津波に向かって走る群衆と竹やり

 

    津波の警報が出たら、急いで高い所に逃げることが最も大事だと言う。

    今、人類がやっていることの私の心象風景は 津波警報が出ているのに競い争いながら われ先へと海へ向かって走る人の群である。

     しかも、人間によって引き起こされた津波に向かって。

     今日も、そんな地上の風景の中に世界や国内の出来事や旗を振って誘導する人間を置いて全体を眺めながら考えていた。

      大きな津波に軍隊を用意する様は 先の大戦でB29に立ち向かう竹やり訓練を思い出す。

    

      

    

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逆行

 70億の人間は多様な形で存在するが、全体的に見ると、人類も生物だから経済(食料の獲得)を中心に活動せざるをえない。

 多くの国は経済を優先して統治してているが、中には食糧より武器を優先して統治している国もある。

  欧米先進国は、ほぼ人類の原則に即して進行しているが、一部の(後進国)は原則を外した統治が行われているようだ。

   今の日本の動きは 世界的に見ると、微妙。

  

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現代の時代劇

  

    国家と国家が宣戦布告して武力をもって戦うのを(戦争)だとすると、戦後約70年地上で戦争は あったろうか?  武力紛争は国家権力と集団との間やそこに他国が介入する形ではなかったろうか。

   (戦争)も他の社会的事象と同様にその形が変わるのは当然だが、最終的に命や財産を脅かすものは個人から見ると多様を極め、戦争や地域紛争どころではではないかもしれない。

  むしろ、武力紛争以外の経済や病気 そして社会生活によって生ずるリスク等の危険が他国からの武力攻撃以上なのは世界のどの国家も同じではないか。 

 例えば心ならずもの不幸な自死は年間約3万人、日々7~80人、過去10年間で30万人を優に越えている現状。

 生命の安全を考え、まず優先すするのは 敵国を想定して武力を整えることだろうか。

  日本のシナリオが現代における時代劇のようで情緒的ではあるが合理性は どうだろう?

 

    

     

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迷わせる学者

 

太陽が東から出て西へ沈んでいくのを(地動説)が正しいからと言って、太陽を固定し自分たちが回っているように認識するのは難しい。

  視点や視座は変えよと思って簡単に変えられるものではない。 教わったからと言ってすぐ自転車に乗れなかったり泳げないのと似ている。

   人間中心に流されている情報を、世界や地球を中心に出来事を理解するには練習と慣れが必要で、行き詰まった時代の転換と言えども、相当の努力と時間を要するだろうと思う。

    視座・視点の変更を先導を担うのは 一般的には(学者)の役割だろうが、実際は 多くの学者は自らが古い視点から抜け出せず、結果として転換を拒む役を果たしている。

  もともと、視点の変更の特別な先導役など無いのに主体的に考えることを補記し権威にすがって良しと、錯覚しているのかもしれない。

 昔から「専門家」とか「先生」と揶揄気味に用いられるのには それなりの理由があるにちがいない。

その事を無視して権威の道具として利用し、またその事を自覚しない「先生」たちが社会を行き詰まらせ迷わせてはいるような気がしてならない。

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だまし絵

 

    
  アベノミクスで景気が回復していることから、「アラブの春」や「テロとの戦い」もどこかおかしい。
  
          マスコミの情報に浸っていると、日本も世界も(だまし絵)を見ているような気になってくる。

      1可憐な少女の絵の視点を変えると、魔法使いのおばあさんにも見えてくるだまし絵。

       私たちの物欲と我欲を手玉にとられ、面白可笑しい絵を見せられているような気がしてならない。

       少女のだまし絵は視点を顔からネックレスに変えるとおばあさんに代わるが、この世のだまし絵は、我欲の自分から存在と生命の根源である地球に視点を移すと全く別の絵が見えて来るから面白い。

       年寄りはまだしも、子どもや若者は それを見抜いて欲しいのだが、スマホに頭を突っ込んでいるようだから、視点を地球に移すのは 尚更難しいかもしれない。

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同情

 

    心に深く傷を負った人と育ちが良すぎる人は 外見上の行動は正反対に見えるが、人として自然な感覚を持てず苦労する点は共通していないだろうか。

 特に後者の 権威ある立場にある場合、周囲は物を申さないから、本人は心から良かれと思い取り巻きに順じ、素直に行動する。

犯罪と同様、行動の結果が 思いと一致しなくも 元々感覚がなく周囲は物申さないから調整出来ない。

  それでも、しばらくは通るものだが、持続は難しい。 リーダーは 己を知りよっぽど心しないと、本人は苦労するが、周りは迷惑する。

  オリンピックの選手もリーダーも最後は自分との戦いで孤独に耐えられるかが問われているかもしれない。

 

  

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理に敵わない道

 

  宮沢賢治は 「世界の幸福無しに個人の幸せは無い」 のような意味の言葉を残していた。確かにそうだろうと思う。

  一体、世界はその方に向かっているだろうか?   

     他人を蹴落とし弱小国から収奪して豊かさを求めていないだろうか。

   私たちは、世界Ⅰの借金をしながら「世界Ⅰのオリンピック」や「世界Ⅰの大都市 東京」を目指している。

    

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内向きでは見えない国家の体制

   

     国家体制とは常に世界や地球の変化に遅れて作られるものなのか。

    ここまで世界が行き詰まっているところを見ると、どの国も体制が間に合わないのだろう。

    それでもEUをはじめ欧米は軍事優先の国家体制から経済優先の国家体制に変えようとする意図が伺える一方、中東やアフリカ・アジア・南米などの後進国の一部ではテロや内戦などを理由に軍事を優先した国家体制をしいている。

     日本は近隣の軍事的脅威を理由に軍事態勢を強めているが(先進国)の大きな括りの中では逆行の感がしなくもない。

    内向きではなく、地球や世界的規模から日本の軍事を強化した体制作りは先進国にあっては特異に見えるかもしれない。

経済戦争下にある国家はかつてのように武力を経済戦争の具とする考えは全体的には後退しているようだ。

 武力戦争を中心に経済を口実に(戦争と平和)を語る時代ではなく、経済を安全保障の背景にしっかり据えて(戦争と平和)を論ずる時代になってはいないか。

 

 

  

    

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先ずは自分

 

    世界ばかりでなく自然界の変化も速くて 著しい。

    変化をもたらす 私たち人間自身が 着いて行けないでいるようだ。

    リードすべき各界のリーダーたちも同じようで 誰のせいにもできないから 一人一人が事実を確認しながら価値を探し 見出す以外に             ないだろう。 

     先ずは 自分。  そうしないと親に申し訳なくなる

 

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  違ってる

 

  選挙公報は どの政党も候補者も 良い事ばっかり書いてあるから、どの政党が勝ち誰が当選しても 世の中は素晴らしく良くなるはずだが、現実は困難に満ち先行きには危機感すら漂う。 

  何を目的に選挙してるのだろう?  選挙する国もしない国も大して変わらないように見える。要するに言葉が役を果たさなくなっている。 言葉はロゴス(理性)の意味を持ち、聖書だと(愛)の意味を持つ。

 

   

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