世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
空回議り論が国会の作法なのか
安保法制で 高まっているようだが 与野党とも 観念的な論議になっているようだ。
「脅威」を言うばかりで、詳しい現状やそうなった経過や背景を聞いたことがない。
脅威の現状の程度によって対策を立てるのが順序ではないか。
大事なことを空回りの議論で答えを出そうとしている。
戦の原因が分からない
ISが 自爆テロまでして戦う動機が分からない。
報道されるのは 衝突の場面だけで 国際的な機構やジャーナリストの取材もあるだろうに 原因や理由は 全く知らされない。そんな戦いってどこかおかしくないか。
我々は一方の言い分だけ聞いて 一方に組している。
現実を語れ!
安全保障法案が 立憲主義下の憲法論議になっている感がある。
どうして 中国脅威論や道徳的な平和論を繰り返すばかりで 目の前の国民の現実の安全保障を語らないのか?
与野党とも 今の日本が「平和だ」と 考えているかのようだ。 子供たちに聞いてみるが良い。
現実の脅威は何か
首相も政府も「良かれ」と考えて一生懸命やっているのだとは思う。
しかし ずれていたのでは やればやるほど 逆の結果が出てくる。 今は そんな状態だろうか。
一人一人の国民からすれば 差し当たって命や財産が危うくされているのは 周辺国ではなく 自国の国家権力による政府であることは 世界や歴史を見ると 珍しくない。非難合戦ではないしっかりした議論による (現実の脅威)の検証が 求められる。
立場の自覚
~たら ~れば の安全保障の前に どうして 目の前にある 国民の生命や財産に目を向けて それを守らないのか?
国内の不慮の死は 自殺を含め 年間 7~8万人にはなるだろうし、財産の流出は 借金と円安を取っただけでも 日々 計り知れない。
国民あっての国家だとしたら 経済も安全保障や平和も 国民の立場からの分析が必要だが 政府も財界も有識者もマスコミも 視点のずれていることが多い。 肝心の国民も それに合わせるから 混乱や崩れは 増幅される。
詐欺は良くないが やすやす騙される被害者にも責任の一端はある。 建前から言えば むしろ責任は一人一人の国民にある。
世界的に見た 日本の情報処理能力
70年前の日本の敗戦は 日本の情報処理能力の不足が関係していたようだが、今も大して変わっていないように見える。
島国の伝統的な権威主義が 阻害しているのだろうか。
自分への応援
(裸の王様)は 私の好きな紙芝居の一つだった。
偉い人も町の人も言えない「王様は 裸だ。」と言った子供に 「いいぞ !」と
応援したかった。
今は 73歳のおじいさんだが あの時の気持ちは変わらない。
偉そうに思われても大げさに聞こえても (気にしながらではあるが…)思いっきり 吐き出すように 言葉にしよう。そうしないと自分でなくなる その方が辛い。
一般化し難い認識
全ての物事は心も含め (その外から見ると) 物理で言う 慣性の法則が働いて動いているのではないか。
それは 例え株価であっても「トレンド」と言われるように 例外ではなく 事物の変化の認識の仕組みのように思われる。
慣性で動くなら 停車している電車に乗るより走っている電車に飛び乗る方が
目的地に着くのが速いのが理屈だが 現実はそうは行かない。
慣性の法則から言うと政治問題も同じだが 日本は 乗り遅れるリスクより 衝突のリスクを心配した方が良い と思う。 認識は 見ている位置によるから 共有や一般化は思いのほかむずかしい 。
しかし 認識の法則は 無視出来ず、事物はその方向で変化する。
互いの位置を確認しないままの議論は 国会も巷も夫婦や親子であっても 議論そのものが ほとんど意味を持たない。
病識
あまりにも多いスマートフォンに打ち込むようすは 依存症ともいわれるが 社会の病理的な結果として現れた現象ではないか。
社会病理的な行動がいろんな分野で拡大しているように見える。
ところで 「社会的病理現象」だとすると その責任は? 治す人は?
やっかいなのは 本人も周囲も病識(病気の認識)が無いから難しい。
ある意味で 細菌やサーズなどのウイルスより怖い。
« 前ページ | 次ページ » |