世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
美や癒しの由縁
癒しの対象に自然が取り上げられることが多いが 自然はそれ以上に物事の存否に関わる基である。
そのことを忘れたかのような世相の薄っぺらさを感じながら 自然とグローバル化を見ながら関わりたい。
即戦力の弊害
今日は 公園の砂場で遊ぶ親子連れを見ながら 日本の教育は基本的な間違いは別にして 心身の健康を損ね小型の人間を育てる傾向が強いのではないだろうか? と考えていた。
発達段階を軽視して 型にはめ 社会的な価値の注入を急ぎ過ぎていると思う。
そんなに急いでどこへ行く? だが これでは グローバル化している世界に付いて行くのが ますます難しくなる。
ほどほどが良い
世界的に大きな時代の転換期にあって「令和」の改元の説明は 仕舞い込んだ良き時代のものを持ち出したが それに新たな時代の価値や発想を感じさせるものではなかった。
逆に旧時代を引きずるかのような印象が強かった。
むしろ淡々と改元名を述べた方が 希望が広がったのではないだろうか。
時代や言葉のセンスが良いとは思えなかった。力の入れ過ぎが 政治的意図を印象付けた。
情報の細切れ化
近頃 社会的情報の長短を感じる。
効き目の長い情報と短い情報
広い範囲で有効な情報と 特定の狭い範囲でしか機能しない限定的情報
全体的に情報が細切れ化しているようだ
こま切れ肉と同様 情報の正体が分かり難い
情報を取り違え 無駄な努力で被害や犠牲を生む
世の中は 人工的な情報ばかりではないから 良いようなものの
やることの意味と限界
物事は成るようになるものだが
幸福への無理・無駄・犠牲は 成るべく少ない方が良い。
せいぜい それが人のできることではないだろうか。
試行錯誤が避けられない 私たち。
小学1年生
もしかしたら 小学校の入学式は 子供の競争社会へ組み込まれる社会的な式典かもしれない。
今の競争社会が全うであれば良いのだが 現状は 「持続不可能」とも言われてる。
義務に着く「小学1年生」を改めて 観(診)てみたい。
何かが違う
一石一草木は 勝ち残っているのではなく 存在を全うしているだけだから
弱肉強食の競争社会と言えど
人は 勝利することではなく 全うすることではないだろうか。
見事に全うする以上に何をするのか。
内外のニュースを見ていると 何かが違う。
「勝つ」意味を今一度考えたい。
疑ってる人の教育研究会
教育のことをあれこれ考えているとつい ふと「教育を疑っている人の教育研究会」の看板が頭に浮かんだ。
一般的に教育は 公が司るものとして無謬主義が支配的になる傾向がある。
子育てにしろ教育にしろ絶対的なものはなく ある意味で理想を追う営みなのだが ほかの活動のように検証されない傾向がある。
学問上は間違いなく人文科学であって 検証を必要とする分野にある。
だから 上記の看板は公への態度とは関係ない基本的なポジションであって
そんな看板の研究会があったら参加してみたい。
「教育」や「躾」のリスク
個の生体は未分化から分化へ順調に成長・発達もするが 時に偏ったり分解したかのような統制やバランスを欠く。
ヒトの生活習慣病や成人病は それに匹敵するかもしれない。
幼児が学校の仕組みやカリキュラムに「教育」や「躾」の名で組み込まれる時、成長発達上のリスクを伴うのは自然ではないか。
そのことを 公や世間は 考えているだろうか?
経験や論理を実証する難しさ
人類にとって言葉は重要な道具ではあるが 認識や表現の一部分であって 全てではない。
さらに日本の学校教育は言葉を中心にして学力強化に重きを置き 全人的な発達から離れ偏った発達を促す傾向にある。
子供たちに心身の不都合が生じるのは多くの経験もし論理的には自然だが 誰にも解ってもらえるように実証するのは 本当に難しい。
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