世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
アー忙し77歳
この77歳
今日は白内障の検査 明日から3~4日 鳥取へ 遊び半分のお出かけ。
帰ってきたら 新しい遊びを考える。 予定は詰まってるなあ!
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老人の頭の中
人類が
「自然と人」の事実関係を「人と自然」の世界観に拠って行動していたのでは 行き詰まるのも自然の理だろう。
要するに人類は地上で「事実」に反した仮説実験をしているに等しい。
77歳の痴呆老人のチョウ大ぼらのようだが 自分の脳内でこんな反応をしていることだけは 事実。
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どっちが心配?
14万5000の不登校の子供達は 心配な子と言うより社会の異常さの気づきの早い子で、大人はしっかり向き合わなけれならないのではないだろうか。
生来の性質を無視され、これだけ負荷をかけられては 命を守るため 当然の行動をしているのではないだろうか。
社会の異常さを感じない子供や大人を心配した方が良いかもしれない。
大人は負荷のかけ過ぎが健康を損ね命を危ぶめるのを 忘れていないだろうか。
負荷のかけ過ぎによる心身の具体的な変化に関心があり 勉強しているところ。
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喪失した身体感覚
今の日経平均の動きを見ていると 時代の転換に適応できないで苦しんでいる 進行したドランカーのようだ。
もう少し情報が天下に明らかになれば 手も打てるだろうに。
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時代転換スケール
(時代の変わり目とか転換期)の声をかなり耳にするようになった。
近代思想の台頭や産業革命以来の転換だろうと考えて来たが (大袈裟な言い方になるが)有史来と言えないか。
地球の温暖化や世界経済の縮小も相まって 「人と自然」から「自然と人」へと知識を認識へと変え それを思考や行動の原理に据えなくてはならない。
そんな 時代への転換期ではないだろうか。
今はグローバリズムの変化に戸惑い行きつ戻りつしているようだが そんなレベルではことは済まないだろう。
年表の上でも特筆されそうな人類史的な転換期かもしれない。
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手放せない弱肉強食
人同士の弱肉強食の世界にあってはヘイトクライムは ある意味で世界の日常的現象だろう。
弱肉強食の仕組みを改善することなしに この種の犯罪はなくならないだろう。
これは 再生産する仕組みが稼働していることを意味しているが 弱肉強食を手放せないのは何故だろう?
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バーチャル化している世界
人々ははバブル化した経済社会で生活し 経済が行き詰まっても財政を拡大したり 縮小したりして凌ごうとしている。
世界全体がバーチャル化しているからか どこもかしこも子供から年寄りまでが うつむいてはバーチャルの箱に見入るのは ある意味自然。
産業構造の行き詰まりを バブルに出口を求めても無理な話で 産業構造を転換すれば良いだけなのだが…
経済とお金を勘違いしていては 答は得られない。
「自然と人」を「人と自然」に勘違いしているのと通じてる。大元の勘違いは 万事に及ぶ。
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焦点は内面の自然現象
自然災害や他にも自然と係る色んなことが起きているのに「自然」を語る人はあまりいない。
心の自然を語るの人はさらに少ない。
「地球」や「世界」の言葉が急速に増えて来たように 「自然」 この言葉も増えるだろう。
焦点になる 内面的 心理的な自然が どのように登場し用いられるようになるか 楽しみである。
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ドジラとの付き合い
子供のころ ドジラの怪獣が体に住みつた
気づいたら 探検や新しい物作りの衝動に駆られてる
昔はモーターボート 幻灯機 測量の道具 体の記憶力検査 脳波 そして今は体温
あと4年ぐらいの命かと思ってたら 不登校の数が増えたらしいから もう少し延長しなきゃならないようだ。
ドジラとの付き合いは面白い。
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不明な公や有識者
地震や異常気象や猛暑ばかりでなく 安全保障 難民や紛争 貧困等 社会問題として取り上げられるものも
根底に人の内外にある(自然)が関与している。
しかし、内外の自然を背景にした論評を公や有識者から 目にすることはほとんどない。
人の内外にある自然を除いて この世に解決できるものがあるんだろうか?
自己中心的な人の営みに限界があるのは自然が出した答えだろう。
哲学めいた話になったが 「幼児の哲学」を考えると
権威や商業主義にまみれた公や有識者に下駄を預けっ放しにせず
市井の一人一人が幼児に倣って哲学しなければならない時代に入っているんだろう と思う。
自然の中でも内なる自然の気付きが 最も遅くなりそう。今は 憲法改正どころの段階ではない。
良心や常識の大切さを憲法に書けるだろうか?書いてどうなるのか?
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