4月某日
最近の原発事故隠し、保険金未払い騒
動などをみていると日本人の多くが、ガ
サツ、いい加減になったと判る。
原子力発電所とは、原爆の次に、あた
りを荒廃せしめる危険をはらむ施設。
原爆は一瞬、原子力発電所は一生。
エネルギーのない島国にとって原発の
存在は当然であろう。しかし、安全確保
には金がかかる。
原発はまことに危険だ。なおコスト高。
我々の電力は原子力発電に支えられて
いる。電力を使っている以上文句は言え
ない。そして、世間一般は危機管理がゆ
き届き、非常事態など起こるわけがない
と信じ込んでいる。そもそも原発の仕組
みについて知ろうともしない。
原発に関する事故隠し、未来に対する
犯罪だ。
この文は、今年4月に書かれたものではない。4年前の平成19年(2007年)月刊誌「
新潮45」6月号、連載第3回「だまし庵日記」(野坂昭如)中の一文である。
野坂昭如は2003年に脳梗塞に倒れ、長いリハビリ生活にあると聞く。
後遺症と回復状態については不明だが、改行なしに続く独特の文体やさんみ(ひがみ・そねみ・ねたみ)の視点から世間を撃つ、かつてのエッセイの切れ味を知る読者なら、この日記はたぶん暘子夫人による口述筆記であり、その口述も相当思うにまかせないのだろうと推測できる。
率直にいって、見る影もない。が、「
炭鉱のカナリア」としての作家の直感や予見は、その口述ほどには衰えていないことが、この原発文から充分にうかがい知ることができる。4年前としてはもちろん、4年後の現在においても、完璧な文章といえないだろうか。
(敬称略)