朝日新聞の毎土曜日の別刷り「be」の東海林さだお連載『あれも食いたいこれも食いたい』を愛読している。いや、愛でるように味わいつつ読んでいる、というのとはだいぶ違う。東海林さだおの着眼や筆致にときどきアワアワとするからだ。取り扱われる食べ物や料理は取るに足りないのが常だ。とりわけ、今回のテーマである「定食屋のみそ汁のワカメ」など、これまで誰も取り上げたことがないに決まっている。あまりに無意味だからだ。「定食屋のみそ汁のワカメ」が「食いたい」人などいるわけがない。のっけから、まるで食品と料理そのものを否定するような鬼面人を愕かす外連たっぷりな仕掛けといえる。新聞の上半分、4段組みの長文ながら、挿絵マンガが3点入り、行間をたっぷりとった上に、。を合わせて2字で終わってしまう余白が98%の行がいくつも数えられる、「ある意味」と留保せずとも、そのままスカスカの紙面に、いくつもの不安と動悸が仕掛けられているのだ。その第一は、これはもしかして晩年の武者小路実篤の「痴呆文」と同様な、かつては「痴呆症」と呼ばれ、「ボケ老人」と俗称した、現在は「認知症」といわれている、認知障害の症状がもたらす文芸なのではないかという疑問である。東海林さだおは昭和12年生まれの84歳だから、そうであっても不思議はない。あっちへ行ったり、こっちへ寄ったり、とりとめがなく、つまり、文章上の徘徊老人なのである。いや、そう見えるだけであって、徘徊老人にしてみれば、断固たる意志を持って、確固たる行き先に向かって、的確な足取りで歩んでいるのかもしれない。その節もじゅうぶんに伺えるのが厄介なのだが。とはいえ、読者としては、そんな風に読めない不安が困るのである。道路上の徘徊老人なら、眼を逸らして通り過ぎればいいだけだ。それでも、その老人が側溝に嵌るのではないか。交通事故に遭うかもしれない。子供や中年御婦人の自転車に衝突して、双方がケガを負う怖れもある。文章上の徘徊老人にはそんな危険と迷惑は一つも起きない。では何が困るのか。ふと思ったのだが、徘徊と俳諧は双子のように似ているではないか。句想を得ようと辺りをうろつく様ときたら、ほとんど見分けがつかない。徘徊から俳諧にいたる句読点が俳句といういわば巡回文芸ともいえる。言えないかもしれない。おまわりさんは巡回するけど、徘徊しているとはいわないし、俳句を作っているとか、有名な俳号の持ち主がいると聞いたこともない(このへん、筋が通っているナ)。もし、そんなおまわりさんがいたら、コンビニに昼食を買いに行ったくらいで叱られるのだから、うんと叱られるだろう。梅が咲いたり、鶯の鳴き声が聴こえたりするのに気をとられて、職務がおろそかになるのに決まっているからだ。窓ガラスが割られたり、女性の悲鳴が聴こえたり、頬かむりをした泥棒の姿こそ見つけてほしいから、困るのだ(このへん念入りだナ)。そう、困るのだ。道路上の徘徊老人を見かけると、靴底に入った小石のように気がかりになり、放っておけばやがて痛くなる。もちろん、小石なら靴を脱いで振り落とせばいいだけの話である。徘徊老人の方はそう簡単ではない。警察に電話するのか、役所の担当を探すのか、いやいや携帯電話の画面をスリスリする前に、まず老人に声をかけ、道路端に寄せてまず話しかけねばならない。とても面倒で、ユニセフくらいの善意がなければできないことだが、それでも絶対無理というほどではない。これに対して、文章上の徘徊老人には何の手立てもない。道路上の徘徊老人のような危険を自他に及ぼす恐れはないのだから、読まなければ済むだけなのだが、読めばやはり靴の中を転がる小石のように気がかりになる。徘徊なのか、ワザとなのか、あるいは不遜にも読者の読解力を試しているのか、???の異物感が拭えないのだ。東海林さだおのの決め言葉に、「ホンコなしね!」というのがある。随筆とは、志賀直哉や志賀直哉や志賀直哉のような文豪が、その文学エッセンスを永谷園ののり玉ふりかけのように散りばめた、日本文学史に屹立した文芸ジャンルである。そこにあえて虚構を持ち込む前例はいくつもあるし、虚実皮膜という高級な批評用語もあるくらいだ。しかし、東海林さだおの場合、「ホンコなしね!」と虚言妄言をあらかじめ宣言しているのである。あなたがもし、町の喫茶店に呼び出され、しもぶくれの唇の赤い中途半端な長髪の男と対面して、「これから私が述べることは、すべて嘘八百です」といわれたらどうしますか?いや、そんな圧迫面接のような態度ではないな。「ホンコなしね」とは、追い詰められた末に涙目で発せられる弱者の言葉だ。麻雀に誘われたしもぶくれに中途半端な長髪の大学生が、「テンピンだからな」と告げられてポケットに1300円の場所代くらいしかないのをたしかめ、郵便貯金口座にはまだ月の半ばだというのに8千円しかないのをさらに思い出し、目じりを赤く滲ませながら、「ホンコなしね」と気弱に提案し、「ケッ、バカいってんじゃねえよ」と置いてけぼりを食い、二度と誘われない立場を招く言葉である。東海林さだおは、そんな惨めな立場の自分に呟く「苦し紛れ」を書くのである。「僻みっぽいワカメ」がみそ汁とTV番組の『新婚さんいらっしゃい』に出演したらどうなるか、とかである。「苦し紛れ」としか読めない、いかにも唐突で脈絡がない、強引な飛躍である。手が込んでいるのは、「苦し紛れに」書いたように、「苦し紛れを」書いてみせる、底なしの「ホンコなしね」なのだ。騙される、転がされる、にとどまらない東海林さだおの凄さは、この「苦し紛れ」を書くためにせっせと行を重ねていることだ。こうなるともう、文芸そのものを否定しているとしか思えない。文章の事実性を否定し、文脈の経路を無視し、言葉を無意味化しているからだ。文章上の徘徊老人にして、小学生のパンクロッカーのようなものだ。その衝撃は東海林さだお風を生み出してしまうことに如実に表れている。オートバイに乗れば風になるそうだが、東海林さだお風に乗れば、臆病風に吹かれることになる。しもぶくれに赤い小さな唇の中途半端な長髪の「ホンコなしね」が決め台詞の、置いてけぼりを食らって二度と誘われない、「苦し紛れ」だけが上手くなった怯えた子ども、になって、ヘナヘナの臆病風が心地よくなってしまうのだ。人もその文章も。それを避けるために読者ができることは、「タンマ」と頁を閉じ、立ち去ることだけである。「ホンコなしね」という呪いに対抗できるのは、「タンマ」という呟きだけなのだ。いうまでもないことが、それもまた東海林さだおの術中なのだが。
止め
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