福岡 伸一 講談社現代新書
生物を構成する分子は、機械を構成する部品のようなものではなく、それ自体がダイナミックに動いている、らしい。
あらかじめ部品情報を欠損させた「ノックアウトマウス」は、成長に従い何らかの障害が現れるかと思いきや、まったく何らの機能不全も起こさない、らしい。
分子生物学では、分子を操作することによって生物を操作するという試みは挫折している、らしい。野心的な分子生物学者は、この挫折におおいに落胆したが、深まり広がる生命の謎に挑むことへ、新たな歓びを見出している、らしい。
こうして書いている、文字・語句・文章も一塊りの文章を構成するだけでなく、その短い断片それ自体に喚起力を持っている。
書き手が言葉を選んだ結果、組み合わされてプラモデルのように文章ができあがるのではなく、書き手の思念が言葉という道具を得て文章として結晶化するのではなく、何か個別の複雑な動きがあるのかもしれない。
文章が生成する現場には、書き手と同居する読み手という別の存在がある。「存在がある」という同語反復は、書いたそばから読んでいる、読んだらただちに書いている、という時間的なズレを示している。
本書を読むと、生物と無生物の境界を時間モデルと無時間モデルとする考えかたが紹介されている(俺はこうした分野ではゾウリムシ並みに無知なので、ほんとうにそう紹介されているかは保証できず、勘違いしている怖れはたぶんにあるが)。
プラモデルは無時間に存在するが、ゾウリムシは生成して死滅する時間の間に存在する(というような比喩や事例を本書では採用していない。あくまで俺のメタファーである。ややこしくてすまん)。
で、ゾウリムシは分子生物学について無知であるが、分子生物学が解析したような構造や動きを日常的に行っているわけだから、生物としては既知である、と負け惜しみをいいたいのではなく、生物と非生物の境界を時間モデルと無時間モデルとするなら、本書でジグソーパズルを分子の解説ツールとして採用したのはどうしてなのか、よくわからないというわけだ。
ゾウリムシからみると、ガンダムのプラモデルの組立てやモナリザの微笑みのジグソーパズル完成は、そのとほうもない困難さにおいて変わらないように、立体と平面の違いはあれど、どちらも似たようなものとしか思えない。
なぜジグソーパズルなのか。
本書では、その問いに、ジグソーパズルの一片を失くしたときにはどうするか、という問いで答えている。呆然としたゾウリムシに、ジグソーパズルの取扱説明書を読むことを勧める。そこに解決方法が書いてあるのだ。ジグソーパズルの製造販売会社が失った一片を送ってくれるというのだ。
そのためには、失った一片を真ん中の空白にして周囲6片のピースを製造販売会社に送らなければならない。ここでゾウリムシは、1ピースがその凹凸によって周囲6ピースと合体して、「部分」と名づけられたことに驚く。
なるほど、1足だけならガラクタだが、2足なら靴と呼ばれるのと一緒だなと納得するゾウリムシだが、たとえ1足でも靴は靴と誰でもわかるのに対し、周囲6片のピースがなければ、製造販売会社でさえ失った1ピースを特定できない。
ジグソーパズルの失った1ピースから、部分が部分として独立して支え合い、全体を決定していく分子生物学の仕組みを解説していく手際は実にスリリングだ。
その一方で、人がつくる組織は機械のようであり、人は歯車のようだ。それはなぜなのか。あるいは実際はそうではないのか。分子生物学の知見から人間社会を観察してみると、どんな異同があるのか。
本書をネタ本として、私たちが日々接する人々の振る舞いや組織について考え出すと、ようやくゾウリムシから人間になれたようで嬉しくなる(しかし、ゾウリムシとはひどい命名だな。草履職団体は生物学学会に抗議すべきだ)。20万部に近いベストセラーになっているのは、ネタ本として使えるからだろう。
「内部の内部は外部である」とか、触発される文章がたくさんある。社長の訓示もこんな本から引用して、生命体としての会社組織論とか、生態系としてのマーケットとか、一席ぶってくれると何とか眠らずに起きていられるのだが。
生物を構成する分子は、機械を構成する部品のようなものではなく、それ自体がダイナミックに動いている、らしい。
あらかじめ部品情報を欠損させた「ノックアウトマウス」は、成長に従い何らかの障害が現れるかと思いきや、まったく何らの機能不全も起こさない、らしい。
分子生物学では、分子を操作することによって生物を操作するという試みは挫折している、らしい。野心的な分子生物学者は、この挫折におおいに落胆したが、深まり広がる生命の謎に挑むことへ、新たな歓びを見出している、らしい。
こうして書いている、文字・語句・文章も一塊りの文章を構成するだけでなく、その短い断片それ自体に喚起力を持っている。
書き手が言葉を選んだ結果、組み合わされてプラモデルのように文章ができあがるのではなく、書き手の思念が言葉という道具を得て文章として結晶化するのではなく、何か個別の複雑な動きがあるのかもしれない。
文章が生成する現場には、書き手と同居する読み手という別の存在がある。「存在がある」という同語反復は、書いたそばから読んでいる、読んだらただちに書いている、という時間的なズレを示している。
本書を読むと、生物と無生物の境界を時間モデルと無時間モデルとする考えかたが紹介されている(俺はこうした分野ではゾウリムシ並みに無知なので、ほんとうにそう紹介されているかは保証できず、勘違いしている怖れはたぶんにあるが)。
プラモデルは無時間に存在するが、ゾウリムシは生成して死滅する時間の間に存在する(というような比喩や事例を本書では採用していない。あくまで俺のメタファーである。ややこしくてすまん)。
で、ゾウリムシは分子生物学について無知であるが、分子生物学が解析したような構造や動きを日常的に行っているわけだから、生物としては既知である、と負け惜しみをいいたいのではなく、生物と非生物の境界を時間モデルと無時間モデルとするなら、本書でジグソーパズルを分子の解説ツールとして採用したのはどうしてなのか、よくわからないというわけだ。
ゾウリムシからみると、ガンダムのプラモデルの組立てやモナリザの微笑みのジグソーパズル完成は、そのとほうもない困難さにおいて変わらないように、立体と平面の違いはあれど、どちらも似たようなものとしか思えない。
なぜジグソーパズルなのか。
本書では、その問いに、ジグソーパズルの一片を失くしたときにはどうするか、という問いで答えている。呆然としたゾウリムシに、ジグソーパズルの取扱説明書を読むことを勧める。そこに解決方法が書いてあるのだ。ジグソーパズルの製造販売会社が失った一片を送ってくれるというのだ。
そのためには、失った一片を真ん中の空白にして周囲6片のピースを製造販売会社に送らなければならない。ここでゾウリムシは、1ピースがその凹凸によって周囲6ピースと合体して、「部分」と名づけられたことに驚く。
なるほど、1足だけならガラクタだが、2足なら靴と呼ばれるのと一緒だなと納得するゾウリムシだが、たとえ1足でも靴は靴と誰でもわかるのに対し、周囲6片のピースがなければ、製造販売会社でさえ失った1ピースを特定できない。
ジグソーパズルの失った1ピースから、部分が部分として独立して支え合い、全体を決定していく分子生物学の仕組みを解説していく手際は実にスリリングだ。
その一方で、人がつくる組織は機械のようであり、人は歯車のようだ。それはなぜなのか。あるいは実際はそうではないのか。分子生物学の知見から人間社会を観察してみると、どんな異同があるのか。
本書をネタ本として、私たちが日々接する人々の振る舞いや組織について考え出すと、ようやくゾウリムシから人間になれたようで嬉しくなる(しかし、ゾウリムシとはひどい命名だな。草履職団体は生物学学会に抗議すべきだ)。20万部に近いベストセラーになっているのは、ネタ本として使えるからだろう。
「内部の内部は外部である」とか、触発される文章がたくさんある。社長の訓示もこんな本から引用して、生命体としての会社組織論とか、生態系としてのマーケットとか、一席ぶってくれると何とか眠らずに起きていられるのだが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます