余計な心配

前記の「ズボラとハッタリ」に通ずるが

    学級を構成している子供たちを理解することなしに彼らの発信する信号は認識できない。

     学級がまとまって何かをしようとすると必ずそれを妨げようとする子どもが出てくる。(ある意味で当然なことでもある)

     その子供たちを抜きに学級を理解することは出来ないしあり得ない。

    仮に( 問題行動)であっても、その子供にとっては必然性のあることが分かったところで 初めてその子供を理解したことになり そこから担任の仕事は始まる。

    世界を一つの学級と見た場合、国外の出来事や問題も同様で、当方には不都合でも それなりの因果と必然性をもっていることを少なくても情報を伝えることを目的とした情報機関は仕事として認識すべきではないか。現在そうなっているだろうか。 

 それどころか一方的に描き さらに表現する言葉の語感で是非善悪を決めつけ強いるようなことはないだろうか。

  一つの学級と世界が同じで無いことは分かっているが、無関係でもない筈だから 余計心配になる。 (是非 余計な心配であってほしい。)

   

    

  

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  ズボラとハッタリ

個人も社会も空間意識の拡大は難しい。それは科学的な知識の獲得とは必ずしも繋がらないからである。

世界のグローバル化は日進月歩だが、人間の意識は それに伴っていないのではないか。

 人々が得る社会的な情報の多くは テレビ新聞だが、そのほとんどは 国内が中心であり、国外の報道は国益を中心に 国内向けて報道されるものが多い。

  国内のスポンサーの力により国内の読者や視聴者に情報を提供を生業としている情報機関だから当然とも言える。

ただ、いかなる国や国民も世界のグローバル化の中にあってはそこで生きていく為にグローバル(ユニバーサル)な空間意識が求められてはいるはずである。

世界の行き詰まりは内向きな狭い空間意識と現実との間に生じた認識や意識の乖離が原因しているように思われてならない。

「海外ニュース」 この言葉一つとっても これは日本のように島国でなければ意味を為さず、多くの国は「国外ニュース」と表現するだろう。

海外ニュースの多くは欧米と近隣国で 日本の視点で伝えられる。

 学級担任の最大の仕事は学級集団を掌握することだが、それは子どもから発する一見目につかない細かな信号(動き)を察知しそれに対処することだろう。

 学級崩壊はこの仕事に後れを取った学級の状態のことだと思う。

  世界に伍して日本が生き発展するするには、現在の情報の発信の仕方は真逆に近く、地上で最も困難な国や人々に目を向けるべきではないか。昔から言う「明日は我が身」の姿勢ぐらいは持ちたい。

   南半球などの飢餓難民や太平洋ど真ん中で海に沈み込んでいるツバルなど、これに反応できずに世界の平和や安全など有り得ず、日本の情報発信は信号無視する 学級担任にダブって見える。 学級担任はズボラとハッタリでは務まらない。

   

 

 

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