家庭教育

家庭の教育力が落ちているとよく言われる。私も自分の家庭を振り返って全くその通りだったと思う。我が家も念頭におきながら、考えてみたい。
「躾ができていない」「過保護・過干渉」「親の生活態度」等がよく言われる。
 確かにその傾向は否定できない。ただ今日のように全体的にしかも根深いものを感じるとき、上記のような一般的でどうにでも取れるような言葉は的をえていないと思う。それより子供達がこんなに状態になり、さらに拍車がかかっているのに、親からは、囃し立てる声以外ほとんど聞こえてこないのを見ると、やっぱりと思う。
学校が、大人の都合を優先し競争の原理で教育しているが、家庭もそれに熱心に協力している。子どもと言う人間を育てるとき、子供の意思や気持ちは大切にされなければ、少なくとも教育とか育てるの言葉は当てはまらない。
子供の成長発達に欠かせない、自分の行動(自己決定)の時間や場はどこにどうあるか。
学校はごく部分的にそれを取り入れることもあるが、そういう場にはなっていない。家庭もほぼ同様になっていないだろうか。
昔の大人は今の人より教育の理屈が分っていたわけではないが、大人はどこでも「よく学びよく遊べ」と口にし、子供は実際勉強はともかく遊びの(時間や場や友達)を持つことを保障された。
そこで子供は大人になる土台が作れた。昔も学校は勉強の土台は作っても人間の土台を作ってはいない。実際それで十分だった。
「時代が変わった」の言葉も聞くが、土台作りの場を奪ってよい時代はありえない。家庭が見失った物はあまりに大きい。それを家庭や親のせいにできない、どうにもならない現実があることも事実。政治だけの問題ではなく被害者と加害者がごっちゃになり、被害者が加害者を応援している姿が教育の場でもほかでも多すぎる。やっぱり読み書き以前の学力(成長発達上の)の欠如だ。まず大人がその学力をつけなければならない。周りを見る前に、自分や自分の子供を良く見ることだ。躾はその後でいい。自分の子育てと教師生活を終え、やっと気がつき言葉にできた。
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市場

昔は「いちば」の呼び方が一般的だった。今は「しじょう」が多いかもしれない。
どちらにせよ市場はどんな民族も古い古い歴史を持つ。それが人の人類の文明文化を発展させてきたことは確かだろう。
ところで今日(市場原理)の言葉で、経済だけでなく教育や医療をはじめほとんどどの分野でも、支配的な基準となり、家族や家庭生活にまで食い込みそれを左右する状態にまでなっているように見える。かつては自給自足の経済の原則もあった。
それはともかく経済活動の一つの方法であったものが、今は全てに支配的に機能している。これで不都合はないか。人の幸福は市場原理で全てカバーできるだろうか。答えは明確。全ての生物は市場原理では生きていないし生きていけない。
一般的に生物の子孫を残す本能的な営みも市場原理どころではなくほとんど競争原理も機能しない。競争よりは最適の原理が機能している。
便利な知恵であった市場も行き過ぎると人を不便で不幸にする。もうその限界のラインをはるかに越してはいないだろうか。子育てや教育にまで市場原理をどかどか乱暴に踏み込むのはやめてほしい。子供の悲鳴が聞こえないか。
ついでに、市場原理が機能するほど子孫を残す機能が落ち少子化している世界の現実を見たとき、日本だけではないが、少子化対策は二律津背反していて結果に出ないことが多い。これも知恵の使い方を誤ると無知になる例だ。

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ひと(他人)を守るか自分を守るか

人はぎりぎりの選択を迫られた時、他人を守るだろうか自分を守るだろうか。
「自分を守れない人間が、他人を守れるはずがない。」この言葉に説得力を感じる。献身とか自己犠牲という言葉もあるが、より大きな名誉なりなんなりとの引き換えではないだろうか。いろいろな場合があるから、一言では言えないだろう。
今日、教育が問題にされいろいろなところで語られ、行政的にも施策が講じられている。
国が教師の免許証を10年ごとに審査しなおすような計画を持っていることが昨日の新聞で報じられていた。
教師の指導力や資質向上のためだと言う。果たして結果は期待通りか正反対か
?。身近に引き寄せて考えてみたい。
現行法では、公務を司る公務員は一定の身分保障がなされている。それは民間企業も同様の保護規定がある。その保証がないと職務や仕事に打ち込めないからだ。消防士にしろ一線の警察官も同様だ。
人は仕事で生計を立て、家族を養い生活している。仕事を失すると家族もろとも食いぱぐれる。これはどんな職業もも同じだ。
私が言いたいのは、上記の施策で教師は職責である(子供を守る立場)に立つか、反対に(自分を守る立場)に立つか。これは教師個人の道義的な問題と言うより人間の性質や生活上の選択になるのではないか。それでも子供を守ると言える教師がいるだろうか。またそれを守れと誰が要求できるだろうか と思う。
あえてここで強調したいのは、これは先の仮定の問題ではなく、現在の現実の状況を見れば、結果は、はっきりしているいる と言うことだ。
今ですら、ほとんどの教師は自分個人の守りに入っている。物言わぬ教師になってしまっている。それを私は定年後も現場でつぶさに見てきた。本当のことは内でも外でもいわなくなっている。
教育上の実際の具体的な問題や情報は、保護者も行政に携わる人も、すでに知らされない状況になっている(一般的には気がつかないだけ)例えば、ほとんど社会現象として広く知られてる不登校、発達障害、学級崩壊、子供の崩れ等のの大きな課題も上司をはじめ、教育関係者やマスメディアからも納得できるような(原因)の説明を聞いたことがない。しかし現場ではそれなりの因果関係を考えていないと子供に対応できないので、それなりの教師は、それなりに背景や原因を分析して取り組んでいる。そのことを現場の教師が自ら発言しなかったり、上司が(行政や学校管理の責任を問われるので)外へ出ないよう、握りつぶしているのが現実だと思う。私は40年以上の教師生活でただの1度も原因を尋ねられたことがない。家族や親しい友達とインサイダー的に話すだけ。
行政も、教育問題を何とかしようと一生懸命考えてのことだろうし効果が0とまでは言わないが失うものが多すぎる。

上記の免許再審の方向違いの施策は教育上の子どもから発せられる、言葉や行動の信号の大切さを理解せず、無視しているところから出てくる発想だと思う。教育が大人の権威や社会関係でなされるのは歴史上は過去のものだし、教育原理に反するでしょう。対象の子どもがあって初めて教育という営みが始まることが分っていない。誤解しないでほしいのは、教師の質を問うなといっているのではない。私自身多くの失敗をしてきたし同僚にも人格的な資質や指導力に疑問を感じることも少なからずあった。本当に教師を子供を守り育てる仕事をさせたいなら守り育てる対象の子供や、最も子供のことを心配してる保護者に評価させることだ。教育の前提は指導者と指導される者との信頼関係にあるからだ。それは子供や、最も身近にそれを察知できる保護者ではないか。管理職が管理や評価を強めると生活のかかっている教師は必然的にそちらに顔を向け子供から目がそれる。管理職の受けと子供の信頼が一致しないことは誰でも経験済みのことではないか。勿論評価は簡単ではないが教育の関係を間違えなければ、技術的には方法はいくらでもある。今国が準備している内容は語弊はあるが一昔前の中小企業の人事管理や経営哲学ではないか。これで間に合わないことはかなり広く明らかになってきている。考えていることが正反対だ。教育界では使えなくなった古着を教育改革というのだからしょうがない。
石原都知事は「文科省は最も馬鹿な役所」と言っていたが,統計上は東京もそんな大きな口はきけないはず。現実抜きの何でもありがおおはやり。姉歯もアイフルも学校も。管理監督は誰がしているのか?
今日の学校現場は、上記のような〈物言わぬ教師)の域をはるかに超え、(物言えぬ教師)が大多数になっている。特に難しいと言われる採用試験をパスしてきた若い教師にその傾向が著しい。20歳代の途中退職者の多さに端的に現れています。採用を決める人たちの資質が問われているのは当然ですが、もっと心配なのは、団塊ジュニアの問題あるいは、壊された教育環境の中で育ってきた人たちが現場に教師として登場する時代になっているのです。われわれから言うと、羨ましいぐらいの若さや運動や、パソコンをはじめ技能的に優れている若い教師は多いし、まねできないような感性を兼ね備えた人もいます.「今の若い人は」といっぱ一からげにはいえませんが、
あくまでも傾向としてですが、人間関係や社会性という教師として何よりも大切な感覚がどうか?と疑問になる人たちが確実に増えているのです。社会的に言えば負の循環増殖が進んでいるようにさえ見えます。偉そうに言わせてもらうと物言えぬ教師をこえもの知らぬ(人として知らなければならない大切なことの意味)教師が増えているのです。それはおそらく、一般企業でも同様の傾向があると思います。
ちょとすると既に日本の労働力の質が問われ始めているのかもしれません。
とにかく社会全体が浮ついている今日、全ての分野で早急に基礎基本・原理原則にたちかえる必要があるだろうと考えている。


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右翼思想

右翼という言葉はよく耳にするが、まとまった思想的なものを勉強したことはない。
今朝の新聞報道では西欧でも右翼が台頭しているらしい。右翼の価値観にもいろいろあが排外的ナショナリズムが共通しているらしい。
国家主義、民族主義、日本では皇国史観などなのだろうか。学校の図書室で古事記の解説書を読んだり、知り合いにその関係の人がいて何度かお話を伺ったり、子供の頃神社が遊び場の中心で、神社の行事によく参加したり神主さんの詔もよく耳にした。はっきりはしないが民族共同体を価値観の中心に据えているのかなと想像しているが、純粋な形は知らない。2・26事件?や三島由紀夫のことを考えると、単純ではないだろうと思う。
右翼と言われる人たちは、今の世の中や政治をどう見ているのか関心はある。
今の日本を「右傾化」というジャーナリズムを目にするが、左からの表現だろう。何が右で何が左なのか基準は何か。
共同体的社会は都市化、国際化の中で隅々まで確実に変化している。世界共通の現象であり、先進国、とりわけ日本は経済発展と引き換えに破壊といっていいほど変化している。
自分の想像だが、今は右翼も左翼も関係なく、今の流れを〈果たして?)と実感しているのではないかと思う。
便宜的な表現は別にして、人の幸福や、自然に右・左はないだろう。
具体的にどう考えどう行動するかだけではないか。基準的には自然の法則や摂理に
合致しているかどうかではないかと考えている。どんな宗教の宗教的情緒も根っこはそこに在るのではないか。そんな宗教的情緒を持った人に宗教的情緒を語ってほしい。右翼思想も根っこの純粋さは同じではないだろうかと考えている。
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私の現実と夢

喘息でぜーぜーやってる年取った私の現実と夢。
朝起きて、まず風呂に入り、
午前はマネーゲーム(株)、午後は囲碁の陣取りゲーム。合間に心配なよその子に関わったり、こうしてブログを書く。そして風呂に入り早めに寝る。これが今の生活の節。
夢は、生まれ育った北海道に掘っ立て小屋でも持って、たまにはそこで寝泊りし、
懐かしいお祭りの神社にでも出かけてみたい。そして、気まぐれに、気の向いた外国へあちこち行って、アパートでも借り、旅行でない暮らしらしいことをしてみたい。
でも、お金がない。そう、心配は要らない、マネーゲーム(株)で儲ければいい。
そうすれば、自分の人生95点に4点上乗せできる。のこりの1点は、大事にしまっておき、あの世へおみやげに持っていこう。
これが今の現実と夢。
「いいことを思いついた。」と、朝、寝床で妻にしゃべる。
妻は「私にふるさとってあるかしら。しいて言えば茨城の渡良瀬川かな。」と心配そうに言う。「じゃ、そこに小屋でも立てたら」  妻「川べりだから青いテントになちゃうの?」と笑って起き出す。
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教育基本法国会論議

教育基本法特別委員会のテレビ放送を見た。
2時間近くたっぷり慎重審議?をしていた。
心と態度、教育格差、「愛する」と「大切にする」について、国の意味
一心に?審議されてる議員さんには悪いが質問する野党も、答弁する政府もやっぱり一風変わった茶番劇、国立国会劇場に見えた。それは教育を論じているのに、どの人からも、子供の実態と子供への愛着を全く感じることができないからだ。加えてどの人からも、父親や母親、そして家庭生活が感じられない。
それどころか、国の自然や伝統、地域や家族等をここまで壊した大人や政治の責任の言葉の一端も聞くことができなかった。これが国の最高機関の法律論議だ。
子供や家族の実際が念頭にないむなしい論議なのに、見ていると、それなりに
「どっちがいいか」の観点で見ている自分に気がつく。テレビは不思議だ。
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繰り返す事件

秋田県の小さな町で、2人小学生が殺された。またかと思う。日本のあちこちで驚くような殺人が繰り返され、どれぐらいたつだろう。当事者や周囲の驚きや悲しみをよそに、ほとんど年中、新聞テレビを賑わす。通学路の警備体制や、身を守る指導などとりあえず言い訳になるようなことははかなりやられているようだ。ところで、これらの事件の原因や背景を、人命を預かる、学校・警察・行政・メディアはどう考えているのだろうか。責任ある人の話を聞いたことがない。(私はもと教師だが)これでこういう事故が未然に防げるだろうかと疑問に思う。社会現象であろうが何であろうが、物事は原因をつきとめ、それを取り除かなければ解決しないことは分りきっている。またもワイドショウのネタになるだけ。話題は尽きないはずだ。
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足②

足(踵・足の裏)は足①以外にも意味が3つあると考えています。
1、身体生理的な意味
  足に意識を集中すると、そこは暖かくなり時には汗ばみます。これは太極拳な  どでも経験することです。
  脳波や皮膚反射電流の実験で好ましい方に変化する事を確認しました。
  (この実験は学生時代から始めたのですが、退職祝いに自分の褒美に安い脳波   計も買い何度も実験しました。予想通りの結果でした。)
 2、心理的・精神的な意味
   「自分は~と考える」という精神的な行為をする時、考える主体S(サブジ    ェクト)~と考えてる客体O(オブジェクト)があります。主客を離すこ    とにより、その行為がはっきりします。
   簡単に言うと、足をイメージのスクリーンのように使うのです。スクリーンをできるだけ離して見るのです。
   文字通り〈踵を以って思惟する)のです。そのほうが主客は混同しにくくな    ります。自動思考(雑念)と意識的思考の区別もつけやすくなります。精   神的に困難な状態になると、主客両方がが上方にのぼり、上半身に力が入り   首筋や肩が凝ることである程度自覚できます。そして普通は意識的・無意識   的にそれを解消しようとします。
3、運動に関わる意味
  足は姿勢の維持・歩行や走だけでなく、スキーやスケート、武道や踊りでも重  要なポイントになっています。テレビなどを見ていると、スポーツ選手は種目  や人種に関係なく足の裏の操作がしっかりして
   るように見えます。
  上記のような理由で、足は人とりわけ教育では重要なポイントではないかと考   えています。

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足①

私が授業中子供に注意する言葉は あ し  《足》が1番多かった。
両踵を床につけなさいという意味だ。
集中力の切れてるのは、顔よりはるかに早く、足に現れる。このブログを読んでいる人で、機会があったら確かめて見るといい。
集中力や疲れやほかの内面もかなり見えてくる。ヒントは禅の教えの「真人 踵を以って思惟す」の言葉である。全うな人は頭で考えるのではなく踵のところで考えるという意味だ。勿論、教示的な表現だとは思う。
北海道の馬追いが「あし あし」というのを思い出し、おかしいと思った事もあったが、たった2音節でかなりのメッセージが送れる。授業の雰囲気も壊さずに済むのでずいぶん使った。教え子と私だけの暗号だった。30の頃からはじめた。
足はもっと別の意味もあるので足②として書く。
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甘やかし

「昔の先生や親は厳しかった。時には手も出た。今の先生も親も甘い。だから子供が云々」どこででも聞く話だ.都知事は議会や著書でも得意げに話してる。
果たしてそうだろうか。
虐待は別にして、大人の体罰的なせっかんが子供にとって1番厳しいのだろうか。私はその考えが甘いと思う。子供にとって最もつらいのは、親の期待を裏切り、親を失望させ、自分が愛の対象にならないのではないかと言う精神的な危機感ではないかと思う。大人から見た厳しさと、子供にとっての厳しさは違うのではないか。
自分の経験でも、自分の娘や、500人を超える教え子を通して、確信に近いものがある。私は昔より今のほうが子供にとって遥かに厳しいだろうと思う。理由は3点。①子供にとって最も必要な3ま(間) 「 自然の空間、自分の自由なる時間、群れて遊べる仲間」が決定的に与えられていないこと。
②親や先生と気持ちを繋ぐ具体的な場面や時間が不足し、愛されているかかどうかの実感が持ちにくいこと。③教育への過剰な競争の導入で、大人(親や教師)の作った物差しで、いつも他人と比較競争をさせられ、安心できないこと。 
このように物心のついた頃からこれだけ必要なものが取り上げられ、追いまくられてどうして甘やかされてると言えるのか。大人の言い分はあまりに身勝手過ぎないだろうか。
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