世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
忘れかけてる
こっちは、動物に荒らされないように周囲にネットを巡らせジャガイモを植えても翌日にはちゃんと掘り返され
植えた種イモまで食べられている。おまけに動物が尻尾を引きずったような跡が太く長く続いている。
近所の農家へ行ってみると、ネットもかけていないのに、青々としたジャガイモが畝に揃って勢いよく伸びている。
この違いは何だろう?
朝飯前の一仕事をしたり、手際よい畑の手入れ、あいだに、お茶を楽しむ百姓さんたち。
東京ではそこでとれた野菜がスーパーに並んでる。
何か大事なものを忘れかけているようでならない。
(急に思いついたのだが)前ページの金融緩和は経済の畑の麻薬になる薬草で、お百姓さんなら早いうちに間引くか草取りをしていたかもしれない。
いい顔ばかりもしてられまい!
我々は企業に寄りかかっているわけだし、それに従う政治やマスコミ、その下で栄える文化‥等、色々問題はあっても「悪」とは決めつけられないが、その企業を中心とした私たちの経済が(金融緩和)と言う麻薬にも似た薬で稼ぐ財貨によって生き延びていると言ったら、言い過ぎだろうか?
100年に1度とも言われたリーマンショックから4年弱たった今、「ユーロの金融危機」などと言いながら、昨日は中国が この後ヨーッロッパは勿論アメリカや日本も金融緩和が世界の市場から催促されている。
経済の【禁じ手】などは過去のこと、投薬の量や回数は増すばかりで麻薬の常習者にも似ている。
おそらく、今回も残された体力で世界的金融緩和でしのぐのだろうが、壊しかけてる地球とこの経済を (どの顔して)
子供たちに残せばいいのだろう?
根っこは同じ
今世界は、競って地球を壊し富を持ち出しているようなもので、続けられないことを分かりながら止められないでいるもようなものだから、いつ・どこで何が起きても可笑しくない。
世界のあちこちで、安全や平和が脅かされていることが連日報道されるが、出来事の一つ一つは別々に見えても、根源は共通したものを秘めているように感じる。
そういう意味で、どの出来事も世界のだれもが無関係ではない。
一般的に言えば、望みとは反対の弱いところに 加えて個別条件の違いによって 脅かされる出来事の現れ方が違うだけではないか?
手っ取り早い自分の立場を棚上げしたような批判や論評から解決を期待するのは難しいと思う。
身辺の問題は勿論、それが国際・国内問題であろうと、ことは同じかもしれない。
「ここまで来たか」
消費税を上げてその中から「保育改革」をすると言う。
保育の市場化は 自民党の小泉純一郎内閣で始まったが、民主党 野田政権の新システムはそれ以上に規制緩和し企業の参入を図る案になっている。
教育の産業化に加え保育までもが産業化される。
ついに人間も「ブロイラー化」か?
世界的にも効率最優先の突出したこの形態も、[成長戦略」や「産業構造の転換」の中で言われることが多いが少なくても私が考えてる『産業構造の転換』とは方向が全く逆になっている。
親や子供がこんなことを望むはずもなく、企業の要請に答える政治も「ここまで来たか…」 の観。
こんなことをしていると色んな意味で「壊れるのは速い」が道理。
「今はむかし…」
どんなに貧しくどんなに不便しても何とかなるが、子供が病気した時だけはそんなわけにはいかない。
子供の命や安全が何にもましてだいじで、それを脅かすものを恐れる感情は」国や立場を越えた本能に近い心だとは思うが、現代社会はそれとはかけ離れた方向へと進んでいる。
原発同様、何時か神話かおとぎ話のように語られることになるのだろうけど、道草喰ってずいぶん遠回りすることになるから、心構えと準備だけは しておこう。
(いつのまにかあの世から戻ってきたかのような書きっぷりで可笑しい)
子供は何て答える?
首相が唯一消費増税に(政治)生命を懸けると宣言したような国だからなのか、日本全体が【消費増税】が最優先課題になってしまったようだ。
原発の対処が急がれてる時、自分たちの経済でなく子供たちの将来の命や安全を考えたら、政治生命のかけるところが違っていないか?
現代文明
ちょっと街へ出ると、やたらに大きな看板と旗、電車に乗っても降りてもポスターが続き、夜にもなると電飾が点滅し、加えて一際大きい音響と呼び込みの声。
新聞は本紙より折り込み広告が厚く、本紙も広告でいっぱい。テレビは番組の始めであろうと途中あろうとコマーシャルは遠慮はしてくれない。
国会中継もヤジを背景にド派手なネクタイが登場する。
どこも宣伝やコマーシャルでいっぱいだ。
何とか売り込みたいから宣伝するのだとは分かっていても、残念ながら目や耳から入る刺激は避けられず、否が応でも影響される。人の家まで侵入するのだからたまらない。だからと言って遮断する事も出来ない。
この間長野の田舎で昔ながらの朝市のような【市】をやっていた。
植木や小道具・古本・人形やおもちゃなど土地の人が持ち寄ったお店が3~40懸件並んでいた。
子供のころ使っていたランプや古時計・古銭などもあって、しゃがみこんで眺めていたけど、店番する人はただいつものように座っている。
それがなんとも気持ちよく、昔お祭りのお店を見て歩いていたのを思いだし楽しい時間が過ごせた。
東京に来てからは、よっぽど欲しいものが無いかぎり家族に誘われても買い物には行かないことにしていたのだが、その原因が分かった気がした。
現代社会のこの文明のお風呂に頭のてっぺんまで漬かって生きている気がする。
人権とか民主主義の看板で、逆に現代社会は個を見失い個の確立が難しくし、私たちはいつの間にかがんじがらめになっているのだろう。
そうでなければ、子供にも分かる将来を危険さらすようなバカげたことを、大の大人が大真面目にやるはずがない。
かいま見せてる支配構造
昨夜は、経団連会長から、今朝はホワイトハウスから励ましとも脅しとも取れるメッセージをメディアは流した。消費増税と原発推進はゴタゴタして見せながら、要請された通り目的を果すにちがいない。要請したところとそれを受けて動いたところの関係がメディアを含め又も見せられた。
かいま見せてる支配構造
昨夜は、経団連会長から、今朝はホワイトハウスから励ましとも脅しとも取れるメッセージをメディアは流した。消費増税と原発推進はゴタゴタして見せながら、要請された通り目的を果すにちがいない。要請したところとそれを受けて動いたところの関係がメディアを含め又も見せられた。
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