必修漏れ責任論争

高校の必修漏れの責任が国か、教委か、学校かと国会で与野党で責任論争をしたそうだ。(朝日)現場から見るとなんともそのこと自体が割り切れない。以前、書いたが、日本の教育は法律からかけ離れ中央集権的な教育行政で末端の子どもにいたるまで貫徹している。上意が末端まで貫徹する仕組みになっており益々その上意下達が強まっているは事は広く知られているかどうかは別だが。それは日本の伝統ともいえるぐらいに強い。戦後教育史を見ても、学校現場で比較的風通しがよかったのはわずか敗戦後の10年ぐらいだろう。昭和28年の教育委員の公選制が廃止されていらい現場や子どもより国家中心の教育行政が次々強化され、子ども達に問題が発生するとそれを理由にさらに権力支配が強化されてきた。今日もいじめや履修漏れの問題は教育の権力支配の強化の材料になっている。現場で子どもと向き合っている職員は憤懣やるかたないだろうと思う。〈子どもに目を向けた国家の権力支配なら私は大賛成する。しかしずーと実際にそうではなかったし、教育原理的にも不可能。(なぜなら発達の情報は個々の子どもが持っているのだから)教育界での上下関係は世間の常識をはるかに超えている。閉鎖的な教育界の内幕は外部にはあまり知られていない。〈学校の信頼を損なうので外に出さない傾向がある)せいぜい校長と教頭 平教員の関係ぐらいが外から一部見える程度ではないか。学校関係の上下関係の実際は、公的な関係をはるかに超えている。次に例を挙げる ①校内的には学校長の覚えがよくないと、出世はおろか、転勤を余儀なくされたり、昇給を左右される。高じて職場の人間関係まで左右され難しくなり、仕事がやりにくくなる。よく組合の先生が云々の話を聞くが、実際にはそんな力はとっくになくしておりほとんど学校長の一方的な意向で学校運営はやられている。教育の条理に反するに不当なこともチェックすら出来ない状態にある。〈必須漏れやいじめの無報告は多分に関係している) ②学校長と市教委との関係は①とは正反対になり、校長自身教育委員会から転勤を一方的に命ぜられたり、給料も左右される。その上校長は職務に専念できる状態には無い。教委関係の仕事が多く出張続きで学校にいないことの方が多い。近年特に学校を空ける日がふえている。市教委が学校へくる時の管理職の気の使いようは大変なもので、掃除を始め、下駄箱の表示や飾りつけ、お茶の用意、時には昼食の準備,玄関や駅への送迎、非常識とも言える過度な敬語例えば○○教育長先生様、○○指導主事先生様などおかしくなることがある。 ③校長会や教頭会の中も、上下関係が強く1年早くなったかどうかで酒席での態度や言葉遣いが違うと管理職になったばかりの友人はよくぼやいていた。私は都の研究員の時、指導主事や管理職と同席することが多かった上下関係によく違和感を感じたものだ。大人の関係と言うより卑屈なおぞましさを感じた。とても人格的に自立した教育者どうしの関係にはには見えなかった。飲み屋へ行ってもオーバーを脱いであげたり靴を揃えてあげたりその気の使いようはこちらが恥ずかしくなることもあった。 学校関係の上下関係や人間関係は個人的な感情もからめたどろどろしたもので、教育関係の会議や研究会で公正さを感じたことはどこへ行っても40年間ただの1度もなかった。学校関係の社会的な責任は、法と実態上は、はっきりしていて、責任のなすりあいはしなくてすむはず。高校の教育課程は届けた学校と受理した教育委員会が法的に責任を持つのが当然。(必修漏れは学校も教育委員会も国も承知してやっていただろう事は現場感覚では常識だろう。そのための教育委員会の学校訪問も定期的にやってるし、かくしできるほど、学校の教員は特に管理職は子どもの利益を考えたりできる心臓の強い人種ではない。責任を感じて自殺した校長先生は責任を全部おっ被されたからだろう。他人の分も責任を感じる教育関係者の中では少数。記者会見した教頭先生の態度は他人事のようだった。あれも教師の顔。ああいう顔の方が教育関係者には多い。内部の会話では【良心的な先生】といって区別して話すことがよくある。管理職や教委委員会の職員では殆ど聞かず、「あの威張った○○先生」と枕をつけて話される人が実際多い多い。職員間では相手によって礼の仕方一つも違っています)システムや実態や空気をしらずに国会で論議しているのはやはり昨日このブログで書いた【田分けごと〈言〉】ではないか。
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各種の事件報道を見て

新聞やテレビは毎日次から次へと各種の事件を報道している。無尽蔵でどれだけ貯蔵されているかと思うほどだ。国の公の借金があんなに多いのだから隠された負の財産も計り知れないのだろうか?いじめによる自殺・高校の必須問題・千葉県のパワハラ自殺・福島県知事の収賄など テレビでは各種の論者が奇な目と興味本位を織り交ぜ当事者へ非難の解説をする。どれを見ても今一しっくりしない。考えて見ると他を非難するが自分自身がいつもその外に立っている(私も含め)からではないかと気付いた。どの問題をとっても特殊な問題でなく、社会のシステムも関わった社会的な事件である。論理的には誰もが特に大人は無関係ではないず。自分の責任を前提に他を批判しているのは殆ど見られない。このこと自身が社会的な問題であり各種の事件を生む背景になっているはず。(不良少年には悪いが、甘ちゃんの不良少年の言い草とかわらずいつも他人のせいにする。)私自身を振り返ると単に論理的ではなく、公私とも具体的に、自分の立場を守るため、自分のエゴのため、自分に勇気が無いため、悔やまれることは山ほどあったことは間違いないし反省もしている。自分を含め各種の事件の根っこを明らかにするのが今やれる責任だと思って書いている。 国会を始め今後特に教育問題では政府や各行政の責任者や専門家と言われる学識経験者などががテレビに登場するだろう。99パーセント他を攻める言い方で自らの責任は棚上げされるだろうと思うが、自らの責任の自覚振りを注意深く見たい。いじめによる自殺問題の該当校長先生が自殺原因で言を左右しているのは、いじめの加害者のことを考えてのことだろうが、同時に自らの責任を棚上げしたところから来る混乱にも見える。しかしあの校長先生の態度は一般的であり個人的には責められないが社会的な責任で言えば、学校〈学校長と教職員〉が負うべきだ。このような問題は因果関係を単一的に結びつけることはできない。しかし責任と言う社会的責任から言うと形の上から解釈し、いじめがあったこと事態に本来は市教委や学校が責任を負うべきだ。ただ加害の子ども達もその中で教育的に責任をとらせるせるべきだろう。全国的ないじめの責任は当然文科省にある。責任は社会の仕組みから発生するのではないか。千葉県のパワハラも自殺し家族が訴えたので問題になっているが似たことはどこでも見られることで調べれば収拾つかないだろう。そこまでやらない管理職は貴重だからでオーバーなぐらい職員に尊敬されもてはやされる。このことを分っていないことが社会のシステム上の問題であり、気が付かないでほうておいた行政機関やメディアはは勿論、全く気が付かなかったとは言えない国民も広く責任がある。事態はとっくにそこまで進んでいる。

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たわけ者・田分け者

女房に[たわけ者]ってどんな漢字で書くのか尋ねると、〈田分け者)だと教えてくれた。高校の歴史の先生がお百姓さんが田を売り分けると当面は良いけど、行く行くお米の収穫が減り自分が困ることになる。目先の利益で田を売るような人のことを田分け者〈たわけ者)と言うのだと語源を教えてくれたと言う。子供のころから「たわけ者」の言葉はよく聞いたし自分でも使ってきたが、〈田分け者)とは聞いたことがなかったので私はすごく嬉しく、そんなことを今も覚えている女房が素敵に見えた。その先生のことが話題になったが女房はこと細かく覚えている。その先生は素晴らしいと思った。確認のため広辞苑を開いたが(田分け〉は出ているが田分け者は出ていなかった。広辞苑には(戯け者= たわけもの・戯言= たわごと)が載っていた。それはそれでいいのだが、〈田分け者)の語源が面白かった。田分け者の言う言葉は戯言〈たわごと)より田分け言(たわけごと)がいいと思った。私は田分け者のたわけ言がいやに気に入った。今の時代田分け者は若い人から、専門家、国を預かる大人まで堂々と大手を振ってい歩いてる。こんな時世だからなのか、やたら(田分け言)にリアリティを感じてしまう。特に教育に関してそう思う。教育改革が(田分け者の田分け言)で論議されなければいいのだが。明日の新聞やテレビでも、沢山田分け者が登場し、田分け言を聞けるに違いない。

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私も一つ告発します

高校の履修問題は関係者のあるマスコミへの投書から明らかになったそうだ。私も今までに何度か.不登校児童生徒数や発達障害の児童生徒数とその対応について告発的に書いてた。誰の目にも留まらなかったのか、未だに問題になっていない。朝日新聞には何回かファクッスを送ったが今もなしのつぶて。今、高校の履修のことが問題になっているので私は教育課程に関係した小学校〈中学も同様だとは思うが実際に現場にはいなかったのでここでは控える)の生活時程について告発したい。生活時程は授業をはじめ休み時間や給食・掃除などの始めと終わりの時刻のことで学校ではチャイムを鳴らす。子ども達には「チャイム着席」と言って授業開始のチャイムで着席することを要求している。時程は学校の決まりのようなものだ。その時程も市の教育委員会へ教育課程届け時に資料として提出しチェックされる。市は都へ報告し発送する。都から国へは同様に報告を求められる。(教育課程以外でも暫時文科省の要請で調査報告が求められ義務付けられている。)日本全国がそういう仕組みになっている。あの中で時程をよく見ると3時間目開始のチャイムは多分だが日本中の学校でほとんど守られていないだろうと思う。いわば守られない学校の決まりを作り子どもに〈チャイム着席とか廊下を走るな)と指導している。問題は3時間目開始のチャイムである。休み時間は外で元気に遊ぼうと呼びかけるので子ども達の多くは校庭にいる。そこで休み時間の終わりのチャイムが鳴る。5分後に3時間目のチャイムがなる。この5分間に子どもは学習する部屋で着席していなければならない。しかしこれは現場にいれば誰でも見ていることだが、子供はそれを守ることは殆ど難しい。何故なら、避難訓練で先生が先頭に立って非常口を使っても教室から校庭に全員集まるのにおよそ5分はかかる。それが子どもが校庭から教室へ行くときは、靴を履き替え、途中でトイレに行ったり水を飲んだりうがいをしたり、高学年で3時間目特別教室でする授業の場合3階や4階の教室の子は自分の教室に一度戻ってから勉強道具を持って理科室や音楽室へ教室移動しなければならない。これでは守れるはずが無いし実際守られていない。時程

に関して言えばて言えばこんなのはいいほうで、休み時間終了と3時間目開始時刻が同じになっている学校もある。1~2時間目、3~4時間目をくっつけ5分休憩を取ら無い学校もある.トイレや水のみ・教室移動が授業中に公然と行われる。他に2重帳簿的に2つ〈A・B時程を用意しB時程は授業の短縮をする)の時程を用意し使い分けてる学校も多い。年間の授業時間も教育委員会のチェックは厳しいが、遠足や運動会等の行事はその準備も含め、教科学習に割り振って教科学習の時間の確保に当てているのは教育委員会の指導による。遠足などは行事・社会科・理科などに読み替えをする。何故こんなインチキ・無理を全国的にしているのか。学校はこんな無理をする必要もメリットも全く無い。逆に決まりを守るように教育しなければならない学校が守れない決まりを作り子どもにそれを求めることから派生する問題が目の前で展開するのだから。そこで子どもは何を学ぶかが心配になる。教育委員会はを学校から見ると上司の機関で、従わないと教育課程も受理してもらえずつき返される。教師は組合員か否かを問わずそれに逆らいやたらと学校に波風立たせるデメリットの大きさを考えて目をつぶっているのが実情だ。管理職は心の内は別にして、(立場上とは思うが)教育委員会の立場で職員を指導する。それでとりあえず学校は安泰。子どもにしわ寄せが行く。25年前、指導要領で授業時間が40分から45分に伸びてからこの矛盾は以前にもまして大きくなった。子どもの学校への拘束時間は変えないと文科省や教育委員会は説明してきたから、授業時間が45分になると他の時間が減らされるのは必然であり、子どもの動きは細切れになる。これで子どもの学校での休み時間休憩時間はかなり減った。校内でこの問題を論議すると必ず校長からは「こうしないと教育課程が教育委員会に受理してもらえない」と言われる。この関係は市教委と都教委、都教委と文科省の間も同じ。文科省の方針がどれだけ下部に徹底しているかを求められるから仕方が無い。従わないときは 出世に関わるどころか最近は処分や給料格差に及ぶ、教育全体全体がこの流れになっているので子どもの置かれた矛盾は外部の人には理解できないかもしれない。役人の上下で言えば、下部や部下は上部や上司に高い評価を得るため上部の意向を先取りし、拡大・強化して下部に伝える。
昨日、文科相の研究委嘱をうけているある学校の学校公開に参加した。保護者始め近くの市から見学している先生や教育委員会の人多くにぎやかだった。保健室の先生に聞くと毎日頭痛を訴えて来る子が4~50人はくだらないと言う。お客さんが多いので障害児学級〈この学校は併設している)の子どもは特に落ち着きをなくしているとその担任は嘆いていた。先生方はこの日の準備で閉口しへたへたしているの教師の声も聞いた。学校長や教育委員会にとっては実績になるだろうし地域や保護者も「すごい研究してるいい学校」と思われるかもれ知れないが、子どもにとっては最低の状況にもなりうる。疲れた先生の顔を見ながら勉強が面白く盛り上がるはずが無い。〈若い音楽の先生はお客さんがいたせいなのか、はりきりびしびしやっていたが表情は硬く声はヒステリックになっていた。歌っている歌詞やメロデーと全くマッチしない。私はいたたまれず、教室から出た)お客さんも親達もどうせ見に来るなら上辺ばかりでなく奥までしっかりみないと
意味が無いだけでなく、ズレを増幅させ子どもに犠牲を強いる。(実は昔からこんな学校の研究の実態は先生方は常識として知っている。現役時代、実体の伴った研究は見たことは自分の学校も含め1度もなかった。見せるほどの時間も無いのにぶ厚いい冊子を作り内部から見ていると恥ずかしいほど派手に発表します)

次々保健室に来る子ども達が頭痛を訴えきているのに保健室を覗く人の影は全く見当たらなかった。学校の内部を告発すれば切りなくあるが現役の先生方は組合の先生方も含め「もの言わぬ先生」になってしまった。「物言わぬ先生」と言うより「物言えぬ先生」の方が正しいと思う。先生方も家族があり生活がかかっている。ものがいえないのは当たり前であれでは内部告発も困難。それを誰が責められよう。〈私は決して「先生方はいいとか正しい」とは全く思っていない。おかしな事実はこ山ほど見てきた。ただこれだけ教育が壊されたとき、末梢的・部分的なところだけをほじくって教師や教育委員会を非難しても今日の事態なったように解決とは逆方向に進むだけ。抹消的・具体的なところから入ってもいいから子どもの心や発達を目の奥において原因を根っこの方に深く掘りお起こさなければ意味が無い。

教育再生会議も初めは唯一ヤンキー先生に期待した〈現役のヤンキー先生を尊敬していた)が、この間、記者会見で見ると表情まで変わって見えた。私は教職員組合の肩を持つ気はないし、批判されるべきところはいっぱいある。ただヤンキー先生の言うように組合と教育委員会が手を組んで云々と言うのは言わんとするところは分るがいかにも瑣末的なところに終始し、問題の本質から離れる従来、責任者が抗弁するときと同じ論法になっている。もしそれを言う場合でも、全体を見ていれば言い方が違ってくるはず全体像が見えていない。今必要なのはいじめでも虚偽履修でもその全体的な姿とメカニズムをはっきりさせ根治的な対策を講じなければ間に合わない段階まで既に来ている。だから脳裏に子供の姿をはっきり意識しそれに関わる全ての全体的な関係を見てほしい。再生会議のめんばーの言葉を聴くとタレントのように奇をてらうパホーマンスは十分だが根の深さと全体の関係がぜんぜん見えていないのがすぐ分る。農家は作物を見て手入れを考える、目の前の稲がその稲の手入れの方法を教えてくれる。目の前の稲だけが生長の情報を持っている。決して学者のマニュアルでもなく、権力者やタレントの美辞麗句ではない。腕のいい大工職人が「木が大工の仕方を教えてくれる」と言っているのを聞いたことがある。一方、教育関係者は益々子どもから目を離し、お偉いさんの方に目を向け、お偉いさんも自分たちがもっと強力に指導しなければと子どもから目を離したまま張り切っている。これでは上から下まで一緒に子どもから目を離して子どもを育てるようなものでメクラ運転に近い。、工場生産のもやし作りや家作りと同じになってしまう。人は簡単に工場生産のように生産できるだろうか。たとえ生産されたとしても、どんな人間ができるのか。有害でないおいしいお米や人の心をかんじられる心地のいい家のようににならないことだけは間違いないだろう。実は上記のようなことはもうかなり進行している。現在の親の世代は既にかなり目を離されて育てられてきている世代になる。と言うことは、私にとって今の風潮は他人事ではなく、それらを育ててきた自分の責任を棚上げし他だけを批判することはできない。責任が今の人より重いかもしれないことを忘れてはいけないだろう。
内部告発と内面告白になってしまったが仕方ない。

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学校の教委への虚偽報告

この間はいじめ、今度はは高校の履修不足の教委への虚偽報告が問題になっている。東京都の教委は「書面(教育課程の届出)の確認で適正に実施されていると思っていた。」と述べ、発覚の発端発端になった県(富山県?)の教委のの担当者は「書類審査は性善説でやっている」の談話。両教育委員会の述べていることに今日の教育問題の根っこの1つを端的に見る思いがする。耐震偽装のときの、当局の話と全く同じだ。官僚制は実際より何より書類を優先させる。他の分野はともかく、教育は書類優先では成り立たない。何故なら育てる対象は生き物で絶えず変化する。書類を審査したのでは子どもが見えるはずがない。中央集権的な伝統的の教育行政のもとで発生した。問題が出ると中央集権をさらに強める。何よりこんなときに教育の指導機関から「性善説」などの言葉出ることに事態に 恐れ入る。「性善説」の意味が分っているのだろうか。指導機関は最低の言葉の意味ぐらい判って使ってほしい。ごまかす時やたら横文字やや専門用語を使う傾向があるが、使い間違うと格好つけただけ恥ずかしい。見ている先に子どもがあったら「性善説」「書類審査」などの言葉は100パーセント出てこないと思う。
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有限・無限そして限度

昨日にブログで人間が有限と無限を履き違え無視して突き進ん出いることを書いた。あれからまた考えた。社会全体が有限と無限を無視して突き進む世の中では、物の限度(程度)をわきまえないのは(わきまえられないのは)当然。社会がおっぴらにそれを進めているおとな社会の中で子どもが遊びといじめの区別がをつけられずず限度をわきまえられないのも当然。こういう構造の中で出てくるいじめだからいじめる子どもも(自分の経験では)例外ないといって良いほど必ず他の場面でいじめ(阻害)られていた。いじめの加害者は必ずと言って良いほど他からの被害者でもあった。大人社会から生まれた構造的な現象だと考えている。文科省はじめテレビなどでの論評は私達が子ども時代のいたずらや悪遊びの観点に立っている。大人が現代のいじめの構造がわかっていない。有限無限を履き違え限度をわきまえない社会では必然的な結果。新しい対策を考える前に、大人自身が振り返えらなければならないのではないか。ごく普通の自然の法則や道理を無視し理性を失った大人がまず己を取り戻すことではないか。私自身今まで、公私ともこの間違いをを山ほどしてきた。年をとりふり返るえる時間ができたせいか、自分と世の異常さにわずかだろうけど気付きはじめたと思っている(昨日書いた「有限と無限」を間違って消してしまった)
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人間は生物

親が子どもを殺したり子どもが親を殺したり、親が子どもを虐待したり、子どもが親を虐待したり、友達が死ぬほどいじめたり、それを隠したりこんなニュースが日常化し ニュースの感じがしくなって久しい。以前ザリガニを水槽で飼っていた。えさが足りないと、共食いの無残な姿を見せる。それは親子も何も関係なく強い方が生きるため弱い方を食いちぎる。動物だけではない。今は日本の従来あったタンポポを見つけるのは難しい。これは動物や植物の生物の生態。最近のニュースを見ているとついそれらを連想してしまう。しかし生物は自然の中で循環し調和を図る。自然全体を壊したりしないし自ら種を絶やすようなことはしない。人間は一面的に欲や意識を肥大させたためか、自分たちが生きるのに必要な大地を壊し,人間としてその本性まで失いかけているように見える。生きる術を見失ってはいないか。最近の風潮は人間の共食い的な面と同時人間が厳然とした自然の中の生物であることを忘れているように見える。種が断つような事を平気で言い平気でやっている。子どもから世界の大人まで。ゆでダコや鍋ガエルのように感覚をマヒさせ、人であることを忘れ踊りもがいてどこへ行くのか。国際関係も国会やテレビも。私も似たり寄ったりだとは思うが・・・・・・でも、やっぱり思う。

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情報がもたらすリスク

今日のサンデープロジェクトで(始めてだと思うが)今の景気は本当か?が論議された。「多くの人が好景気を実感できないうちに景気は悪くなる」がほぼ共通した見解のようだった。しかも、政府や表向きの財界が表明しているよりかなり早い時期だろうと見ているようだった。景気への危惧をメディアで大きく取り上げたのは私の見る限り初めてだった。景気の実態も先行きもある程度把握し予想できるものだと思う。私はこのような論議がメディアに登場するのは遅すぎると思っている(昨年8月の踊り場脱出宣言は名目的で経済の体力は落としているので長く続くとは考えられなかった)、が政府や日銀、財界などの正式な表明は今も「景気は順調で底堅い」で先行きの危惧はいささかも見せないから、見方によっては早いとも言えるのかもしれない。ただ私が遅くてしょうがないと思うのは、多くの人や企業はしかるべきところの正式な表明やメディアの情報に左右されて行動しているからだ。景気の落ち込みの情報が遅ければそれだけ計画や対策は遅れリスクが膨らむ。かつて多くの人がしばらく痛みを我慢したら明るい展望が切り開かれると思っていたはずだ。あれから5年になるが、特に地方財政は疲弊し、中小企業の経営の不振、勤労者の平均収入は減少している。犯罪や家庭や子どもや教育も深刻化している。情報と実際がかけ離れ、結果、多くの国民はそのリスクを背負う。特に子どもの教育お経済は実態を踏まえて情報を流してほしい。ジャーナリストやメディアは現実と符合しているかのそのチェックをしっかりしてほしい。卑しくも恣意的に情報で操作するのはやめてほしい。景気やいじめをはじめ教育の問題は立場や考えの違い以前の現状把握をせずご都合的な情報を流し、対策や対応が後手後手になっていることが最も問題だと思う。与野党関係なく現状把不足のひどさを感じる。回りも全体的に大人が浮ついている感じだ。専門的なことではなく常識が機能していない。 【好景気】【いじめ】など普通に空気を吸い、子どもを見ていれば実際がどうかは所謂「専門家や権威者」や「メディアの論評」より自分の心に聞いた方が はるかによく分る。 対策だってこんなに後手後手にはならない。独り言だが、尋常小学校もそこそこの私の父や母(とっくに天国でゆっくりやってるが)が総理大臣や文科省の大臣をやったらもう少しましではないかと思う。教養はないが常識はあったし、口数は少なかったが見る目は確かでどれだけ体裁を取り繕い、言い訳しても、いつも心のおくまで見抜かれていた。

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どうかしてない?

今日は朝から多くのテレビ局がいじめの問題が取り上げていた。特に福岡の中学の担任がいじめのきっかけになったことや、学校や教育委員会の隠蔽体質のことで、教育者のモラルがこんなに地に落ちたかと驚き嘆くものだった。私は妻〈元中学教師)と驚き嘆く人たちの鈍感さを嘆いた。今のいじめは昔と異なり構造的であることがさっぱり分っていない。文科省は教師や子どものモラルの問題としてさらに指導を強めるとのこと。対応が全く逆であることに気が付かないのか、そうでなければ今国会で教育基本法を変える世論作りと勘ぐりたくなるほどだ。今の形のいじめは実践家の中では40年近く前から予想されていたし、我々が実際に学校で目にするようになってから少なくても20年以上たつ。隠蔽体質と言われるようなのは私が教員になったときから地域や学校に関係なく普通にあった。ただいじめにしろ隠蔽体質にしろ年々ひどくなっていた。同時に子どもの問題はいじめだけでなく不登校・発達障害・体力学力の低下・欝的症状・学級崩壊等など問題は深刻化するばかりだった。また教師の精神疾患も同時に増えた。そんなことは殆どの現場教師が経験しているはず。そして原因もどれだけ整理して言語化できるか分らないが殆どの教師は感じているのではないか。ただ今は既に物言わぬ教師になっている。組合も含め物言わなく【言えなく】なった。今言われている対応は55年ぐらい前、私の小学校時代だったらまだよかったかもしれない。しかし教育は医療と似ているところがあって、状態によって逆の対応が必要。そこが分っていない。大人は落ち着いて人について考えるといい。難しい教育論や方法は必要ない。常識で十分だ。

教えることは学ぶことが前提。教育官僚は上部が下部を指導し教えることばかり考えている。行政の他の役所は分らないが、こと教育関係の役人は現場の教師同様まず学ぶ姿勢が無くてはならない。対策【指導】もそこからしか見えてこない。現場の教師ならまず子どもから学ぶ姿勢が資質として求められる。政治家は勿論文科省をはじめ教育行政に携わる人たちにそれが殆ど感じられない。上から人を見ては人の本当のところは見えない。それでは対策など出てくるはずは無い。内閣が組織した教育再生の委員の顔ぶれを見るとどれだけその資質を持っているだろうか。組織した人の目がこどの方には向いていないしまして学ぶ資質を持ち合わせていないのではないかと思う。こと子どものことだから、他に利用するようなことは許されないのではないか。まずは時間をかけこどもをよくみてほしい。それでも間に合わないだろうからせめてげんばのはなしに直接耳を傾けたらいい。対策を考える最低限の手続きだろう。

教室の子どももそうだが、間違った指導はやればやるほど

子どもはだめになる。今日の子どもや学校はそのことを物語ってはいないだろうか。大人が腹を据えて考える時だ。

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韓国旅行をして思ったこと

(短時間も含めると今回の韓国は14カ国目になる。もう年だし、もう最後かの思いもあって)家族4人で観光旅行をしてきた。自然と子どもの表情や動きに目が行く。日本と殆ど変わらないが、幾分一昔前の日本の子どものような素直さ・素朴さが感じられた。今回の旅行でよかったのは韓国の国内から日本を想像したことだった。〈今まではどんなにがんばってもそれはできない)韓国と北朝鮮は朝鮮戦争以来敵国の関係にあるのかもしれないが、もともとは東京と埼玉県のようなもの。親戚縁者が双方にまたがっている人たちが予想を超えて多い。行きの飛行機では隣に座ったおばあちゃんは韓国、ご主人は北出身でご主人の兄弟3人はいま北で暮らしてるらしい。厳寒のこの冬が越せるかご主人は心配してるらしい。あかすりをやってくれた青年の親戚も北に多いらしい。〈気になったのは、そのことを言うときその青年は周りを気にしながらこそっと言った。すぐ話題を変えた)同じ私が見る位置が日本か韓国かで日本も韓国も見え方が違ってくる。日本にいての分断国家の想像は難しかった。また海外旅行の面白さかもしれないが日本にいての日本の想像にちょっぴりかもしれないが新しい視点を当てられる。韓国人にとって今の私がどんな意味になるのか始めて考えさせられた。 歴史の評価も大切だがいまはもっと大切。今の実態をこねくり回さずまっすぐ見て取りたい。
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