データーが取り難い

希望と不安を抱き緊張して始まった小学一年生も一か月近くになる。

 果たして今 どんな具合で登校しているだろうか?

  子供たちの気持ちや動きはどう変化しているか知りたいがその術が分からない。

   安全委協力しながら 登下校の姿から 察する以外に浮かばない。

   データーが取り難い。

  

  

 

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カリキュラムにおける個体側からの情報

 

 

 公的教育では 個体との関係でカリキュラムのどこにどう無理がありどうしたらよいかは 常に検証の対象にしておくもの。

  永らく 社会的要請でカリキュラムが編成されてきたが 弊害が露わになっている今日 個体側からの情報が加味される必要があるが その兆しもない、

  

 

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絶対視するカリキュラム

  人は 普遍的に幸福を求める生き物ではないだろうか。

 日本の憲法で言えば 幸福は 25条の「健康で文化的な生活を営む権利」が当たるかもしれない。

  学校教育のカリキュラムが発達段階に即さず 健康や子供の文化を脅かしている可能性は無いだろうか。

 不登校や発達障害の増加は 個体の問題なのかカリキュラムの問題なのかを 何所で誰がどう判別してるんだろう。

 カリキュラムの問題とする議論の無いことが逆に検証を棚上げしてることの証ではないか。

 

   

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発達段階とカリキュラムの検証

 

幼児の統合的な動きに対し小学一年のカリキュラムは感覚の分化をも求めているが無理はないだろうか?(小学一年問題)

 発達段階に即してるかどうかの検証が必要だろうが 社会的な持ち場が思い当たらない。

 かつて学校現場では担当者の裁量の幅もあったが それも難しくなっている現在は

 検証する仕組みが必要。

 

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