極楽!極楽!

1個のヒトとして めったに この宇宙には 出られないのだから  最後の最後まで この宇宙がどうなっているかを 探し求めたい。

今は やってているような気がするから大満足  極楽!極楽!

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昔にあった本当の都市伝説

みんなわらうかもしれないけど

むかしむかし 神話を信じていたころの 本当の話。 

水や食料より 銃やお札がだいじで 放射能なんか少しも怖くないと考えていた 小さな国が 地上のどこかにあったらしい。

お金が無くなったら印刷しまっくったって

                    信じるか信じないかは あなた次第!

 

 

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大人の方が恐い言葉の乱れ

「子供たちや若者は チョー 美味い!、KY、今でしょ! ‥等 ついて行けないような言葉を次々生み出し、とてもじゃないが年寄りは (オヨビ)じゃない。

時代と共に新しい言葉が生み出され、使われてきた言葉の意味も変化し、変化が極端に大きい場合は、使われてきた言葉のもつ常識から外れることもままある。それを「言葉の乱れ」と言うなら、政治家や専門家それを束ねるマスコミが言葉を乱していないか。

社会保障改革」や「税制改革」の言葉から誰が社会保障が切り下げた挙句増税されると想像するだろう。

憲法改正も望む人用の言葉であって、常識とは言えない。

「~緩和」の言葉も誰にとって緩和なのかを不明にしたまま提起するから常識的には『有り難い』の意味になるが、そのような意味では用いていない。

子どもや若者の(言葉の乱れ)は大した迷惑にならないが、大人やエライ人たちの言葉の乱れは迷惑千万取り返しのつかないものが多く「間違い」や「カン違い」を引き起こしかねない。

 

 

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夢見る多様な文化

                勿論、先の先の話だが…

世界の1元化が進むと文化の様態はどうなるだろう?

画一や、寄せ集め的な現象も現れるとは思うが、多元的な文化の融和による多様な文化が花開かないかと夢のような絵が頭に浮かぶ。

食卓を囲む面々も色々で、、並んだ料理も和・中華・フランスの料理がうまいとこ調和して並び、食後はこの地で採れたばかりの新茶ともぎたてのリンゴ(秋映え)が並ぶ。おしゃべりはごちゃ混ぜの共通語で話に花が咲く。

夢のような話でも 希望を語るのは年寄りの仕事。格好つけて(グローカル文化)もいいな。

 

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「責任」の乱用

「私の責任で」と大飯え原発を再稼働した元首相はもうその座にはいない。汚染水や消費増税で現首相は国の内外に公約して回っているが、どんな意味で「責任」の言葉を使っているのだろう?

責任をとって辞職されても被害を受けた人には何の償いにもならない。他所のガラスを割って責任をとるとは弁償することであり、他人を傷つけた場合いくら刑罰を受けても、真の責任は取れない。要するに責任には取れる責任と取れない責任があって、首相たちの用いてる責任は元々取れない責任を取れるかのように言う、単なるホラ(大言)でしかない。

それをマスコミはフリーにパスし、世界の人々もパスする。

しかし、そんな物言いが積み重なるとその使い方を見抜かれ、信用を無くし当てにされなくなるのは世の常。

このタイプの責任の取り方はかなり蓄積しているようだから、国際化の時代に「日本人の文化」ととられないかと気にはなるだけでなく、国内的にもこrが醸し出すものは人心や子どもにも良い影響は与えない。

政治はモラルに尽きるとも言われるが、反対に帝王学と権謀術をカン違いしているのかもしれない。

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素直でない自分

子供は「素直で可愛い」と思ってる親や大人が多いようだが、どうだろう?

大人がそう思いたがるのは身に覚えもあるし分かるのだが、果たして子供たちには素直で可愛いくしていられる環境が与えられているのだろうか?

ちょっとたら、子どもが親を喜ばせ、心配かけまいとして先回りしているのかもしれない。

かも知れないと言うより、経験上はそれが大半だった。

考えて見れば我々は地球を怖し膨大な借金を背負わせ、勉強でぎゅうぎゅう詰にし、虐待と間違えるような状況に追いやっているのだから、「素直で可愛い」と大人は罪滅ぼしをしなくては身が持たない。

「自然は美しく子供は可愛いい」式の大人の会話やマスコミの取り上げ方を見ているとへそ曲げて見たくなる。

 

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  教育の役割

世界の政治や経済の行き詰まりは近代化の限界に起因していると思うが、教育も同様に人為を優先した自然からの乖離が問題の発端になっていると考えている。

経済社会が自然から遊離していく中にあっては教育は自然にそれに飲み込まれていく。

日本で顕著な不登校・発達障害・学力問題・いじめ・暴力の何れも自然の欠如が作用している。

自然環境だけでなく大人や子供の自然への感性もが失われつつある中での現象である。

子どもたちを豊かな自然環境の中で自然の感性を呼び戻しすことで、子供の抱える課題が改善するだろうとの仮説をもって検証作業をしているが、やぶの中だからか興味は尽きない。

経済や政治が自然を正当に扱う展望が持てないように、教育もまた自然を正当な位置に取り戻すのは気が遠くなるほどの手間と時間がかかるだろう。

しかし、政治も経済も教育された人間の活動だから、教育や文化の分野から切り開らかれるのはこれまた自然かもしれない。

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希望の灯は消せない

これだけ大地の傷みが留まることなく進む中でどんな希望を見い出せば良いのか。

希望無しに生きるのは大人であっても難しいのだから、子供はどんなに困難を背負わせている事か。今の世界にあって子供たちの眼は未来に向けどれだけ輝けるだろう。

しかし、自ら望んで出生してきたのではない子供たちには、大人はだれもがどんな場合も希望の灯を見せてあげる立場いいる。

今やるべきことは、大地の傷みは身勝手な人間活動を競い争った結果であって、やがてその矛盾に気が付き、直せるのが人間なんだと、子供たちにはっきり伝えることではないだろうか。特に経験を積んできた老人に求められる仕事だ。

 

 

 

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罷り通る根拠のない話

行き詰まり混乱した世界にあって殊更日本の浮き足立ち空騒ぎの印象は少なからずの人が感じていないだろうか。

アベノミクス・原発・オリンピック・リニアカー・安全保障・憲法改正 の何れも根拠が不明なところが醸している空気ではないだろうか。

アベノミクスの経済回復と実感とのかい離、傷んだ地球と膨大な借金、原発の廃棄物を背負わせ子供たちが七年後のオリンピックだからと言って輝けるだろうか、五〇年前のリニアモーターカーの発案が一七年後の経済的環境にマッチするか、先取りどころか時代錯誤ともとれる安全保障政策  何れも根拠の不明な情報の下での騒ぎではないだろうか。

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「想定外」の想定

世界全体が個別でしかも目先の利益追求に走っているのを日頃感じているが果たしてどうだろう。

東京新聞9・22朝刊 (時代を読む読む)欄で著名な東大名誉教授の佐々木 毅氏は、「五輪と時間軸」

と題して、日本が七年後を基準に計画し行動できるいいチャンスを得たと、褒め称えている所を見ると、明らかに目先の行動を心配しているのは自分ばかりでは無いと、変なところで安心した。

目先に走れば当然広い視野には立てず偏狭にならざるを得ないし、日本に限れれることではない。

大袈裟だがつい、「人類の時間・空間の意識は拡がっているか狭まっているか」を考えさせられた。

物や人が国境を越えて地上を動く時代に人や人の作った仕組みが持つ視野が逆に狭まっているとしたら、人の考えてる想定こそ、現実から見るととんでもない(想定外)になる。

今後内外から、どれだけ「想定外」「経験した事の無い」を聞かされることやら。

物は人間中心には動いていない。

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