コタツ評論

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アリバイと47人の盗賊

2011-05-24 23:33:00 | ノンジャンル
元運転手「ホテルに送った記憶ない」 陸山会事件公判

以前、映画「それでもボクはやっていない」で書いたように、公判廷での証言より、検事調書の方がずっと証拠価値が高い。自白は重視されるのに、公判証言が軽視されるのは、一見、矛盾しているようにみえるが、自白は調書になっているのに対し、公判証言は調書に裏づけられていないため、信憑性に欠けると判断されるためだろう。「推定有罪」の怖さを映画は訴えていた。「推定無罪」の立場に拠れば、調書も証言もフラットに評価できるはずなのだが、それでは裁判官と検察官主導の裁判ゲームは成り立たない。したがって、この元運転手の証言は、5000万円授受の事実関係立証への影響はほとんどないとみられる。にもかかわらず、ではなぜ、こうした記事を書いたか、掲載したか。記事と新聞社の「公正・中立」のためである。陸山会事件を「公正・中立」に扱うためではない。

マスコミは、ときに、自らを「公正・中立」に見せかける記事を掲載する。「一方的ではなかったか」と追及されたとき、「それは一面的な批判です」と答えるために、あるいは、風向きが変わったときのために、10のうち、9は賛成しておきながら、1の疑問や反対をさりげなく、紙面のどこかに書いておく。たとえば、法案の審議が実質的に終わった後や可決された後など、大勢に影響を与えない時期を選んで。そうした記事をアリバイ記事と呼ぶ。逆の見方をすれば、アリバイ記事が出たなら、すでに大勢は決しているともいえる。陸山会事件で小沢有罪が決まっているというより、小沢の政治的復権はないという見込みだろう。「それでもボクはやっていない アリバイがあるから」

3.11以前、マスコミに脱原発や反原発の論調はほとんど見かけなかった。いま、マスコミに原発推進の論調をまったく見かけない。以前がおかしいというなら、以降もおかしいと考えるのが、メディアリテラシーというもの。しかし、二元論や極論に比べ、中庸の議論はきわめて難しい。正論と本音を中和して説得するかにみえるものは、どっちにでもいずれ転べるアリバイ論と批判される場合が多い。然り。どちらの論にも一定の理解を示すからだ。然れども、そこに説得があれば、多少なりとも前進が見込める。中庸の議論があるのではなく、説得による漸進こそが、中庸の議論そのものではないか。正しいか間違っているかはわからないが、とりあえず合意できる結論を、具体的な行動指針を出そうという立場は、アリバイを必要としない。「それでもボクはやっつけてはいない アリバイはいらないから」
(敬称略)



正義の女神(Lady Justice)は、目隠しをしていて、真理を見ることはできない。ただ、秤のバランスを感じている。そして、剣を携えている。アリバイを言い立てる盗賊どもを斥けるために。




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人間性無き科学

2011-05-24 19:29:00 | 3・11大震災
小出裕章氏の話「参議院行政監視委員会」(文字おこし)
Monipo blog さん、ありがとう。

動画
http://www.ustream.tv/recorded/14906087

小出裕章さんの肩書きは、京都大学原子炉実験所助教です。助教というのは、以前は助手と呼ばれていました。助教授は、いまは準教授といいます。偉くない順でいうと、助手(助教)・講師・助教授(準教授)・教授となります。小出さんは62歳にしてまだ、講師にすらなれません(ここ、間違えたので書き直しました)。

年功序列がまだ色濃く残るアカデミズムの世界から、62歳の助教を国会が専門家の一人として呼んでその知見に耳を傾けるというのは、ある意味、社会的なスキャンダルに近いものがあります。小出さんにとっては、ある意味、まっとうな肩書きかもしれませんが。
コメント (3)
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