世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
地球の最終的な姿
現在の産業構造は地球を掘り返し焼き尽くすことによって成り立っていると言える。
地球の外から資源を持ち帰り産業に組み込めない以上最終的には現代のやり方を変えない限り産業・経済は成り立たず、行き詰まる。最終的には自給自足そして自然を含めた共生しかない。その形は固定的なものではなく、発展し変化していくに違いない。
勿論、かつての原始的な自給自足の形を言っているのではない。地球的で人類的な文化的・科学的価値価値をもった自給自足・共生のスタイルある。
現在の政治経済・文化はその意図とは関係なく時間的にはそれに向かう途中の過程にある。
昨夜、総裁選が終わり今後の政治への期待がNHKで学識経験者(学者と作家)によって論じられていた。落ち着いた雰囲気で、「知性」「人間復興」「共同体の復活」等の識者の期待の言葉はに大いに共感した。しかし抽象的でその中身がはっきりしないうらみを感じた。発想が現代文明に軸足をおき、抜け出せない曖昧さを感じた。
私は以前から、上記の(自給自足・共生)が必然的だと考えている。
識者の目指す言葉のイメージに(自給自足・共生)が描かれていることを期待したい。
ただ、(共生)は今回の総裁選でお福田氏もキーワードとして用いていたが、従来の政策により生じた格差の(つぎはぎ)のような内向きな意味で用いられているようだった。そうではなく本来的な地球的・人類的な自給自足の姿を遠くに見ながら現在の状況を見て分析し、当面の対策や中長期で政治経済文化を展望したら、政策や政策順位がよりはっきりするだろうと思う。
これは私の見当違いの勝手な思い込みかもしれないが、私のような輩(やから)が、こんな事を口にしなくてはならない時代いになったと言うことかもしれない。
上記の世界観が脳裏に少しでも描いてのの話なら、総理であれ誰でれ、言うことない。いつかそんな人と出会えたら想像は広がり話が盛り上がるだろうなー。
補足 少なくても日本の産業構造は第1次~第2次~第3次さらに金融(産業)へと中心が変わってきた。
これは持続するはずはなく、結局は逆向きに第1次産業の発展へ向け
他の産業の力を用いて押し上げるような構造にならざるを得ないだろう。しかもこれは、世界的・地球的なな規模で展開されるだろうと思う。
自給自足・共生の時代になれば小競り合いぐらいはあるだろだろうけど、勝っても負けても、仕組みが壊れるから戦争のメリットがなくなる。逆に今は、戦争どころでないもっと不幸な現実が隠れて広がっている。そもそも、アメリカの兵士の多くが貧しさを抜け出す手段に戦地に赴いているし、日本も毎日90人から自殺、孤老死の数々。これに類したものは内外に沢山ある。これらは【国のため】の大義名分どころか、【汚名】すら浴びせられかねない。現状戦争放棄どころではないものも沢山蔓延っている。
我々の立っている根底の状況は見えにくいかもしれなが、本来からずれたところで困難を噴きだしている。
「希望と安心な国づくり」を看板にし実直そうな新総理。3ヶ月前に「美しい星50」で真面目そうな安倍前首相にエールを送ったばかりなので、今は複雑な気持ちではあるが、
とりあえず、福田総理 ガンバレ!
「希望と安心」「共生」から目を離すな!
運動会でのある風景
どこの運動会でもだいたい競争はつきものだ。断トツ遅れて走ってくる子を良く見かける。殆ど笑い顔である。マイクで「ガンバレ」の声がかかり本部席を中心には拍手が起きる。教員になって始めのころはそれほど不思議に思わなかった。10年ぐらいしてから違和感を感じるようになり、今は教員や周りの親達の無神経さを感じて見たくない場面になっている。アレは競争になっていない。競争は競い合うものであそこには競い合いはない。ゴールに入る子供の顔を崩した笑いにも似た顔は本当に笑い顔だろうか。もてあました顔ではないか。それに拍手を送る。拍手の意味は?走っている子にその拍手はどんなに聞こえるだろう?私ならたまらない。昨日近所の中学校の運動会を見に行った。 1年生全員の学級対抗リレーがあった。その中に(5組)言う障害児学級が1学級として参加していた。リレーが始まって間もなく驚いた。普通学級はスタート意外オープンコースなのに障害児学級だけは最後まで1番外側の第5コースのセパレートコースを走っている。バトンタッチゾーンは普通学級の子はとっくに去っているので1コースにつめるのが普通だが、最後まで第5コースで待ち第5コースを走る。そばには先生方もいるテントには学校長や来賓もぞろり。誰もないも言わない。何故身障学級だけ第5コースを走らせるのか?グランド1周で1コースとは30メ^ーター以上多く走らなければならない。それでなくても総力の著しく落ちる学級の子にこの距離のハンデはなんだ?と驚いた。さらに普通学級の最終ランナーがゴールしたらそれまで第5コースで待っていた生徒は先生と一緒に走ることなく引き上げていった。テント下のの学校長に聞くと「安全を考えてのこと」と承知しているようだった。学級の主任に聞くと、校長同様「安全上の配慮」であり、学級の人数も異なることもあってグランドを回る回数も同じでなく、普通学級のゴールに合わせて走るのをやめるとの事だった。私はこのリレーのやり方が障害児学級の子供たちにどんな思いを持たせただろうと自分の教師経験を通してたまらないものを感じた。学校長も身障学級のの先生達も教育的な配慮だと考えていると言う。自分の教育的配慮と正反対である。単に見方の違いとして、このままでいいだろうか?私の違和感の中身を見ると、 ①一つの勝敗を決める競技に、勝敗を抜きに競技に参加させるという基本的に対等でないお客さん扱いがいいのか ②もしここまで基本的なところまで参加の仕方が異なるなら、この種目がこの学級に合っているかどうかその段階の問題ではないか。 ③この特別扱いは、学級の子供たちや周りの子供や大人達に(思いやり)として映るか、(あんな子もおりあんな学級もある)と言う印象を発信しないだろうか。 ④仮にあのような参加に意味があると考えていたなら、競技前にそのことを説明し、配慮の中身や競技の視点を観客始め生徒達にもしっかり伝えなくていいのか。 (私ならこんな子供を惨めにし観客に間違った印象を与える恐れのあるこの種目を選ばなかったろうと思う)それでもは知らせなければならないのなら、事前に説明をした後、第1コースを確保し走らせる。私は小学校の障害児学級を長年経験したがオープンコースで唯の一度も安全上問題になったことはない。それでもどうしてもやらなければならないのなら練習時の平均タイムや学級の人数ででグラウンドを回る回数や走る距離を調整することは事前に説明し基本的に競技参加させるだろうと思う。こんなやり方は見たことも聞いたこともない。こういう場合、学級の子供やその保護者は不満をいえないのが普通。
普通の良心的な教師の感覚を維持するのが困難な時代が既にかなり進行しているようだ。昨日見たものは、いい先生もそれを維持するのが難しい時代になったことを意味しているんだろうと思う。