世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
なすり合い
社会が崩れ社会機能も麻痺しているような状況の中で、首相の言ってる事がおかしいとか何とか言っている。確かに筋の通らないことばかりである。
しかし、逆に言えば崩れ機能マヒしている中で、機能マヒしたような首相が選ばれ出てくるのは、総理の責任ではない。選んだのは自民党であり、自民党に多数の代表を送った国民であり、広報宣伝してきたのはマスコミではないか。
総理と無関係でない人たち同士があーだこーだと責任を棚に上げて論ずる。
何だか、根っこの無い浮き草のような議論や評論に聞こえた。
政治経済ばかりでなく、教育も然り、事故や犯罪の扱いも同様。
子供のころニュースで見た戦災後の
焼け野原とうごめくヒトビトとイメージが重なって仕方ない。
でもあのころは助け合っていたなー。
天気予報の続き
社会的に起きてくる現象も天気予報のようにある程度予測して知らせて欲しいものだと前日書いた。
先日、政府税調は、麻生氏が提起した3年後の消費税増額を経済の「中長期計画」に位置づけるよう答申し、自民党が動き出した。
ところで日本経済の3年後は「中期(前後の文意から)」である事に驚いた。ならば、3年前、今日の経済状況はどう計画されていたか?計画は間違っていたと言う事か?この間間違った計画で政治をしてきたということか?
実際、1年前の政府の日本経済の評価は「底堅く力強い成長をしている。」と言う評価を正式に表明してきた。
それどころか、国会審議や、テレビ討論の最中に担当大臣がリアルタイムの株価に右往左往しているのを見せられてきた。
政策立案者が株価の乱高下で振り回されているのを見て、 経済の計画があるのか無いのかは疑問を持つし、少なくても先の事はあやふやで責任感の無い事だけは感じた。
国の政治は先行きへの責任は無いのだろうか?
今後の事だけでなく、今日の崩れ機能マヒした現実を見て、誰もその責任をとろうとしないし、問おうともしない。
昔は夕焼けを見たり下駄を投げて明日の天気の見当付け間違っていても仕方ないと諦めもついたが、今、津波情報を怠り津波被害が出ると、気象庁の責任は問われず黙って諦めるのだろうか。
ことは天気や人知では測れない天変地異ではなく、人間がやって生まれた社会的な出来事である。
これほどまで見当がつかないとは思えないし責任が無いとも思えない。
後追いばかりの政治やマスコミ、こんな感覚では、米も作れなければ、医者も務まらない。学校の教師も、親も何も‥
庭に来るすずめはどれも猫を恐れて地べたに蒔いたエサをつっつこうとしない。
社会現象も天気予報してほしい
昨日の党首討論で、解散を迫る小沢氏に対し、首相は『金融災害の渦中で政治空白を作れない。』と答えていた。
回答の是非はともかく、『災害』の言葉がどうしても引っかかる。
麻生氏だけでなくかつての総理大臣はもとより、与野党・学者・メディアは立場関係なく、明らかに社会的に発生した問題を天然災害であるかのような表現を使うのをよく見てきた。
規模の大きさ大変さを伝えたいのだろうがそれでは済まされにいものを含んでいる。
お天気でも天気を予報し、我々は予知して雨が降りそうだったら、「傘を持って行って!」と家族でも声をかける。
政治・経済・教育は明らかに自然現象ではなく、人間が作り出したものだから
自然災害と違い予知予告がかなり可能なはずである。
今回の世界的な経済危機も「全治3年」と言う前に国の予知予告があってもおかしくない。政治には殊更その責任があったのではないか。
今回の経済危機のだけでなく 現在進行中の日本が抱えている問題の現状や今後の成り行きはは殆ど予告されないから、多くの人は大した備えもせず事故に遭遇し初めて気が付くことになる。
要するに我々人間が作り出した社会的な問題に無責任なまま、 それに慣れっこになり、普通になっている。
この事が今回の経済危機同様、社会問題の問題の解決を長引かせややこしくしていないか。
せめて天気予報や災害情報程度には国やメディアは知らせてほしい。
カジノ経済の危険を本当に金融危機が発生するまで当局が
分らなかったとしたら、それはそれで大変なことである。
地球では人類が嗅覚を失ったか?
何となく、『地球の人類が嗅覚を損なっている。』そんな感じがする。
知識や知恵もいいけど嗅覚をなくしたら‥‥大変だろう?
規制緩和
ヒトも生きるために仕事ををして暮らしているのだが、混乱の大元は、仕事上のルールの合意が出来ていないからか。
100年に1度と言われる恐慌にも似た不景気は経済活動の規制緩和が原因だともいわれる。
ヒトビトの活動の規制と規制を解くその加減が旨くいっていない。
『規制緩和』の言葉の持つ語感自体否定のしようはない。
経済活動でそれが用いられる時は、利益追求を最優先し、
ヒトビトは利益を失った。
教育活動でも、規制をどうするかは重要な分岐点になる。
教育では規制緩和とは反対に規制強化の方向にある。
同じ人間が教育では規制強化、経済では規制緩和と、言葉の上では矛盾した方法を取っている。どうもその扱いを履き違えていないか。
現状は、 政策を取り替えた方が旨くいきそう。
言わんこっちゃナイ
『世の中を動かしているのは政治家より官僚、高級官僚は悪だと大学に入ってから分った』と元厚生事務次官を襲撃した犯人が話しているらしい。
素直に新聞テレビを見ていたら誰でもそう思うだろう。
政治家(政府)が部署や部下を公然と批判して組織的責任を曖昧にし、最終的に責任をとらない政治の行動様式は、国鉄民営化推進の1980年代から事故・事件の度に見られこの形はは定着しているようだ。
私はこのやり方を『無責任大国』で世界的にも金メダル級ででないかと揶揄してきた。 国鉄の時は、国労たたき、自治体攻撃では自治労をたたき、その当時、次は日教組と言われていたが、1990年代に入りそのとおりななった。学校では、子供や保護者にも 変化が出てきたし、居酒屋の教師に対する話題も空気も変わきた。
それが今は日教組かどうかではなく「先生」そのものがそして、連綿と 「公務員」「役人」「親」「家庭」‥と職業や立場そのものがバッシングの対象として拡大されてきた。
いずれも、発信源は政府・与党と、拡大してお茶の間まで撒き散らしたのは、毎日届ける新聞とテレビだった。
今回の事件も、犯罪者として事細かく伝えられるだろうが、、
政治テロであるかのような大袈裟な見出しを用いたメディアも、容疑者の『高級官僚は悪』の認識に立った経緯など明らかにしないまま、10日もしないうちにテレビや新聞から姿を消し、国民は忘れ、単なる珍しい過去の犯罪であやふやにして終わるだろう。
あの報道のやり方は、 真犯人が逃げたり逃がす時に使う手に似ている。
この類の犯罪報道はいつも真犯人(社会的責任者)を匂わせながらはっきりさせたことがない。
だから何が起きても、社会的責任者が不明でだれも責任を取らず実行犯個人の問題で終わる。
今回の報道でコメンテーターに犯罪心理学者を登場させていたが、テロや恨みを想定するなら、場違いの専門家ではないか。もし専門家として出すなら(提灯持ちでない)ジャーナリズムの研究者か政治・行政の組織論の専門家の話が聞きたかった。
経済危機よりジャーナリズム危機のほうが、根が深い
面もある。
ひょっとすると
あまり根拠はないが、世界同時の金融危機や実質経済の落ち込みの慌てた報道ぶりを見ていると、ひょっとして?と思い浮かんだことがる。
世界にある貯蓄したお金は預貯金より投機で動いている方が多く主流になってはいないだろうか?
基本的に、お金の動きに壁があるとは考えられないから、株の暴落と定期預金や保険は繋がっているはずである。株が暴落し景気が落ち込んで定期預金や保険の実質的な価値が変化しないはずはない。
株券や国債、保険や預貯金、タンスや金庫に溜め込んだお金が、もろくも紙切れになった歴史があった。
先の見通しを考えると、今回のこの経済危機でどの程度連動するかが問題である。
世界の慌てぶりと、経済の落ち込みを見ていると、ひょっとするとかなり(2-3割超)かな?と(直感的に)思う。
(今は、インフレとデフレの流れがあって、予測は難しいが、どっちにしろ、1年後は現在の貨幣価値は相当目減りしているだろうと思う。)
児童生徒の暴力最多
文科省は07年の調査で児童生徒の暴力が過去最多、いじめは前年度比6倍にはねあがったと発表した。
学校現場は対応に苦慮し、国はカウンセラー配置などの対策を強化していると言う。
4年前、日記で子供達の状況は今後も悪化するはずだで、その事はデーターを追えば誰でも分ると記した。
その後の推移は、不登校、発達障害、いじめ、学力(本当の)など、いずれもデーター上も悪化の一途を辿っている。
何故か?
至って科学的な因果関係で起きているだけである。
もともと子供は自然の法則が支配している生き物なのに、それを無視した大人の勝手な教育?で支配しているからである。 子どもの発達成長に必要なものは時期と時機に応じ変わる。 少々のズレは子供が調節してくれるが、それを逸脱して押し着せられると、 生き物として変調をきたす。 その変調は、生命を保持する、信号でもある。
しかし、今は一切その信号は無視され続けている。
先日書いた『君が代を歌えるようにする。』は(敢えて誤解があっても)基本的には国歌云々の問題ではなく 子供の存在を無視し、疎外する公教育を意味し、それを国家レベルで推し進めている事異常さに、気が付いてほしいとの思いで書いた。
恐らく役人や識者は論理の飛躍だと反論するだろう。
見解の相違の間には、養老猛の「~の壁」があるだろうからここでは書かないが、せめて統計の数字の得てくる原因ぐらいは探って欲しいと願っている。
こうやって書いている間も、日本中の全ての子供達は、学校だけでなくどこにあっても信号を発し続けてる。
全ての大人が今後とも信号無視を続けるのかどうかが問われている。
所変われば品変わる
海の向こうの新大統領の演説に聞き入る人々の目、
海のこっちの大将の『誤読 』と『非常識』の弁明を伝えるテレビに目をやる家族の目、
好き嫌いもあるからなんともいえないが、ずいぶん違うものだ。
元次官宅襲撃
まだ犯人も捕まっていないのに、「テロ」「鬱憤晴らし」「民主主義の危機」の声が上がり、お役人が身辺警護されているらしい。 あたかも犯人の動機が分っているかのようだ。
関連記事に厚労省内に「一部マスコミの過剰な批判報道が、国民の厚労省への不信感を高めている。」「これだけ厚労省が悪者扱いされているので『成敗するのが正義』と考える人が出てくるのも不思議ではない。」の声が省内に根強くあると言う。
これまで政府や与野党、マスメディアがこぞって、公務員・官僚への一方的非難を繰り返してきた事の是非をこの日記でも何度か取り上げてきた。
年金始め、耐震偽装、西日本鉄道事故、食品偽装、防衛装備の汚職、自衛艦の衝突事故、学校教育の忌々しき問題等々、どれも責任の解明を解明すると言いながら全てうやむやにし、責任者が責任を取った話は一つも聞けなかった。
建前の『最高責任者』実際に『最高責任』は別なのか、 「政治は権限は持つが責任を取らない。」のを皆が放置してきた。
しかし、どんな社会も権限と責任をあわせて持たないと、社会は成り立たない。
犯人も捕まらず、動機も定かでない現在、見当がついているかのように関係者やメディアが動いているのを見ると、見当外ずれの八つ当たりだと、うすうす感じたのだろう。
教師として子供の前に立った時、良心と上意を取るかは常に問われた。
法律や上意が良心を押さえ込み、身分を危うくした例は探さどこにもころがっていた。
そういう意味では構造的に八つ当たりを生む。
、月から見ていると、はワイワイやっている変な生き物だが、
地球に戻ると自分がその生き物をやっている。
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