世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
社会科学は何処へ?
世界の時代転換期にあって、 日本の選挙結果はどうあれ 守旧的な仕組みを強化することになるだろうと思う。
時代が転換期にあることを社会的に認識されていないようだ。
加害者や被害者の形で社会的犠牲者が さらに増えるだろう。
ニュースのワイドショウ化だけでなく、社会科学である政治までもがワイドショウ化して来た。
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こんなことやっている場合か?
地上の自然も国々もゴチャゴチャにかき混ぜ 人類が7 グルぐる回して 探し物をしているような風景。
おもちゃ箱をひっくり返し人文科学と文学の本棚を見境なく並べた図書館にも似ている。
お笑いの芝居のような総選挙。
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政策は社会実験
科学の世界でも功績を讃えて個人の固有名詞を使うことがあるが、、現在進行形の研究や実験に個人の名を冠することは無い、
科学の世界はそれだけ事実や真実に対して謙虚さが求められている。
政治は明らかな社会科学あるいは人文科学であるにもかかわらず 実施中で結果の判明しない政策に個人名をかぶせることがある。
「アベノミクス」が「とらやの羊羹」のように有名ブランドを利用する宣伝文句のように聞こえるが、政策が社会実験であることを知らないのかな?
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世間の錯覚
単なる眠気眼の思い付きかも知れないが
少なくても義務教育の小中学校のカリキュラムや教育の仕組はは 学力向上の名の基に 人間力を落しているように思えた。
学力の偏差値教育は 知識がもつ現状認識を難しくする性質を知らないかのようだ。
「即戦力の育成」と言いながら その逆をやっている。
言われてる(高学歴社会)が 今日の行き詰まりに至らしめたのは偶然ではないだろう。
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jアラームは 怖いものから順に
北のミサイルも怖いが、 多くの難民や餓死者を出し、経験した事のない自然災害や、連日60人からの自殺者を出している (平常)に 正直言ってより怖さを感じるのは 間違った感覚だろうか?
前者は制裁や外交的手段が通用するが、後者はそれも通用しない。
怖いものは沢山あるが より怖いものから順に対策を立て取り組んだら良いのに…基準をはっきりさせないと jアラームの信頼が怪しくなり
「空騒ぎ」に映っちゃう。
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目からうろこ
「現代の経済学はもろもろの学問のゴミ捨て場だ。」「周囲を観察して損得ずくめで立ち回る経済人」「独房の直感と理性」
いずれも法政大の竹田氏が(本音のコラム)で嘆いた言葉である。
政治家や学者の言葉は聞くことはあっても なかなか財界人の言葉は耳にせず、論理が不明なことが多かった私は (目からうろこ)の感がした。
これは経済だけでなく他の領域や学問だけでなく 平凡な私達 市民1人1人にも当てはまるようだ。
基本になる事象の総体的な意味や価値が抜け落ち 現実は 部分的に認識される事象を相対的な意味や価値で理解し行動することが多い。
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ポジション
国連の北への制裁決議は 世界の現段階における公の知恵が生んだ到達点 とも言え、そこに 回転軸やパワーバランスの変化が
見て取れる。
共生社会と統治の一元化へ向かってはいるものの 歩みは遅い。国家も個人もポジションが問われる。
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命
単なる経済戦争の戦士の教育を担ってきたのだろうか?
私は 生命の空間で命を営む為に何を知っていて 何を教えて来たんだろう。
元々教える事なんて 出来なかったんだ。
小さな命を導くのは 大きな生命でしかないことを 今頃になって気が付いている私
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どうなってる?
地上で命を粗末にする生き物がいるだろうか。
命に対する価値感が全ての価値の基本ではないだろうか。
この世には ヒトの命を損ったり奪ったりするものが沢山ある。
疫病 災害 戦争 他殺や自殺もあるだろう。
命への価値感は文化や文明 人格の物差しになるかもしれない。
命を基に歴史や世界 未来そして人格を見るのも面白い。
世界は 国は 学校は 我が家は 自分は 命の重さはどうなってる?
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コミュニケーションの主体
コミュニケーションにおいて言葉の役割は部分的だろう。
役割は 動きや身振り表情 目 声 等 言い尽くせないが コミュニ化―ションをこんな言い方をしてはどうだろう?
「体の重心から発せられるエネルギーとエネルギーの総体的な反応」
とにかく 体と体から発せられるエネルギーのやり取り そんな気がするけど 「体が中心」は変わらない。
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