【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】
●里山資本主義異論
「里出資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」
の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ、と語
られ、その根拠地としてオーストラリアを見習い日本の里山に求め、(1)貨幣換算できない物
々交換の復権、(2)規模の利益への抵抗、(3)分業の原理への異議申し立て脱貨幣システム
の3つの大義をかざし、新しい里山資本主義を、具体的には、世界最先端の技術を用いた「木質
バイオマスエネルギー技術」と「集成材技術」をもつて構築、それも、「国全体として化石燃料
代で貿易赤字に陥っている日本では、一部産業の既得権を損なってでも、自然エネルギー自給率
を高めることが重要だ。その先には、同じく化石燃料代の高騰に苦しむアジア新興国に向けての、
バイオマスエネルギー利用技術の販売といった、新たな産業の展開までもが期待される」と説く。
しかしながら、(2)(3)に対する異議申し立てはなかなか難しいと考えてしまうが、それも
運動次第で克服できるというが、それらを踏まえ、読み進めてみよう。
オーストリアはエネルギーの地下資源から地上資源へのシフトを起こした
里山資本主義は近代化に取り残された過疎地だけの専売特許ではない。人ロー千万に満た
ない小国ながら一人当たりGDPで日本を上回るオーストリアでは、国を挙げた木質バイオ
マスエネルギー活用が進みつつある。それも東西冷戦が終結して以降、過去十数年の間の劇
的な変化だ。
日本人はすぐに国難だの厳しい国際競争だのと言いたがる。だがオーストリア人の身にも
なって考えて欲しい。古くは神聖ローマ帝国の中核国家として、その消滅後もオーストリア
=ハンガリー帝国を名乗って、今の何倍もの版図を有する欧州の大国だった。しかし第一次
大戦の敗戦国となって帝国は解体、第二次大戦ではよりによって自国出身のヒットラーが率
いるドイツに真っ先に占領されてしまった。日本周辺で最近流行の領土問題にしても、住民
が追い出された北方領土を除けば、無人島に関する争いだ。対してオーストリアは、大国と
しての地位のみならず、首都ウィーンの鼻先にある地続きの領土までも失ってきた。
それでもオーストリアは、冷戦の間は、旧ソ連圈に向かってくちばしのように突き出した
位置から、鉄のカーテンに開いた僅かな穴として(いわば日本の鎖国時代の長崎のように)
東西欧州の交易拠点になっていた。しかしベルリンの壁の崩壊でそうした特異な地位も失わ
れてしまった。
歌舞伎や文楽、浮世絵といった日本独特の文化が花開いていた江戸時代、オーストリアで
はワルツや交響楽、オペラといった欧州文化の粋が花開いていた。カフェでコーヒーを飲む
習慣も、フランス料理の原形となった料理文化もこの時期のオーストリア発祥だったし、2
0世紀初頭にはクリムトに代表される画壇が華やかだった。時は流れ、日本発のカジュアル
文化、たとえばマンガやアニメ、カワイイ洋服、映画に絵画、それに日木食は、引き続き世
界に評価され発信されている。
しかしオーストリア発の現代文化と言われると、女性に人気のスワロフスキーのクリスタ
ルガラス製品以外、ちょっと具体名は思いつかない。チロリアンやチロルチョコは福岡県の
産品だし、戦後の一時期日本でも絶大な人気を誇ったトニー・ザイラー以降、有名人も出い
ない気がするというと失礼だろうか(出身者としてはアーノルド・シュワルツェネッガーが
いるか、有名になったのは渡米してからだ)。
だが、そのように歴史的に見れば停滞・後退を重ねてきたオーストリアは、にもかかわら
ず質的にも金銭的にもとても豊かな生活の営まれる、美しい民主主義国だ。すぐ隣の旧ユー
ゴスラビアの内戦も終わり、ようやく有史以来? の完全な平和を満喫している。そしてそ
こで、前章に書かれたとおり、まさに世界最先端の技術を用いた、木質バイオマスエネルギ
ー革命が起きつつある。
オーストリアは日本同様に、いや石炭も出ないだけに日本以上に化石燃料資源に恵まれて
いないばかりか、内陸国なので中東から来た巨大タンカーが横付けできる港もない。原発は
稼働前に自ら封印してしまった。にもかかわらず、いやそれ故に戦略は絞れており、自然エ
ネルギーで行くという推進姿勢に揺らぎはない。エネルギーの安定なくして国際経済競争に
は勝てないというのは、原発再稼働を望む一部日本人に共通の意見だが、日本以上に条件不
利なオーストリアで国産自然エネルギーの活用がどんどん進んでいるという事実にも、もっ
と目を向けてもらいたい。
人ロー千万に満たない小国だからできることだと考える方も、東京や大阪はともかく、オ
ーストリアと同等以上の森林資源に恵まれ人口規模も類似している北海道、東北、北関東、
北陸甲信越、中四国、九州などで同様の路線を追求することは不可能なのか、よく考えてみ
るべきだ。できないはずはない。
ただ、ここでも真庭と同じ問題を指摘せねばならない。オーストリアで木質バイオマスエ
ネルギーが急速に普及しているのは、ペレットにできる製材屑が豊富にあるためだ。つまり、
集成材による建築が急速に広まっているからこそ、地下資源から地上資源(森林)へのエネ
ルギーのシフトも実現できている。現地視察を重ねている中島さんの話では、石造りの町と
いうイメージの強いウィーンも、昔は木造建築が主流の町だったそうだ。産業革命以降木を
切りすぎて、木材がなくなったので石造りの町並みへと移行してきたのだが、最近は温もり
ある木造建築への回帰志向が強まっているという。日本と違って消防法や建築基準法の改正
が進み、中高層の集合住宅への集成材の利用も可能になった。最近は9階建ての木造マンシ
ョンまでできているらしい。だから林業が復活し、大量の木くずも発生する。真庭のところ
でも述べた、集成材の耐久性、防火性を考えれば驚く話ではないのだが、日本の法制度の下
ではその実現はまだまだだ。
石灰石鉱山の多い日本では、セメントが唯一自給できる鉱物資源であるということ、鉄鉱
石は自給できないにもかかわらず世界有数の製鉄国であるということも、法制度の壁以上に
集成材建築の普及を妨げている要因であるかもしれない。とりわけ建築に使う鋼材は、電炉
社が国内で発生する廃材をリサイクルして製造しているため、その利用はある意味ではエコ
フレンドリーでもある。それに加えて欧米では余り見られない「新建材」の開発が進められ
てきたことも、木材を使わない森林国・ニッポンの今を形作ってきた。つまり、これから日
本で集成材の利用を増やして木くずを生み、木質バイオマスエネルギーを普及させて自然エ
ネルギー自給率を高めることは、日本経済の安定性を高めることは間違いないのだが、多く
の産業の既得権を侵害することでもあるのだ。
ではあきらめるべきなのか? そんなことはありえない。国全体として化石燃料代で貿易
赤字に陥っている日本では、一部産業の既得権を損なってでも、自然エネルギー自給率を高
めることが重要だ。その先には、同じく化石燃料代の高騰に苦しむアジア新興国に向けての、
バイオマスエネルギー利用技術の販売といった、新たな産業の展開までもが期待される。
だが、既得権がよってたかって政策を骨抜きにしてしまうのはこの分野だけの話ではなく、
国全体としての方向転換は一朝一タには行かないだろう。だからこそ、市町村単位、県単位、
地方眼位での取り組みを先行させることが、事態の改善につながっていく。セメントや新建
材のメーカーだって、自分の工場のある県での木造建築増加の取り組みには、新分野進出の
模索だということで協力するかもしれない。
日本では、国にできないことを先に地方からやってしまうことが、コトを動かす秘訣なの
だ。地方ごとに、人口規模では大差ないオーストリアになったつもりになって、彼の他の取
り組みに学んでいくことが、大事なのではないだろうか。
二刀流を認めない極論の誤り
前にも述べたとおり、われわれの考える「里出資本主義」とは、お金の循環がすべてを決
するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しない
サブシステムも再構築しておこうというものだ。最初の動機はリスクヘッジかもしれない。
何かの問題でお金の循環が滞っても、水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心
安全のネットワークを、予め用意しておきたいという思いが、脱出資本主義への入り口とな
る。しかし実践が深まれば、お金で済ませてきたことの相当部分を、お金をかけずに行って
いくことも可能になってくる。生活が二刀流になってくるのだ。
このような仕組み、高度成長期に置き去りにされた脱出や離島などに綿々として続いてき
た生き方は、日本の公の場での経済議論、たとえば政府の経済政策の中では、どうしていつ
も無視されているのだろうか。日本人の生活において里山資本主義の担っている部分が、マ
ネー資本主義の担っている部分に比べて、無視できるほど小さいと思われていることもある
かもしれない。
だが、それだけではないだろう。里山資本主義という考え方自体が、マネー資本主義を支
える幾つかの基本的な前提に反する部分を持っていること。里山資本主義の根底に、マネー
資本主義の根幹に逆らうような原理が流れていること。これが政府内の経済運営関係者に、
なんとも言えない違和感を覚えさせるからではないだろうかと、筆者は感じている。
高校で習ったのを覚えておられる方もいるだろう、「矛盾する二つの原理をかち合わせ、
止揚することで、一次元高い段階に到達できる」という考え方を、弁証法という。この弁証
法的思考を生んだのが、ドイツ語文化圏だ。そこに属するオーストリアで、マネー資本主義
的な経済成長と同時に、里山資本主義的な自然エネルギーの利用が追求されていることは、
むべなるかなと言える。対して日本人は、内田樹いうところの「辺境民」であるせいなのか、
海外から輸入された単一の原理にかぶれやすい。こういう考え方では、マネー資本主義に一
度手を染めたら最後、里山資本主義などというものは一切認めてはいけないことになる。
逆に、里山資本主義で行くのであれば金は一切使うなというような極論も出てきやすい。
飛鳥時代の律令制度、奈良時代の仏教、建武の新政のバックにあった朱子学、明治の文明
開化、昭和初期の軍国主義、終戦後のマルクス主義に、石油ショック以降のケインズ経済学。
いずれもその当時の国内のトレンド? を短い期間ではあるが一色に染め上げた。平成にな
ってのマネタリスト経済学(貨幣供給量を重視する、今の近代経済学の主流的学説)の隆盛
と、どうもまた同じことが繰り返されているように感じる。
落ち着いて歴史を眺めると、一瞬極端に高まる外来の極論への熱狂は、いずれは現実を突
きつけられて幻滅に変わり、輸入原理はその後時間をかけて日本流に変容していくのが常だ。
律令の枠外に武士が生まれて実権を握り、奈良の大仏から五百年を経て鎌倉仏教が勃興し、
江戸時代に武士道や商人道と融合した和製儒学が発達したように。あるいは資本家層を支持
基盤とした自民党長期政権が、マルクス主義者のお株を奪って国民の福利厚生充実と地域間
格差是正を掲げたように。大戦時の軍事のごとく、明治の導入当時の合理主義を失い、鴨越
的な奇襲攻撃志向と、現場の兵士に死の覚悟を強いる精神主義と、中枢幹部の傷の砥めあい
が主導原理となってしまって滅びてしまったという、日本化による失敗例もあるけれど。
しかしながら、小泉改革の頃から隆盛になり始めたマネタリスト経済学は、まだむき出し
の輸入原理のままだ。よく間くと、「中央銀行による貨幣供給量の調整で景気は上下いかよ
うにでもコントロールできる」というような、最盛期の旧ソ連においてもおいそれとは語ら
れていなかったであろう、究極の国家計画経済が実現できるようなことを唱える輩も混ざっ
ている。だが、歴史に学んで今後の展開を考えれば、日本でも早晩、何度かの痛い失敗を経
てではあろうが、米国直輸入のマネタリスト経済学がそのままでは通用しないことが一般に
自覚されるようになるだろう。
声高に「マクロ経済学を本当に理解しているのは自分だ」「いや自分こそが本物の理解者
だ」と叩きあっているような層も、そうなれば別の輸入原理に目移りしていく。かつてマル
クスの真の理解者たる自分を誇り合った輩が、いつのまにか転向して行ったように。その先
には、現実に沿った日本化の変容が待っている。いやもう始まっている。里山資本主義の内
包するマネー資本主義へのアンチテーゼが、そのような変容を促す力の1つとして作用する
ことは間違いない。
「貨幣換算できない物々交換」の復権-マネー資本主義へのアンチテーゼ①
そのような今後の展開を先取りして、里出資本主義の内包するマネー資本主義へのアンチ
テーゼを、幾つか列挙しておきたい。そしてこの矛盾の先にどのような止揚が起きるのか、
興味津々に見守っていこう。
里出資本主義がマネー資本主義に突きつけるアンチテーゼの第一は、「貨幣を介した等価
交換」に対する、「貨幣換算できない物々交換」の復権だ。物々交換で成り立ってきた原始
的な社会が、貨幣経済社会に移行すると、一気に取引の規模が拡大し、分業が発達し、経済
成長が始まる。この原理そのものはその通りなのだが、マネー資本主義に対するサブシステ
ムである脱出資本主義では、貨幣を介さない取引も重視する。ちなみに物々交換にも二通り
ある。デパートからお歳暮を贈り合うといった、貨幣で買った物品の交換と、貨幣で買った
のではないものの交換と。ここで言っているのは後者だ。
たとえば和田さんが、NHKという字を浮かび上がらせたカボチャを贈って井上プロデュ
ーサーの心を奪ってしまったことがあげられる。自家製のカボチャを一方的に贈っただけと
も言えるが、実は対価としてNHK広島の関心を引き出した。これはいったい何円に相当す
る取引なのか、そもそも等価交換なのかまったくわからないが、何か底の知れない価値が交
換されたことは確かだ。かく言う私も、「志民になろう」という味わい深い言葉の入ったカ
ボチャをいただき、「過疎を逆手にとる会」を支える一員の端っこに入りたくなって、支援
金ならぬ「志援金」を送金した。この場合には、自家製のカボチャが数千円に化けたことに
なるが、これが等価交換なのかどうなのか。そもそも和田さんたちは、お金よりも「志援者」
が増えた(ネットワークが広がった)ことの方を高んでいることだろう。
和田さんのニュースレターには「志援金を払っても何の見返りがあるとも思えませんが、
大物になった気分にはなれます」とあったが、まあ大物気分になれさえすれば、当方として
もそれが幾らだったかなんてことはどうでもいい。
中島さんの場合はどうか。お金を払って製材屑を引き取ってもらい、他方で電力を買って
いた今までのやり方を、自分で本くずを燃やすことで発電するのに切り替えたということは、
結局自社内で本くずを電力に物々交換したわけだ。その結果、億円単位の取引が消滅してし
まった。その分、貨幣で計算されるGDPも滅ってしまったことになる。だが真庭市の経済
がこれで縮小したわけではない。市外に出て行ったお金が内部に留まるようになっただけだ。
このように物々交換というのは奥深い。特定の人間たちの間で物々交換が重ねられると、
そこに「絆」「ネットワーク」と呼ばれるものも生まれる。このネットワークがまた、いざ
というときには思わぬ力を発揮したりする。とはいっても結局金銭換算できない話なので、
幾ら交換がされようと、絆が深まろうと、GDPにはカウントしようがない。だがそうだと
いうだけで、その価値を否定できるものだろうか。
高校時代の漢文の教科書にあった荘子の一編を思い出す。「混沌」というのっぺらぼうの
ような生き物の挿話を。厚意で混沌に目と鼻と口と耳を開けてやったら、意に反して混沌は
死んでしまった。何か何だかはっきりしないことを、はっきりさせようと作為することで、
逆に価値を損ねるということもあるのだ。日本がまだ縄文時代だった頃に、恐らくそれまで
一千年以上の文明の試行錯誤を経て中国の先賢かたどり着いたこの教訓を、現代日本人も改
めてかみしめてみてはどうだろうか。
規模の利益への抵抗-マネー資本主義へのアンチテーゼ②
里山資本主義がマネー資本主義に突きつけるアンチテーゼの第二は、「規模の利益」への
抵抗だ。なるべく需要を大きくまとめて、一括して大量供給した方が、コストは下がり無駄
は減り経済は拡大する。この規模の利益の原理こそ、現代経済社会をここまで大きくし最大
多数の最大幸福を実現した根本思想なのだが、何とまあそれに対して、「脱出で個人個人が
木を燃やし農産物を育てて暮らす方がいい」なんて言い出すのだから、ふざけている。里山
の住人が数十万円で小型車を買えるのも、規模の利益の原理に則った大量生産販売の結果で
はないか。
だが、地元で取れた市場に出せないような野菜を地元福祉施設で消費するという、およそ
規模の利益から外れたような営みが、前に述べたように地域内の径済循環を拡大し、さらに
は金銭換算できない地域内の絆を深めているという事実もある。胆はマネー資本主義に依存
してお安く買わせていただくが、食料と燃料に関しては自己調達を増やそう。このいいとこ
取りのご都合主義こそ、サブシステムたる里山資本主義の本領だ。それどころか燃料代を節
約した分、もう一台軽トラックを買うかもしれない。
それだけではなく、規模の利益の追求には重大な落とし穴がある。規模の拡大は、リスク
の拡大でもあるということだ。システムがうまく回っている間はいいが、何か敵船が生じる
と、はるか広域にわたって経済活動が打撃を受ける。震災時の東日本の電力など、その典型
だった。はるか彼方で一括大量生産された電気に頼っていた首都圏の営みは、津波と原発事
故によって一瞬にして凍りついたのだ。だが、計画停電の殼中でも、あるいは場所によって
は一週間もIケ月も電気が庄まっていた北関東以北の被災地にあっても、ガス発電システム
やソーラーシステムを自宅に取り付けていた家にだけは灯りがともっていた。規模の利益に
背を向けた、平時には非効率なバックアップシステムが、見事に機能したのだ。和田さんか
らエコストーブのノウハウを伝授されて、化石燃料も電力もない生活を雑木利用でしのいだ
面々もいた。
震災時の仙台では、電力や水道はかなり迅速に復旧して行ったと間くが、道路の被災にガ
ソリン不足もあって、物流システムは一週間程度、麻蝉していた。だが店頭に食料がなくな
っても、多くの家庭が急場をしのぐことができたという。親戚の誰かに農家がある住民が多
く、そういう家では秋に一年分の新米をもらっていたので、少なくともカロリーだけは取る
ことができたというのだ。より大きな規模の利益を目指して、取れただけ市場に出荷すると
いうことをせず、.部を金銭化せずに親戚の間で分け合うというような習慣が、結局震災リ
スクをヘッジした、
東京で同じような物流網麻蝉が起きたらどうだろうか。何でもお余で買うという習慣しか
ないマネー資本主義の体現者のような首都圏民は、全員がうまく食べつないで行けるのだろ
うか。里山資本主義的な要素を徹底的に削って、規模の利益の拡大に邁進していくと、どこ
かでツケを払うときがくるのではないだろうか。
分業の原理への異議申し立て-マネー資本主義へのアンチテーゼ③
そして里山資本主義がマネー資本主義に突きつけるアンチテーゼの第三は、リカードが発
見した分業の原理への異議中し立てだろう。分業の原理とは、個人個人が何でも自前でして
いる社会よりも、各人が自分のできることの中で最も得意な何か一つ(比較優位のある分
野)に専念して、その成果物を交換する社会の方が、効率が上がり全体の福利厚生も増すと
いう、何とも含蓄のあるセオリーだ。
ところがこの現代経済社会の根幹を成す原理に対して、里山資本主義の実践者は、ドン・
キホーテのように挑む。和田さんとその仲間を見ていると、薪も切れば田畑も耕す。少々の
大工仕事は自分でこなすし、料理もお手の物。観光事業者のようなこともすれば、通販事業
者まがいのこともあり、あっちとこっちをつなぐイベントプロデューサーのようなこともす
る。場合により講演までして歩く。一人多役なのだ。どれ一つとっても、それだけを専業に
する人にはかなわないかもしれないが、でも合わせ技一本でしのいでしまう。
リカードが見たら過去への退行と思うかどうか知らないが、でも実はこれが意外に効率的
なのだ。バレーボールや野球で、エアポケットのように誰の守備範囲にもなっていないとこ
ろにポトンとボールが落ちることがあるが、一人多役で補い合っているとそういうことがな
い。いつも同じ誰かだけが忙しくなるということもない。熟練してくると、専門家10人で
やることを、要領のいい▽人多役の人間五人で済ませてしまう、というようなことが起きる。
つまりリカード的分業は、各自の守備範囲を明確に区分けすることができて、かつその守
備範囲に重複がなく空白部分もできない、という条件が整った場合にはセオリー通りに有効
なのだが、実際の仕事はなかなかそう簡単に割り切れない、もう少し複雑な構造になってい
るということなのだ。
そのため現実社会では、ヘ夕に分業を貫徹しようとすると、各人に繁閑の差が出たり、拾
い漏れが出たりする。世界で最も効率がいいと思われる、日本のコンビニエンスストアの店
員の働き方を見るとよい。お客に対応する傍らで、倉庫から品物を出して来たり、商品棚を
整理したり、トイレを掃除したり、ゴミ箱の中身を片付けたり。少数のスタッフが一人多役
をこなして効率を上げている。さらには彼らの多くが、学生だったり主婦だったり劇団員だ
ったり、店の外にもやることを持っている人たちだ。
実は里山資本主義的な一人多役の世界は、マネー資本主義の究極の産物ともいえるコンビ
ニエンスストアの中にも実現していたのだ。逆に言えば、庄原市の里山もコンビニエンスス
トアなみに侮れない。
中島さんの銘建工業も、集成材メーカーであるはずが、発電事業者でもあり、木質ペレッ
トの製造・販売・輸出事業者でもある。視察を受け入れて地域の温泉の顧客を増やすところ
は、観光プロモーターのようでもある。どの誰某も規模は大きくはない。だが、一社多役の
どこにもないミックスは、組織に大きな活力を与えている。彼らだけではなく、筆者が全国
で出合う活力ある中堅・中小企業や、特色ある個人事業者は、むしろ一事業者多事業である
のが当たり前だ。
このような事実と、経済学の諸セオリーの中でも特にパワフルな分業の原理と、相容れな
いようにも思えるものがどのように庄揚されるのか、今後の展開は楽しみというしかない。
里山資本主義は気楽に都会でできる
以上にのような里山資本主義の話、お読みになった方はどう思われるだろうか。「田舎の
資源を活かして楽しそうな暮らしをしている人がいるんだな」、というレベルで受け止めら
れてしまうことが多いのかもしれない。だがそれだけだと、田舎暮らしを紹介するテレビの
人気番組を見てちょっといい気分になったというのと同じだ。かといって、皆が都会を飛び
出して田舎に移り住むというのもまったく現実的ではない。やれる人はぜひやったらどうか
と思うけれども、ほとんどの人はそうもできないだろう。
だが、0か1かで考える必要はない。里山資本主義はたおやかで、猛々しく主張すること
はないけれども一応「主義」なので、里山で暮らしていない圧倒的多数の日本人の心の中に
も、きちんと居場所を見つけることができる。都会の生活者であっても、里山も畑も身近に
まったく存在しなくとも、今の生活をちょっとだけ変えて、ささやかな実践をすることは可
能だ。
たとえば、多くの人がやっていることだと思うが、普段何気なくやっている食品や雑貨の
買い物の際に、敢えて「顔の見えるもの」、どこか特定の場所で特定の誰かが地元の資源を
活かして作っているものを選んでみる。あるいは経営している人の顔の見える小さな店に、
敢えて足を運んでみる。少し高いかもしれないが、そこは「大物になった気分で、何の見返
りがあるともわからない志援金を払ってみる」というのはどうだろうか。いつもは黙って買
い物をしている人であっても、たまには店の人と会話してみるというのもよい。お金でもの
を買うという行為にくっつけて、ささやかに笑顔やいい気分を交換しておくと、ささやかな
絆が生まれるかもしれない。
あるいはどこかに出かけたときに敢えて、その上地の材料を使ってその土地で作られた土
産を探して買ってみる。同じような全国チェーンの店に寄ったとしても、その地方にしかな
いローカルな品物が置かれていたりするので、敢えてそういうものを選んでみる。旅先の飲
み屋では、敢えて地ビールや地酒ばかりを注文してみる。口に合わないものもあるかもしれ
ないが、そこは大物になった気分で、「志援金を払ってやった」と思っていればいい。
人に何かを贈るときに、「相手の好みがわからないので全国どこにでもある定番商品を」
なんて思わずに、自分の町、できれば自分の隣近所でしか手に入らないものを選ぶ。自分の
手作りなら最高だ。最近東京の銀座のビルの屋上で、地元有志の作ったNPOがミツバチを
飼っている。そのハチたちが近所の並木や日比谷公園の花から集めた蜂蜜は、銀座のオリジ
ナルの地産地酒品として人気となり、老舗洋菓子店でもその蜂蜜を使ったケーキが飛ぶよう
に売れている。世界から一流品の集まる銀座ですらそういうことが起きているのだから、皆
さんのご近所でも、何か必ず「ここにしかないもの」はあるはずだ。
そうこうしているうちに、都市部であっても近所に空き地が増えてくるかもしれない。空
き地が増えるなんて不景気な話のように思えるかもしれないが、実は景気には関係ない。多
年少子化か進んだ日本ではいま、一年に1%のペースで64歳以下の人の数が減っている。
だがそれに応じて国土が縮んでいくわけではないので、土地も家も年々、空いたところが多
くなっているのだ。そういう空き地は、最初百円駐車場に、百円駐車場が成り立たないとこ
ろでは月ぎめ駐車場になることが多いのだが、そのうち月ぎめ駐車場もそんなにいらないと
いうところまで来ると、放置されたままの状態となってしまう。そんな土地を持て余してい
る人が身近にいたら、思い切って話をして、一時的に借りて畑にしてはどうだろ。
家を買わずとも賃貸や親との同居でなんとかなってきた人。もし将来の住宅購入の頭金が
用意できているのであれば、思い切って田舎にセカンドハウスを買ってはどうだろうか。い
やその前に何年か、試しに縁のあった田舎に家を借りて通ってみて、本当に気に入れば物件
購入まで進めばよい。東京よりもずっと味の濃い農産物やおいしい水や空気が、こんなに安
い値段で手に入るのかと驚くだろう。家の手当てまではいかなくても、農地だけ賃借して週
末農業に通うという手もある。
以上いろいろ挙げてきたが、後の方の難度が高いものほど、何から手をつけたらいいかわ
からない入相手に何かしらの支援をしてくれる企業やNPOやサークルが続々立ち上がって
いる。雑誌も書籍も、ネット情報も豊富だ。これは21世紀になってからの日本の大きな変
化であり、しかも東日本大震災以降、流れはどんどん大きくなってきている。きまぐれなお
試しから始めて、深入りしたい人は深入りできる、イヤになったらいつでも手を引けるよう
な、気楽なシステムが年々できあがりつつある。利用してみてはどうか。
あなたはお金では買えない
「里山資本手義はいい話なので、政府の補助金を使ってどんどん推進して欲しい」という人
がいるかもしれない。筆者はそうは思わない。
日本でもインターネットの利用が、ある時点から爆発的に増えて、何かの事業者であれば
ホームページを持つのが当たり前になり、ブログを持つ個人が増え、さらにフェイスブック
だ、ツイッターだとハードルの低い仕組みが登場してきた。これは、補助金を配ったから利
用者が増えたのではない。参加することが面白いから、何かの満足を与えるから、多くの人
が時間と労力を割くようになったのだ。使わない人は使わない。それどころか気付いていな
い人は気付いてもいないが、強制される必要もない。本当の変化というのはそのようにして
起きるものだ。そして筆者は、里山資本主義の普及も、ネット初期のような段階にまで達し
てきているのではないかと感じている。面白そうだから、実際にやってみて満足を感じるか
ら、そうした実感を持つ個人が.定の数まで増えることで、社会の底の方から、静かに変革
のうねりが上がってくると思っている。
というのも、里山資本主義を一足先に実践している人は、本当に面白そう、満足そうなの
だ、なぜなのか。実は人というものの存在の根幹に触れる問題が、マネー資本主義対里山資
本主義の対立軸の根底にあるからだ。マネー資本主義は、やりすぎると人の存在までをも金
銭換算してしまう。違う、人はお金では買えない。あなただけではない。親も子どもも兄弟
も買うことはできない。本当にお互いに寄り添えるような人生の伴侶も、買って来るもので
はない。あなたの親や子どもや伴侶にとっても、あなたはお金に換えられるものではないは
ずなのだ。
ところが、マネー資本主義に染まりきってしまった人の中には、自分の存在価値は稼いだ
金銭の額で決まると思い込んでいる人がいる。それどころか、他人の価値までをも、その人
の稼ぎで判断し始めたりする。違う、お金は他の何かを買うための手段であって、持ち手の
価値を計るものさしではない。必要な物を買って所持金を減らしても、それで人の価値が下
がったわけではないし、何もせずに節約を重ねてお金だけを貯め込んでも、それだけで誰か
があなたのことを「かけがえのない人だ」とは言ってはくれない。そう、人は誰かに「あな
たはかけがえのない人だ」と言ってもらいたいだけなのだ。何を持っていなくても、何に勝
っていなくても、「何かと交換することはできない、比べることもできない、あなただけの
価値を持っている人なのだ」と、誰かに認めてもらいたいだけなのだ。さらにいえば、何か
の理由でお金が通用しなくなったとしても、何かお金以外のものに守られながら、きちんと
生きていくことができる人間でありたかったはずなのだ。
そうであれば、持つべきものはお金ではなく、第一に人との絆だ。人としてのかけがえの
なさを本当に認めてくれるのは、あなたからお金を受け取った人ではなく、あなたと心でつ
ながった人だけだからだ。それは家族だけなのか。では家族がいなかったら、家族に見放さ
れたらどうするのか。そうではない。人であれば、誰でも人とつながれる。里山資本主義の
実践者は、そのことを実感している。
持つべきものの第二は、自然とのつながりだ。失ったつながりを取り戻すことだ。自分の
身の回りに自分を生かしてくれるだけの自然の恵みがあるという実感を持つことで、お金し
か頼るもののなかった人びとの不安はいつのまにかぐっと軽くなっている。里山資本主義の
実践は、人類が何万年も培ってきた身の回りの自然を活かす方法を、受け継ぐということな
のだ。
里山資本主義の向こう側に広がる、実は大昔からあった金銭換算できない世界。そんな世
界があることを知り、できればそこと触れ合いを深めていくことが、金銭換算できない本当
の自分を得る入り口ではないだろうか。
中間総括「里山資本主義」の極意/『里山資本資本主義』
提案の趣旨は理解できるが、「サブシステム」と認めているように、部分的な、補完的な経済、
それも、「マネー経済」(=英米流金融資本主義)の悪弊を是正する有力なシステムのひとつで
あろうが、そして、わたし(たち)が考える、デジタル革命渦論のエネルギー領域の"オール・ソ
ーラー・システム"(=太陽道プロジェクト構想)と融合することで、「贈与経済」を実現させて
いるだろう。
この項つづく