のこうとはおれのことかとだいこういい
『福翁自伝』読了。行方不明となっていたのがひょっこり出てきたので、機会を逃さずに読んだ。猫の額ほどの「書斎」のどこに消えるのか。ときどき、いろんな失せものが出る。奴かヤツかやつの仕業である。犬のように咥えて運ぶわけもないのに、文庫本とはいえ嵩張るものが失くなるのは、僕かボクかぼくの置き忘れかもしれないが。
さて、久しぶりの『福翁自伝』。やはり、とてもおもしろい。よく似た口語体を読んだ覚えがあるなと考えてみたら、夏目漱石の『坊ちゃん』を思い出した。即物的ともいえるほど、事実と行動を語っていく躍動感とリズム。とりわけ、市井の出来事から採った平易な比喩が醸し出すユーモアが共通していると思った。
たとえば、咸臨丸で渡米したとき、アメリカ人たちに大歓迎を受けるが、見るもの聞くもの驚くばかり、「知らぬ他国へ嫁いだ花嫁さん」のようにおとなしくしていた、とか、尊皇攘夷の浪士たちが街を徘徊していたころは、今にも斬られるのではないかと怖ろしく、まるで、「野犬に囲まれたイザリ」のような心持だった、とか。
福沢諭吉は、天保5年(1835)生~明治34年(1901)
夏目漱石は、慶応3年(1867年)生~大正5年(1916)
差し引き32年。諭吉が幕末の父とすれば、漱石は明治の息子。『福翁自伝』も、激動する幕末期を生きた一下級武士の青春の記録といえる。諭吉と同年生まれは、新撰組副長・土方歳三や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎、日本の近代郵便制度を創った前島密、カーネギーホールに名を残すアメリカの実業家カーネギーなどがいる。
『福翁自伝』の刊行年は、明治32年(1899)
当時、漱石は31歳。『坊ちゃん』の舞台となった愛媛松山市の松山中学に英語教師として赴任していた。心身とも健康を害して都落ち、「田舎教師」としてくすぶっていた時期である。時事新報に連載された、諭吉はじめての口語体の『福翁自伝』を読んだはず。言文一致の小説文を確立した漱石の興味を惹かないわけがない。
300万部を発行した『学問ノススメ』をはじめ、60冊余の啓蒙書を出版し、慶応義塾を創設した諭吉は、幕末から明治期を代表する啓蒙家。後に明治を代表する知識人といわれた漱石が、諭吉の著作に触れなかったとは考えられない。諭吉の波瀾万丈の自叙伝が、闊達自在な口語文で発表されたのだから、私たち以上に、漱石は新鮮な驚きをもって読んだだろう。
『坊ちゃん』の発表は、明治39年(1906年)
『福翁自伝』から『坊ちゃん』が生まれたのではないか? 『坊ちゃん』の発表は、漱石が英国留学から帰国後である。時期が重なることや同じ口語体、自叙伝形式、などの共通点を並べていうのではない。『福翁自伝』と『坊ちゃん』を読み比べてみると、明らかな違いがある。その違いこそが、強い影響を語っているのではないか、と思う。
諭吉の『福翁自伝』の快活自在な筆致に比べると、漱石の表現は怜悧なほど鋭い。幕末の「坊っちゃん」は明るく元気で「親友」が多いが、明治の「坊っちゃん」は黄昏て一人寂しい。「青春痛快ユーモア小説」といえるのは、はっきり『福翁自伝』であり、『坊ちゃん』はせいぜい奮発したとしても、「青春苦笑い小説」だろう。
『福翁自伝』には、「門閥制度は親の敵でござる」という諭吉の名文句があるが、薩長閥が人事を壟断した明治政府を知る漱石にとっては、さほど痛快には聞こえなかったろう。混沌の幕末は諭吉の自由勝手を許したが、夏目漱石にとっては、明治は息苦しく、見苦しかったようだ。『坊ちゃん』のなかで、漱石は「うらなり」だった。
明治の「文明開化」に大満足して65歳で大往生した諭吉と、明治にアイデンティティを失い苦悩した漱石。『坊ちゃん』は、『福翁自伝』への返歌ではなかったかと思う。つまり、もしかすると、漱石は諭吉を好きではなかったかもしれない。主人公の「坊ちゃん」と「うらなり」にはほとんど交流がなく、「うらなり」は「坊ちゃん」に迷惑気味だ。
日清戦争、明治27年(1894)~明治28年(1895)
日露戦争、明治37年(1904)~明治37年(1905)
『福翁自伝』は日清日露戦争の戦間期に上梓され、『坊ちゃん』は両戦争後に発表されている。『坊ちゃん』の登場人物たちは、「祭り」を終えると離散して、市井に埋もれる。近代化する日本に負けていく庶民である。日清戦争に感激した「脱亜入欧」の諭吉には、漱石の暗い予感は感傷に過ぎないかもしれない。
思索の人漱石に対し、諭吉は行為と行動の人。『福翁自伝』にも、「間食をしない」とか、「朝の散歩」や「薪割りと米搗き」を日課とするなど、自分の健康法を無邪気に紹介してもいる。なるほど、日経新聞が著名政財界人の自叙伝を代筆する名物連載「私の履歴書」の構成は、この『福翁自伝』がモデルらしい。
「ホテル行こうよ、諭吉があるからさ」といわれるように、一万円札の肖像にもなった人だが、福沢諭吉はそれほど偉い人だろうか? 慶応大学の新入生には、この『福翁自伝』が必ず配布されるというから、慶応関係者にとっては、慶応義塾の創設者である偉い人に違いない。しかし、一万円札の諭吉が着物姿であるように、諭吉は生涯、在野の人だった。
蘭学を修め、英語を学んだおかげで、咸臨丸で訪米したように、幕末の幕府で外国との折衝に当たる役職にはついたが、その役割は通訳や翻訳といったパートタイマーであり、小さな中津藩の下級武士としては破格の出世はあっても、幕府の命令に従っただけの諭吉にとって立身とはいえず、新知識を学ぶ目的しか眼中にはなかった。
また、明治政府から幾度も、官職に請われ、望めば高位高官の道も開かれていたはずなのに、すべて断っている。また、いち早く、西欧の貿易や経済の知識を取得し、通訳や翻訳の仕事を通して、金銀の相場や為替などのインサイダー情報に接することができたのに、営利事業や企業を興すことはせず、金儲けの機会を見過ごしている。
諭吉が書いた著作の多くは、学理学説とは関係がない啓蒙書とされるから、学者でもない。つまり、福沢諭吉には、肩書きがない。官位なく、学位なく、資産もない。肩書きを発行する組織や団体は、諭吉の後からできたのだから、当たり前ではあるが、慶應義塾という私塾を営む、ただ普通の人である。文豪と称される夏目漱石とは比較にならない。
ただ多くの本を書き、多くの人に読まれた、在野の知識人としか呼びようのない人である。当時も今も、諭吉の本を感心して読む人はいたが、諭吉その人を拝む人はいない。だからこそ、福沢諭吉は、明治以降の日本と日本人に多大な影響を与えたといえ、知識人としての影響力の大きさでは諭吉と漱石では比較にならない。
『福翁自伝』を読むと、諭吉を通して日本人のエートスとは何か、それがわかる気がする。とても、170年前に生まれ、100年前に死んだ人が書いたとは思えない。現代人の姿を『福翁自伝』に見ることができる。諭吉ならきっと、草葉の陰で、「乃公(おれ)の本がまだ読まれているとは情けない」と嘆くだろうが、それほど、『福翁自伝』は古びていない。
(敬称略)
『福翁自伝』読了。行方不明となっていたのがひょっこり出てきたので、機会を逃さずに読んだ。猫の額ほどの「書斎」のどこに消えるのか。ときどき、いろんな失せものが出る。奴かヤツかやつの仕業である。犬のように咥えて運ぶわけもないのに、文庫本とはいえ嵩張るものが失くなるのは、僕かボクかぼくの置き忘れかもしれないが。
さて、久しぶりの『福翁自伝』。やはり、とてもおもしろい。よく似た口語体を読んだ覚えがあるなと考えてみたら、夏目漱石の『坊ちゃん』を思い出した。即物的ともいえるほど、事実と行動を語っていく躍動感とリズム。とりわけ、市井の出来事から採った平易な比喩が醸し出すユーモアが共通していると思った。
たとえば、咸臨丸で渡米したとき、アメリカ人たちに大歓迎を受けるが、見るもの聞くもの驚くばかり、「知らぬ他国へ嫁いだ花嫁さん」のようにおとなしくしていた、とか、尊皇攘夷の浪士たちが街を徘徊していたころは、今にも斬られるのではないかと怖ろしく、まるで、「野犬に囲まれたイザリ」のような心持だった、とか。
福沢諭吉は、天保5年(1835)生~明治34年(1901)
夏目漱石は、慶応3年(1867年)生~大正5年(1916)
差し引き32年。諭吉が幕末の父とすれば、漱石は明治の息子。『福翁自伝』も、激動する幕末期を生きた一下級武士の青春の記録といえる。諭吉と同年生まれは、新撰組副長・土方歳三や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎、日本の近代郵便制度を創った前島密、カーネギーホールに名を残すアメリカの実業家カーネギーなどがいる。
『福翁自伝』の刊行年は、明治32年(1899)
当時、漱石は31歳。『坊ちゃん』の舞台となった愛媛松山市の松山中学に英語教師として赴任していた。心身とも健康を害して都落ち、「田舎教師」としてくすぶっていた時期である。時事新報に連載された、諭吉はじめての口語体の『福翁自伝』を読んだはず。言文一致の小説文を確立した漱石の興味を惹かないわけがない。
300万部を発行した『学問ノススメ』をはじめ、60冊余の啓蒙書を出版し、慶応義塾を創設した諭吉は、幕末から明治期を代表する啓蒙家。後に明治を代表する知識人といわれた漱石が、諭吉の著作に触れなかったとは考えられない。諭吉の波瀾万丈の自叙伝が、闊達自在な口語文で発表されたのだから、私たち以上に、漱石は新鮮な驚きをもって読んだだろう。
『坊ちゃん』の発表は、明治39年(1906年)
『福翁自伝』から『坊ちゃん』が生まれたのではないか? 『坊ちゃん』の発表は、漱石が英国留学から帰国後である。時期が重なることや同じ口語体、自叙伝形式、などの共通点を並べていうのではない。『福翁自伝』と『坊ちゃん』を読み比べてみると、明らかな違いがある。その違いこそが、強い影響を語っているのではないか、と思う。
諭吉の『福翁自伝』の快活自在な筆致に比べると、漱石の表現は怜悧なほど鋭い。幕末の「坊っちゃん」は明るく元気で「親友」が多いが、明治の「坊っちゃん」は黄昏て一人寂しい。「青春痛快ユーモア小説」といえるのは、はっきり『福翁自伝』であり、『坊ちゃん』はせいぜい奮発したとしても、「青春苦笑い小説」だろう。
『福翁自伝』には、「門閥制度は親の敵でござる」という諭吉の名文句があるが、薩長閥が人事を壟断した明治政府を知る漱石にとっては、さほど痛快には聞こえなかったろう。混沌の幕末は諭吉の自由勝手を許したが、夏目漱石にとっては、明治は息苦しく、見苦しかったようだ。『坊ちゃん』のなかで、漱石は「うらなり」だった。
明治の「文明開化」に大満足して65歳で大往生した諭吉と、明治にアイデンティティを失い苦悩した漱石。『坊ちゃん』は、『福翁自伝』への返歌ではなかったかと思う。つまり、もしかすると、漱石は諭吉を好きではなかったかもしれない。主人公の「坊ちゃん」と「うらなり」にはほとんど交流がなく、「うらなり」は「坊ちゃん」に迷惑気味だ。
日清戦争、明治27年(1894)~明治28年(1895)
日露戦争、明治37年(1904)~明治37年(1905)
『福翁自伝』は日清日露戦争の戦間期に上梓され、『坊ちゃん』は両戦争後に発表されている。『坊ちゃん』の登場人物たちは、「祭り」を終えると離散して、市井に埋もれる。近代化する日本に負けていく庶民である。日清戦争に感激した「脱亜入欧」の諭吉には、漱石の暗い予感は感傷に過ぎないかもしれない。
思索の人漱石に対し、諭吉は行為と行動の人。『福翁自伝』にも、「間食をしない」とか、「朝の散歩」や「薪割りと米搗き」を日課とするなど、自分の健康法を無邪気に紹介してもいる。なるほど、日経新聞が著名政財界人の自叙伝を代筆する名物連載「私の履歴書」の構成は、この『福翁自伝』がモデルらしい。
「ホテル行こうよ、諭吉があるからさ」といわれるように、一万円札の肖像にもなった人だが、福沢諭吉はそれほど偉い人だろうか? 慶応大学の新入生には、この『福翁自伝』が必ず配布されるというから、慶応関係者にとっては、慶応義塾の創設者である偉い人に違いない。しかし、一万円札の諭吉が着物姿であるように、諭吉は生涯、在野の人だった。
蘭学を修め、英語を学んだおかげで、咸臨丸で訪米したように、幕末の幕府で外国との折衝に当たる役職にはついたが、その役割は通訳や翻訳といったパートタイマーであり、小さな中津藩の下級武士としては破格の出世はあっても、幕府の命令に従っただけの諭吉にとって立身とはいえず、新知識を学ぶ目的しか眼中にはなかった。
また、明治政府から幾度も、官職に請われ、望めば高位高官の道も開かれていたはずなのに、すべて断っている。また、いち早く、西欧の貿易や経済の知識を取得し、通訳や翻訳の仕事を通して、金銀の相場や為替などのインサイダー情報に接することができたのに、営利事業や企業を興すことはせず、金儲けの機会を見過ごしている。
諭吉が書いた著作の多くは、学理学説とは関係がない啓蒙書とされるから、学者でもない。つまり、福沢諭吉には、肩書きがない。官位なく、学位なく、資産もない。肩書きを発行する組織や団体は、諭吉の後からできたのだから、当たり前ではあるが、慶應義塾という私塾を営む、ただ普通の人である。文豪と称される夏目漱石とは比較にならない。
ただ多くの本を書き、多くの人に読まれた、在野の知識人としか呼びようのない人である。当時も今も、諭吉の本を感心して読む人はいたが、諭吉その人を拝む人はいない。だからこそ、福沢諭吉は、明治以降の日本と日本人に多大な影響を与えたといえ、知識人としての影響力の大きさでは諭吉と漱石では比較にならない。
『福翁自伝』を読むと、諭吉を通して日本人のエートスとは何か、それがわかる気がする。とても、170年前に生まれ、100年前に死んだ人が書いたとは思えない。現代人の姿を『福翁自伝』に見ることができる。諭吉ならきっと、草葉の陰で、「乃公(おれ)の本がまだ読まれているとは情けない」と嘆くだろうが、それほど、『福翁自伝』は古びていない。
(敬称略)
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