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吉田茂とその時代 下

2008-03-10 01:25:44 | ブックオフ本
『吉田茂とその時代』の下巻もかなり読み進んだが、「昭和の子」である雨宮昭一さんが『占領と改革』を書いて「戦後」を救いたくなった気持ちがわかってきた。上巻の最終章に出てくる、天皇に終戦の聖断をうながす「近衛上奏文」で、俺もかなりうんざりした。『吉田茂とその時代』でも『占領と改革』でも、重要なテキストとして全文が掲載されている理由が、一読すれば誰でもわかるはずだ。

吉田茂をはじめとして、東条の総力戦体制に反対する「反戦自由主義者」たちが書いた「救国」のマニフェストなのに、どこにも国民の痛苦や皇軍兵士の悲惨な死には触れられていない。敗戦必至の責任の一切を「共産主義者の陰謀」に押しつけた低劣な駄文だが、残念無念なことに、この「近衛上奏文」こそが戦後の出発点なのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛上奏文

そして、吉田茂をはじめとして、「近衛上奏文」を書いたエリートたちが、戦後日本の支配層となり、占領軍から押しつけられたものであれ、国民の自発的なものであれ、あらゆる「改革」はまず反対され、後退されるか、骨抜きにされて、今日まで続く不徹底なものにされていく経緯は、本書に詳しい。

この「近衛上奏文」に比べれば、終戦放送で有名な天皇の「終戦詔書」はずっと格調高い名文であるだけでなく、はるかに優れて「国民的」といえる。たぶん、天皇の肉声をはじめて聴き、その内容まで吟味した国民はきわめて稀だったと考えられるのに、なぜ、「終戦勅語」が戦後の出発の言葉として、これまで国民間に繰り返し刷り込まれてきたのか。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/syosyo/syuusen.html

日本国憲法制定以前に、「国民的」なマニュフェストがほかになかったからではなかったか。乱暴にいえば、終戦詔書の後に、断絶があり、占領改革がはじまったのではなく、終戦勅語と天皇の人間宣言、日本国憲法までをひとつながりとして捉える、それが日本国民の唯一の総意ではなかったかと、そんな風にも思えるのだ。

本書によれば、「封建的」で「圧制的」な日本というアメリカの規定に対して、吉田は明治維新の「五箇条のご誓文」を持ち出して、日本は明治以来、「民主的」な国家だと反論した。アメリカの認識に対して直ちに賛同したのは、復活した左翼勢力であったが、この間を埋める別の「現実」があったとするのが、『占領と改革』の雨宮さんだ。

東条たち「統制派」と岸信介らの「革新官僚」が結び、労農組織を基盤とする社会国民主義派が合流した「国防国家派」が押し進めた総力戦体制によって、戦時中の日本は「革新」され、すでに経済の民主化や労働者の発言権の増大、女性の社会進出などが一定程度実現していたと『占領と改革』はする。「獄中十余年」、あるいは北京に亡命していた日共幹部は、そうした戦時中の現実を革新を知らなかった。

体制側の吉田茂や改革側のアメリカはもちろん、反体制の左翼も知らなかった「現実」、これを雨宮さんは「協同主義」に代表させているが、もしそうした自立・自発の民心があったとすれば、吉田茂の詭弁にはもちろん、アメリカや左翼の規定にも、心底からは頷けなかっただろう。彼らにとって、戦前はともかく、戦中と戦後は連続しているのであり、帝国主義戦争という規定とは別に、共に力を合わせて苦しい戦争を闘い、その実力を高めてきた実感は揺るぎなくあったわけだから。

「終戦詔書」は、そうした民心と潮流に乖離せず親和するものといえる。日本人の戦後の復興から繁栄の物語のプロローグとして、これ以外に考えられなかったのではないか。刷り込み、と前記したように、そこに作為や欺瞞がなかったとはいわないが、それを超えて何かが選ばれ、何かを動かす国民意志の反映と考え得るのだ。もちろん、そうした民心と潮流は、まだ適切に名づけられてさえいない、非歴史的な仮説である。すなわち、答えは出ておらず、これから出るかも知れない。戦後民主主義、侮るべからず。
うんざりするには早そうだ。



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