黄と赤のガーベラを植えたはずなのに、なぜか赤しか咲きません。
環境教育論の授業で、大飯原発差し止め訴訟判決文を読みました。
前時に配布して、読んでくることが宿題だったのですが、その上でなお判決文をグループで分担して、ポスターをつくって発表することに取り組みました。
その後、川内原発差し止め訴訟判決文要旨および両判決文の比較を資料として配布、次の時間までに読んでくること、その上で次回討論をすることを予告しました。
「ところで、授業方法という点で見ると、今日の授業はどうだった?」という私の質問に、「判決文の内容を共有できたのは良かったけれど、これに基づいての話し合いができなかった。次の時間に話し合いということだけど、1週間たつと忘れてしまう」
「なるほど。宿題として読んでくることになっていたので、プレゼン無しで討論しても良かったかな」
別の学生が「けれど、この内容を共有することがなければ、話し合いに入りにくいということもあるし、話し合っても共通の認識なしに話が進む気がする」
それで、挙手してもらうと、「グループで読み込んでプレゼンすることが必要だった」と感じた人が圧倒的多数でした。
大学生でも「読んできて」だけでは新聞記事が読み込めない人が増えていると感じています。時間はかかっても、グループワークは意味があります。
90分で討論まで収めきれない私の力量の問題か?
いやいや、学生のことを考えると、やはり時間は必要。
こういう授業には、90分は短すぎる。
小・中・高校も含めて、授業時間は講義形式を考えたもので、短すぎます。
アメリカの小学校で見たように、長い間隔で時間を区切りながら、内容は教師の裁量で区切るというスタイルが採用できないものでしょうか。