ホームから母を連れ出し
車で五分ほどのコメダ珈琲に入った
ブレンドコーヒーに一袋の砂糖を流し
回したスプーンがつくるミルクの渦を見ている
「ああ、一年ぶりのコーヒーだ、ありがとう」
母は繰り返し言い
押しやった私のコーヒーの半分を飲み
勧めた二本のタバコを根本まで吸った
金属のミルクピッチャーをつまんだ母は
「これは飲んでもいいのかい?」
と俺へ向いて尋ねる
「いや、ダメだよ」
と俺は答える
母はコーヒーとタバコが好きだった
小学生の頃、勤めから帰った母に
よくコーヒーをつくってやった
当時は、インスタントコーヒーだったが
我が家には、安い買い物ではなかった
角砂糖一個とクリープをたっぷり
母はタバコを吸いながら
「あたしのたったひとつの贅沢だ」
とよく言った
喫煙席のボックスに空きはなく
共用の長いテーブルになったので
母と並んで座っている
はじめて来た店なのに
店内を見回す様子もなく
正面を向いたまま
無表情な横顔を見せている。
「もう出たいかい? ここ」
「そうだね、はじめてだしね」
「緊張したか?」
「そんなことはないよ」
「ちょっと、そこらを歩いてみるか」
コメダ珈琲は、四車線の幹線道路に面している
何処へ行こうかと、車椅子を押しながら考えていると
「ツツジがきれいだねえ」
と声が上がった
「長い枝を、ひとつ折っておくれ」
とも言う
コメダ珈琲の駐車場を囲む
白いツツジの植え込みだ
「でも、これはコメダのツツジだぜ」
言い出したら聞かない母を思いだして
手早く手近なのを折ってやった
近くの花水川の土手まで車椅子を押した
家からすぐに上がれるこの土手を散歩するのが
かつて母の朝の日課だった
飼い主が放し歩きさせていた犬に出喰わし
驚いて土手を転げ落ちたのが
腰骨を骨折した最初だった
二度目は、自転車に乗っていて車をぶつけられ
三度目は、郵便屋の押すブザーに玄関に急いで転び
腰骨の同じ箇所を折った
「ああ! この土手に来たのは何年ぶりだろう、嬉しいよ」
母は最初こそはしゃいでみせたが
すぐに無表情に戻った
花水川の対岸には
晴れわたった空と深緑の高麗山が見える
ところどころ萌葱色の毛糸玉のような
雑木の群生が見える
「五月がいちばんいい季節だな」
土手上の道を車椅子を押しながら
母に声をかける
母は黙っている
顔の向きがおかしいことに気づく
「川はこっちだよ」
後ろから指を伸ばして左の顎を軽く押した
川や山ではなく土手沿いに建つ家々の方に
母の顔は向いていた
散歩のリードを引っぱった犬が
母の横を通り過ぎていった
花瓶には、さきほどの白いツツジを挿した
「疲れたろう、少し横になったら」
母はベッドに仰向けて目を瞑る
俺はカバンから用意していた文庫本を出す
一頁もめくらないうちに
「コーヒーおいしかったねえ」
と母が言うのが聴こえた
目は瞑ったままだ
「そうか、また行こうな」
「ねえ、--」
と俺の名を呼ぶ
「なんだい」
と俺は答える
母がこちらに笑顔を向けている
ベッドの傍らをポンポンと手で叩いて
「お前も、ここで横にならないかい?」
母がそれを言うのは、これで何度目だろう
「今夜は、一緒に寝よう」
と言ったこともある。
もちろん、その度に
「いいよ、俺は」
と遠慮するように断ってきた
俺は立ち上がり、ベッドの傍らに立ち
母の傍へ腰を下ろした
母の手の甲をさすりながら
母の顔を覗きこんだ。
落ちくぼんで小さくなった眼は虚ろだが
いっぱいの笑みが顔を輝かせている
「おふくろ、俺の顔が見えるか?」
「俺が誰だかわかるかい?」
と尋ねた
「もちろん、見えるよお、--」
と母は答えた。
「じゃ、あそこのカレンダーは見えるか?」
「あんまり見えないねえ」
カレンダーが掛かっているのは
俺が座っていた丸椅子の後ろ
ベッドから二メートルほどの距離だ
「じゃ、少し離れると、どんな風に見えるんだ?」
母の手は、滑らかに白かった
「ぼんやりとしか見えないねえ」
訪ねると歓声を上げて喜ぶくせに
しばらくすると、無関心なように無表情になるのはなぜか
どちらかが、母の演技と思っていたが
ほとんど眼が見えないためだった
断っても断っても、一緒に寝ないかと誘うのはなぜか
薄気味が悪いと思っていたが
近くで俺の顔を見たかったからだ
母からは、ぼんやりとした人影にしか、俺は見えなかった
嘘寒い言葉をかける、離れてぼんやりした人影だった、俺
ミルクピッチャーの底に残ったミルクの一滴は見えていた、母
そのことに、俺だけが気づいていなかった
俺だけが知らなかった
「ヤダ、ヤダ! そんなこといわないで」
「じゃ、またな」
と俺が切り出すと、母はいつもそう言って、幼児のように泣く
俺は、女たちの顔を思い浮かべる
そして、おふくろと呼ぶこの老婆こそ
俺の最初の女だと思う
女たちよ
女たちよ
俺はたしかに不実な男だった
お前たちをひどく傷つけ、裏切り
その真心を踏みにじって、逃げた
しかし、女たちよ
女たちよ
お前たちは、この女よりましだ
この女ほどには、ひどい仕打ちを受けてはいない
それだけは保証する
帰りがけの玄関で
FLOのタルトを渡した職員に
「よろしく頼みます」
といつものように、頭を下げる
「大丈夫ですよ、長男さんがいらしゃると、少し不安になるようですが」
咎められているのかと俺は眼を上げた
「他の人が帰りたいと愚痴ると、ここは退院できないのよ」
「って慰めたりすることもあるんです」
と続けて、俺の知らない母を教えてくれた
ミルクピッチャーの底に残ったミルクの滴を
母が飲みたければ、飲ましてやればよかった
「ダメだ」
そんな風にいうことはなかった
大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずや つばめよ(寺山修司)