導は、文科省の方針に沿ったもので、逸脱することはないし、方針以外の視点を持つことはない。担任や同僚が子供たちを念頭に指導方法を選択し計画を立て実践するのだが、指導主事の念頭にあるのは、中央の方針だった。『任務だから仕方がないと言えば仕方がない』ただ、研究と言う言葉とはほど遠い。教育が科学だとすれば、科学的な研究とは言えない。
今後この傾向は強まるだろうし、管理職などの気遣いは、語るのも恥ずかしいものがどの学校も山ほどあるがが外部にはほとんど出ない。(曖昧だが、学校への信頼と、内部情報の自己規制があるのではないか)文科省の教委への権限強化だが、例えば、好ましくない「やらせ」の指示でも、都道府県の教育委員会から市町村の教育委員会、学校長から、PTA保護者にまで徹底している現在、さらに強化し酔うとしている。以前ここで書いたが、子供相手の 教育では法や権力には限界がある。そもそも子供あっての教育である。教師であろうと丈夫の権限を強めると、教育そのものが子供から遠のく関係にあるのは必然。教育を語るとき、『子供にとってどうなのか」の観点を忘れてほしくない。国会や、メディアや周囲の人々の動きをしっかり見ておきたい。自分自身も子供の立場にどの程度立てるか、問われることになる。そう思う。
追記 それにしても、立て構造の学校には、教育にふさわしくない、時に教育を疎外する建前や、面子が優先される
社会だとつくずく思う。それも問われている。
政治の暴走
日本の政治は暴走し続けるが止りそうにもない。政治は政策を法律にし、それを執行して、世の中を良くしていく物だが、実際はどうだろうか?
『昔は貧しかったけど良かった』の話は老人のおセンチな懐古話だけとは言えるだろうか?
政策が実施され、その結果なんらかの変化をきたすが、期待したとは反対の結果を生むものも少なくない。
トータルして見ると、現在誰もが体感するように、あるいは国の宝と言われる子供が受難にあっているように、マイナスがプラスを超えているのではないだろうか。そうでなければ国民は将来に不安を覚えるはずがない。あの大言壮語する石原都知事ですら、『閉塞した不安の時代』と他人のように評している。
普通は、国民がブレイキをかけるのだが、それはメディアによってその機能は麻痺し、暴走に合わせ一緒になって「ガンバレ!ガンバレ!」とやっているのだから国民はブレーキのかけようがない。我々がを劇場で芝居を見ている観客のようにその様子を見ているだけならいいが、タイタニックのように乗り合わせていたらどうなるのか、とつい思ってしまう。
学校と言うところ(教委見直し)
学校と言うところ③先生その3
乳飲み子を見ている人が、そのあかちゃんが泣き出して、何はさておき、そばの駆け寄らなかったら、どうなるだろう? 多くの母親はそれを極普通にやっている。
学校の先生は間違いなく教育公務員で、法令に基づき、上司の意向に従い仕事をする立場にある。『先生』としては子供からの信号と上司の意向とどちらを優先すべきだろうか?子供からの信号と、法令や上司の指示が違うとき、どちらをとるべきか?
そんな場面は、日常的にも、長い期間に渡ることであっても、対応や指導方法では常にある。子供の先生としての立場では、まず子供のほうを優先するのが本来だろう。しかし立場上は、法や上司の意向に沿わなければならないのも本来である。
多くの教師は、その狭間に置かれ悩み、場合によっては指導力が問われ、処分の対象になり,自ら職を失い、家族や生活を、犠牲にしなければならなくなる場合もある。それは、大げさでなく、どこの学校現場でも見られる状況である。
家庭科の調理実習で、失火したとき、担当教員が、『大変、大変』と校長室に駆けこみ、報告し助けを求める先生の話は笑い話にならない。これに通ずる教師の行動は、昔からどの学校でも日常的に良く見られることである。職員室でよく聞く子供への非難やぼやきの声には、『それであなたはどうしたのですか?』と尋ねたくなるのは少なくない。
子供への罰として、校長室で校長先生に叱ってもらう風景も、勤務したどの学校でも見た。子供にとってどんな意味になるか、その担任も校長も考えてのことだろうか?教師を放棄していないか?放棄させていないか?
ここで言いたいのは、先生が子供の先生としての第1義的な仕事に集中しにくい現状にあるにも関わらず、さらに法や権力を強めようとしている。
いじめの信号の見落としも構造的な背景を持っていること知を知らないのだろうか。
子育てや教育では、稲を育てる農家と同様、権力や法の限界を知らなくては始まらないのです。
教育の場では、上司も部下も知らなければならない最低限のことです。
子供にとって先生が必要なのか教育公務員が必要なのかが問われているのです。
しかし今の権力も、一般の風潮も後者を求めているようです。
この風潮(世論)は自然に出来るものでしょうか?
(今日も、メディアは世論操作の結果を世論調査して世論調査の結果として発表していると敢て指摘したい。例えば今の時点で、取りインフルエンザの人への感染の不安を世論調査しても、欧米の先進国より可也低く出るはず。何故なら欧米と比べ関係行政機関や全てのメディアが対策を採らないだけでなく危険性の情報が伝えられていないからです。人への感染の可能性は、言葉のあやも駆使し、押さえ込んで報道しているからです。不安を抱かないのは当たり前なのです。
同様なことは、先進国中最高の自殺大国、教育で言えば、不登校児や発達障害児の膨大な数とその増加。にも関わらず、実態をよそに問題意識は低いことでしょう。報道機関が社会に何を伝えようとしているのかため息が出るが、事実をきちんと報道しない現状では、国民は知りようがないわけですから、予想される当たり前の「世論」であり「結果」です。現在の多くの世論調査の数字は、工場の「製品」のようだ。)
目からウロコ
昨日、都内のあるホールで、左翼系のリーダー的な役割を担っている学者と、ある右翼団体を主宰するリーダーの一人との対談があった。お二人とも登場するときからにこやかで、途中何度も、会場の爆笑や、拍手喝采をあび、気持ちのいい時間で、終わった後もすがすがしく、遠かったけれど、来てよかったと思った。
お二人は出口のところでそれぞれ著書のサインセールをしていたので、私はその右翼の人に『良かったです』とお礼を言ってサインをしてもらい本を買った。その人はステージ上でも、著書の中でも、主体的な姿勢が印象深かった。 勿論、右と左だから、価値観は違うのだが、聞いていて、主体性や論理性、純粋なところは全く共通していた。だから全体的には8割方【両者に共感した】。(2割は私自身の価値観だったかもしれない)
私は左翼系と言われる主義主張は結構なじみがあったが、右翼がどうの話とか、目に入る言動以外、あまり付き合いはなかったのでかねがね、右翼思想の源や主張を知りたいと思っていた。直接主義主張を聞いたのは初めてだった。
私は、その本以外でも、勉強して見たいと思った。
右翼も左翼もこの命名自身誰がつけたかわからないけど、あまり良くないと思った。思想や価値観の違いを ○×式に左右の対極として表現すること自体に過ちを感じた。一般社会はそうなっているようだから、全体的に社会の分析の仕方が間違っているのだろう。
後もう一つ感じたのは、昨日の対談の設定は前向きの発想でいいのだが、まだまだ「両陣営」と言われるようにそれぞれの組織が閉鎖性を持っていると思う。
現在既に,国内のダイナミズム【力学】で日本社会が動く時代ではない。社会を動かすグローバルなダイナミズムに対し、国内の左右の陣営に関係なく探らなければならない時だろう。
各陣営(政治勢力)にとって,日本は敗戦まで日本から見た世界の構図だった。今は明らかに、世界の中の日本、からさらに、グローバる(地球)から見た日本のありようがどの政治勢力にも求められたいるし誰にも求められている。
なのに、現実は最高のリーダーですら、思考の枠組みが旧来同様に本中心になっている。
地球も子供も今のようなことをしていては救われない。そのぎりぎりの時期に来ていると思う。
残す言葉 (会葬御礼)
亜子さん ありがとう。亜樹 ありがとう。真樹 ありがとう。正身さん ありがとう。 出合った全の人や出来事に感謝します。思いもよらないすばらしい人生でした。私はこれから私の好きな自然(ダルマ・法)に戻ります。(笑わないでください)そこでお袋やおやじに会います。久しぶりだから、合うのが楽しみです。皆さん一人ひとりも、大地の地球も物語やドラマを展開していますが、一足先に行ってます。ごゆっくりしてください。私はおかげさまで、最高に幸せです。 会葬しなくて言いのですが、関係の人へのお知らせに、この言葉を書き添えてください。 (年も年だし、いつどこでどうなるか分りませんので、とりあえず残す言葉を書きます。これはパート①で これからも時々書きます。 これはテレビで「宗教の時間」を見ていて書く気になりました。実際書いていると、涙が溢れました。困った涙ではなく、感動の涙のような気がしました。テレビに登場した叔父さんありがとう。)
学校と言うところ③先生その2
昨日ある母親から子供の情緒的に出てくる子供の学校での行動のことで相談を受けた。母親はかなり憔悴していたが、子供の問題以上に、担任や学校へのやりきれない気持ちが強かった。母親からすると当然だろうと思った。
保護者の学校や担任への不満やクレームは昔からあったし、ごく当然のことでもある。わが子が直接教育・指導される教師や担任に、要望や不満を持つのは当たり前ではあるが、現象の是非だけを問題視することが多く、先生の背景となる立場には思いが及ばないことが多い。
そのことも当たり前ではあるが、昨日は親にこんな話をした。
いろいろな話をした後ではあるが、「先生も行政の役人の末端にいるのです。仕事は子供が相手ですが、基本的には、行政機構や、上司の意向で仕事をする基本的な立場なのです。逆らっては自分の子供や家族を守ることが出来ないのです。」そんな話をした。母親は、「教師や先生」への期待もあってだろうが、良くは納得できないようだった。それも仕方のないことだろう。
特に中央集権の強い日本の教育行政、学校制度の中で、具体的に執行するのは学校や教師であるため、指示命令する失敗は、【酷い先生・酷い学校】として映るのもやむをえない面もあります。しかし、今日ほど、教育科学やメディアが発展していながら、なぜ教育問題の背景が問われないのだろう?と疑問にもなります。そこまで、権力支配が浸透していると言うことかもしれない。
しかし、物事には限界がある。このまま、教育原理に反した教育の権力化が進むと、国が持たないはずである。経済的に日本は人的資源に頼らざるを得ない。
国民の人間力(マンパワー・ヒューマンパワーマンパワ)ーを育てることなしに海外依存の高い日本の経済は立ち行かない。
これは、日本の経済を背負っている大企業の国際競争力や盛衰に関わる最重要な【要】だろう。読み書きができず、公教育の制度が十分でなく、資源や空間を無限と思われていた時代はある意味で教育の権力化もそれなりの役割を果たせた。しかし時代は進み、現在は資源や空間に限界のあることが現実化し、世界経済なしに日本経済はなりたなくなっている。グローバリゼーションは経済にとどまらない。ところが相変わらず【幕藩時代】のような感覚で、内輪もめ(内向きな政治権力のダイナミズム)や、最後に残った、人的資源の教育原理や科学を無視した教育の権力支配を暢気にやっている。温暖化など地球への環境不適応障害と同様、足元の、子供の育成まで障害をきたした今日、学校の先生も、「自分の生活や家族を守る。」などと暢気なことは言っていられない状況になっているはず。
今なら、先生も首をかけなくても、やれることはいっぱいあるはず。先生に限らないが、保護者も誰も、そこに気が付き、動き出さないと、大差なく同じ道をたっどることになる。
持つ者も持たない者も残された道を内輪もめしながら方向違いに歩いていては、一緒に迷い込むだけ。
« 前ページ |