やっとのこと、体制が整った感じ。適宜、時宜を得て考察を進めることに。取り敢えずは環境
の影響からはじめた。
【遺伝子組み換え食品のリスク】
(4)環境への影響
① 生態系のバランスを乱す
作物に組みこまれた新たな遺伝子が、複雑な生態系の中で他の生物に転移していくと、
連鎖反応を引き起こして、予想もつかなければ制御することもできない影響をもたらすだ
ろう。具体的には次のような可能性がある。(197)
遺伝子組み換え作物の遺伝子が野生種の植物に転移し、しかもその遺伝子がウィルス耐
性遺伝子や窒素内定遺伝子、あるいは限界条件でも生存できるような遺伝子の場合、その
野生種は生命力が強くなり、他の野生種にとって代ることになるだろう。その結果、生物
の多様性を減少させ、生物間の相互作用を破壊し、連鎖反応を起こして予想もつかないよ
うな悲惨な結果を生む可能性がある。
土壌の中が、遺伝子汚染によって突然変異を起こす場所(ホットスポット)になる可能
性があるのだ。DNAの専門家アランークーパー教授(オックスフォード大学)は、「遺
伝子組み換え作物や動物を野外に開放すれば、すぐにそうした事態が起こりえる」と警告
する。遺伝子組み換えの推進派はこれまで、―DNAは野外ですぐに分解する―と主張し
てきたが、最新の研究によれば、ある種の土壌の中でDNAは四〇万年も生き残ってきた
ことがわかっている。(198)
事実、遺伝子操作されたDNAが土壌の申で少なくとも二年問も生き残り、その間、複
製を続けていたことも確認されている。(199) 我々が知るレベルの微生物学では、人工
的な細菌が土壌の中でどのように変化するのか予測できないのだ。
この問題は、バイオエタノールの濃度を高めるために遺伝子操作した土壌菌クレブシエ
ラの事例でも検証されている(遺伝子操作した土壌菌クレブシエラを使って、木材や農産
物の残滓を分解させ、エタノールを生産しようとしたのである)、ところが遺伝子操作さ
れたクレブシエラ菌は土壌の中で優勢となり、土壌を肥沃にする自然の微生物を減少させ
た。さらにこの菌は、他の微生物にとって有毒なエタノールを生産して、土壌の化学組成
も変化させたのである。実験によれば、この遺伝子操作されたクレブシエラ菌を土壌に入
れたら麦を枯らしてしまった(遺伝手操作をしていない一般の菌が麦に影響を与えること
はなかった)。もしもこうした菌を野外に放出したら、他の植物を死滅させる可能性もあ
るだろう。そうした事態が起きた後になって、菌を除去するのはほとんど不可能である。
土壌の中で問題が起きる可能性はこの他にもある。たとえば遺伝子組み換えナタネを栽
培した土壌と一般のナタネを栽培した土壌とを比べると、土壌中の徹生物の生態系に違い
があることが発見された。あるいは、Bt毒素をもつ遺伝子組み換え作物の綴の周辺では、
土壌の中にBt毒素が集積されるため、その殺虫成分が少なくとも半年は持続する。その
結果、土壌を肥沃にする徹生物の活勣にも悪影響を及ぼしている可能性があるのだ。
② Bt作用の毒性
害虫に抵抗性をもつ遺伝子組み換え作物には、Bt毒素の遺伝子が組み込まれている。
遺伝子操作していない一般のBt毒素は有機農業の殺虫剤としても使用されており、作物
に散布してもその効力は一時的だが、遺伝子組み換え作物の中に組みこまれたBt毒素は
常時、殺虫効力を発揮しているという違いがある。そのため、様々な調査・研究から、B
t作物は益虫に対しても悪影響をもたらすことがわかっている。
・害虫を捕食するクサカゲロウヘの影響を調査したところ、Btトウモロコシはその成長
を妨げ致乾季を高めた。
・Bt作物は、ミツバチなどの受粉を媒介する昆虫に対して、予測できない影響を与える
可能性がある、害虫抵抗性ナタネの成分をミツバチに給田したところ、花の香りを識別
できなくなったという研究報告がある。
・害虫抵抗性ジャガイモを琵べたアブラムシをテントウムシに給餌したところ、産卵数が
少なくなり、寿命も短くなった。
・コーネル大学のジョン・口ージー教授か1999年に発表した研究によれば、遺に子組
み換えトウモロコシの花粉がついたトウワタの葉を、オオカバマダラ蝶の幼虫に食べさ
せたところその多くが死んでしまった。約半数の幼虫が4日目以内早死に、残りの半数
も半分程度の大きさにしか成長しなかったのである二般のトウモロコシの花粉を良べた
幼虫が死ぬことはなかった)。
③ 増加する除草剤の使用量
先に述べたように、チャールズ・ペンブロック博士が2003年11月に発表した報告
書によれば、遺伝子組み換え作物の商業栽培が始まったことで、米国における農薬の使
用量は増えている。おもな原因は、除草剤耐性大豆などに使用する除草剤の使用量が増え
たことにある。農家が除草剤を散布すればするほど、雑草は除草剤に枯れにくくなり、除
草剤に耐性をもつ雑草が増えている。
そのため私たちが目にする食べ物や水、環境全般にわたって除草剤が残留することにな
る。また米国では、グリホサート農薬が過度に使用されたことで、ヒ四種類の植物が絶滅
の危機にある魚類も10ppm濃度で死ぬ可能性があり、ミミズの死亡率も高まる。
※ 脚注
(197)Dr. Jhon Fagan, NLP Policy statement on Genetic Engineering,1995,pp.110-112
(198) Alan Cooper,"Persistence of ancient DNA in soil has implications for GE',Royal Society New
Zealand
(199) Gebhard and Smalla, 'Monitoring field releas of genetically modified suger beets for persistence
of transgenic plant DNA and horizontal gene transfer',FEMS Microbiology Ecology,1999,vol.28,
no.3,1999,pp.261-272
(201) Anderson, Genetic Engineering, Food, and Our Environment
アンディ・リース著『遺伝子組み換え食品の真実』,pp.149-152
1999.09
【全球に波及展開する"クール"】
この章では、マクルーハンが使った言葉、"クール"について、高度あるいは超高度消費社会の
構造の解析を平易に語っている。そして、-世界のこれからの産業未来像を考える場合、こう
いう事態は勘定に入れておいた方がいいと思います。文明はそういうふうにいくか、そうでな
くて、十九世紀にマルクスが言ったように、世界同時革命で、同時にひっくり返して再編成す
る以上に、平等なやり方はないわけです。マルクス主義の試みが現実性がなくなった現在では
贈与による平等化を考えて、産業分担するという方法は一考に価します-と政策提案している
が、1995年に幻として消えた、記念講演企画の大本がこの章で語られ、また、アベノミクスの
第三の矢のコア理念である(べき)「贈与による平等化」が見事に語られている。
●目に見えないものを相手にする産業
地方は変りばえがしないじゃないかと言う場合、以前はどこでも、農業とか漁業とか、
自然を相手にする仕事をしているところというイメージで考えました。
例えば農業を例にすれば、春に種を蒔いて、秋になったら収穫する。途中で雑草を取っ
たりして手入れをよくする。冬には土を耕してひっくり返して春に備える。同じ季節の同
じころにまた種を蒔いてという、そういう繰り返しで、一年間の変化は春夏秋冬、それだ
けしかない。それだけを何年も何年もやって、東洋では数千年以上同じようにそれをやっ
てきました。人間の気持も社会の環境も変化のしようがない。変化はただ春夏秋冬だけだ
と、そういうことになります。
ところが、都会の暮らしは、地方から人が来たり、また出て行ったりして、産業にして
も、昔は手織物とか、家内工業的なもので、製品ができるたびに気持も変化するというこ
とになりますから、もともと都会のほうが変化しやすいわけです。
今は農業がすっかり少なくなって、日本では農業人口7、8%ぐらいになってしまった。
昔なら都会の主要な産業だった工業、製造業も今は30%ぐらいです。そして残る60~
70%は情報産業も含めたサービス業、第三次産業になっています。これは、例えばお医
者さんだったら、病気だとなると薬を出して、治った治ったと、そういうことですから、
別に季節が決まっている製品をつくる仕事というわけでもない。そういう産業が主になっ
てきました。しかも、これだけの材料でこれだけのものができたと、製造業はそうですけ
れども、それさえも30%ぐらいになっちやった。つまりもう大部分が、目に見えないも
のを相手にする職業になってしまっています。
都会の変化は、少し前の、農村と都市といったときの、製造業を主体とした都市近郊型
の産業とかいった時代と比べても、ずっと早く大きくなっています。今はそのころと違っ
てハイテクのデカイ装置などないんだけど、実は産業はさらに進んでいるというところで
大部分の人が働いています。そして、その人たちの感覚が、限りなく早い人と、限りなく
遅いような人というように千差万別に多様化してしまって、そこにもものすごい変化とい
うか、格差がある。都市と農村といった時代、あるいは、製造業と農業、漁業といった時
代よりも、もっと変化が大きいわけです。しかも、都市の中でも昔ながらの製造業をやっ
ているところと、最先端を行くハイテク都市になっているところとの開きもできているか
ら、格差がなおさら大きく見えてしまうということは言えるんじゃないでしょうか。
情報化産業が高度だと言っても、別にびっくりすることもないと思いますが、オフィス
でハイテクの情報化装置を日常的に使っていて、産業の手段がどんどん高度になっていっ
たということで、それ以上の意味合いはないと考えれば、それでいいんだと思います。
情報化、ハイテク化が進んで、特別、人間の精神とか思想に変化が起きたなんていうこ
とはありません。感覚は高度情報化に助けられて拡大してゆくでしょう。しかし、それは
直接精神が発達することではありません。たしかに、大部分が製造業という時代よりも感
覚が敏感になって、変化も多くはなっているでしょう。しかし人間の精神自体はこの感覚
というものでだけで発達する部分もありますが、そうじゃなくて、例えばギリシャ、ロー
マ時代からそんなに人間の心は変ってないじゃないかという部分もあります。
●人間関係は、これからもっと冷たくなる
情報装置の発達で家族関係とか、職業における人間関係もずいぶん違ってきたと思いま
す。インターネットのような高度な情報化装置と、次元の違う別の情報化装置がつなげる
ようになると、産業はますます高度化、立体化して、広がりをもつようになる。それは大
脳がつかさどる部分だけがそういうふうに発達していって、製造業の時代のように目に見
えての成果がどう、ということに関係が薄くなる。目に見える成果はなくても、産業とし
て成り立っていくし、さらに進んでいきます。人もまた、そういうところに従事している
から、形に変化はなくても、その仕事内容は日に日に高度になっていく。まるで違った世
界になってしまったわけです。
人間関係もそうです。いちいちデパートまで出かけていかなくても、インターネットと
か電子メールで注文すれば、品物が送られてくるようになっていく。今はまだそこまでい
ってないでしょうけど、家にいて、何々をどこそこに注文する、ということをインターネ
ットでやれば、百貨店から持ってきてくれるとか、そういうふうになるから、直接的な人
間関係はますます希薄になっていくでしょう。これは避けがたいから、人間関係が冷たい、
温かいという言い方をすれば、だんだん冷えてきて、氷点下に冷えるかどうかは別として、
とにかく冷えっきり、というふうになって、人と人とのつきあいも間に合っちゃうという
ことになるでしょう。
電話なんかでも、テレビ電話とかで、映像が出るようになれば、出かけていって会わな
くたって、顔を見ながら話ができる。だから、人間関係が疎遠になるというようも、高度
に複雑になるんだけど冷たくなる、という感じじゃないでしょうか。
●地域の差と年代の差
都会と田舎の差ということで言えば、それは年代の差ということじゃないでしょうか。
農業、漁業と、第一次産業が多かった時代に生まれて、一年の変化を四季だけで感じてい
るような暮らしをしてきた人たちが多い田舎での伝統的な生活と、めまぐるしく変化する
都会の暮らし方をしているところとでは、人間の感覚にズレができてきます。そうはいっ
ても、別な面では農村といえども、交通は発達して、テレビもあるしファックスもある。
都会と地方を均質にしてゆく作用も、負けず劣らず拡大しています・都会の後を追いかけ
ている部分も多いんです。
世代感覚で言えば、前の時代に育った人と後の時代に育った人の落差のほうが、都市と
農村を対比させてみるよりも、もっと大きくなっているんじゃないでしょうか。産業の落
差、そこから起こる人間関係の落差自体が、世代の落差に呑み込まれてしまう。親の世代
と子どもの世代、のんびりしていた時代に育った人と、その後に来た人たちと、一世代違
ったらまるで違っちゃうこの世代間の差は、都会と農村の差どころじゃなく大きくて、建
設的な楽天性をあまり発揮したくないですが、こうなってくると地域や年代によって、ま
た、文化装置の発達によって「変るもの」と「変らないもの」をはっきり洞察することが
必要になります。都会と地方を均質にしてゆく作用も、負けず劣らず拡大しています。
都会と田舎というような場所の落差、産業の落差とかが、世代の落差に移行しちゃうみ
たいなことです。都会に出て自由を味わって、地元に帰ってみると、田舎はうるさいなあ、
と感じることだってあるんでしょう。田舎もおいおい都会を後追いしていくはずです。で
も、世代間の問題というのは、田舎と都会とはまるで違うよっていうくらい大きく響いち
ゃうことがあるんじゃないでしょうか。
そういうことで、田舎でも世代が変っていけば、新しい考え方の人も増えてきて、三十
歳になったら女の人は結婚してるのは当たり前だなんていうことはなくなっていくでしょ
う。都会の変化は速いから、田舎でそういうふうになるころには、都会では、女の人は三
十歳になったら、もう五回ぐらい結婚してる、なんていうことになるかもしれない。落差
はなかなか埋まらないかもしれません。
●農業の国、ハイテク産業の国・・・、役割分担の時代
今、日本の産業でいえば、農業人口は7%ぐらい。そして、東京の農家は人口の0.2%
ぐらいと思います。だから、ゆくゆくは他のところもそうなる可能性があるわけです。
どのくらい時間がかかるかは別として、地方もみんなそうなっていく。農業はなくなっち
ゃいます。いまだって、農業をやるより、他人を雇って土地を耕してもらい、自分は勤め
に出る農家も多くなりました。農業人口は、日本でいえば東京の0.2%くらいに、イギリ
スでいえば同じくロソドンぐらいまでは減っていくと思ったほうがいいわけですね。
世界的にみても、農業は企業化されて、商社というか、大資本が農業経営をするように
なるでしょう。東南アジアは農業を専門にして、ョーロッパとか日本とかに農産物を輸出
する。遂にこちら(一地域)はハイテク化した第三次産業が大部分になります。そういう
面の分担がひとりでに出来てくるんじゃないですか。
例ば、米だって日本の米が特別じゃなくなるかもしれない。知り合いが言ってましたよ、
「アメリカでつくっているという日本酒を飲んだけど、うまかったよ」って。だったら、
アメリカで米をつくるということは、十分ありえるわけです。寿司なんかもうまいってい
う。そういう時代なんだと言われれば、そのとおりですよ。
極端にいうと、そうやって地方は地域分担でそれぞれの産業を担って行くことになるで
しょうね。気候もあるし、発達・未発達もあるでしょう。農業や漁業は後進地域といわれ
ているところが最後まで残るでしょう。それは分担になりますよね。ハイテクのところは
ハイテクだけをやる。農業、漁業をやるところはここ、というふうになって、不均衡は贈
与によって均すみたいなことになると思います。こういうことをすいすいと心安く考える
ことは決して愉快なことではありませんが、世界のこれからの産業未来像を考える場合、
こういう事態は勘定に入れておいた方がいいと思います。
文明はそういうふうにいくか、そうでなくて、十九世紀にマルクスが言ったように、世
界同時革命で、同時にひっくり返して再編成する以上に、平等なやり方はないわけです。
マルクス主義の試みが現実性がなくなった現在では贈与による平等化を考えて、産業分担
するという方法は一考に価します。
日本のことを考えても、東京と同じようなところまで、農業、漁業は少なくなるという
ふうに思ったほうがいいわけです。いま農業は、日本は七%ぐらいで、イギリスとアメリ
カも二%ぐらいです。国家としてはそこまで行くでしょうし、都市と農村という意味でい
ったら、都市は農業○・何%まで行っちゃうわけですね。そして、農業をまだたくさんや
っている、産業的にいえば後進地帯の国、地域が、農業担当、食料担当地域ということに
なるんじゃないでしょうか。それでは俺たちは損をするという声には、先進国側から贈与
という形で何らかの援助をする。そういう形になるんじゃないですか。
これが、一種のわかりやすい未来像です。そうなるだろうと思います。
そういうモデルを考えればいいわけで、世界中でどうなるか、というのなら、東京と鹿
児島を考えてみるといい。鹿児島とか岩手の農業は2、30%で、東京は0.何%ですか
ら、この差をどうしたらいいんだっていうことです。すると、東京のほうは食料を鹿児島
から買って、鹿児島に過剰なお金を払って、不平等にはしないというやり方以外にないと
思います。
日本の中ではそうだし、これは世界中でも同じで、そういうふうに考えられるはずです。
農業や漁業のように天然自然を相手とする産業は、単純に見えて手を加えればどこまでも
切りがないほど、奥深い改良の余地がでてきます。だから手を加えれば加えるほど利潤か
らは遠ざかってしまう、割の合わない産業です。後進地域がこれを担当するとすれば、貨
幣経済では割損になるに決っています。これを平等化するには贈与以外に考えられそうも
ありません。
現に先進地域から後進地域に貸与された資金は、回収不可能になっている部分も多いの
で、実質上贈与と同じことになっています。
●日本人は哲学が苦手
予想される情報化社会は、誰にとってもありがたいことです。好き嫌いは別にして、交
通は便利になる点でいいに決っています。今から三十年くらい前までは、食べていくこと
が大変だったわけだけど、今はたぶん、飢えて食べることが大変だという人はそんなにい
ないんですよね。食べることの欠乏がなくなっちゃってからの社会的な倫理、何がよくて、
何が悪いんだというところは、それ以前の時代とはちょっと違ってるんじゃないですかね。
現在先進国といわれる国々は、三十年ほど前にそういう社会を実現しました。それが実
現したところで、本当はもう資本主義じゃなくなってきたのかな、と言ってもいいのかも
しれません。でも、先進的なところは、明日食べるものがないということはなくて、漬物
だけでご飯を食べていたという人と、肉を食べていたという差は昔はあったろうけど、今
は肉を食べようと思えば、まあどんな人でも肉ぐらい食べられるというふうになっていま
す。そういう意味での格差の縮まりということもあるでしょう。そうなったときに、一体
なんのために生きているんだとか、生きてるかぎりどうすればいいんだとか、そういうこ
とを考える必要なんかないと思うようになった。目標自体が浮遊しはじめています。
日本人は特にそういうことを考えるのが苦手です。役に立つこととか、効果が形になる
ことはよくやります。例えば壁や陶土から美的な茶碗をつくる。芸術的といえるような家
具とか小道具をつくる、ということをやらせれば、日本人はそうとうなことまでできる。
だけど、二たす二はどうして四なんだというような抽象的で日常生活にかかおりの薄いこ
とをつきつめることにかけては日本人は苦手で、二たす二は四なんだから、何でかなんて、
どうたっていいじゃないかって考えるタイプです。
なぜ苦手なのか。それは不思議なところで、いろんな考え方があるでしょうけど、そこ
が日本人の特徴だといえば特徴なんですね。あるところである部分の思考が止まるわけで
すよ。思考が止まるし、言葉も止まる。そこから先は具体的なものを手掛りにしないと考
えられない。逆に言えば、具体的なイメージが与えられているものを修得するのはうまい
んですよ。だから、思考が止まるから野蛮だという意味ではなくて、ただ、それが特色な
んですね。日本をはじめ東洋はみなそうですけど、長いこと、それこそ何千年も農業ばか
りやってきたでしょう。農業をやるには道具として、鍬ぐらいあれば間に合っちゃうわけ
だから、そういうところで工業とか製造業が発達するはずがないんですよ。
ヨーロッパのように、土地がやせて欠乏しているところで、農業地域だったという時代
を速やかに通ったところは、工業生産が発達して、思考をめぐらして工夫することが得意
になります。そして、二たす二はどうして四になるんだろうか、ということばかり考えて
一生を送る人も出てくるわけです。日本にはそういう人は昔からないんですよ。その代り、
一生懸命に苦労して美的にいい茶碗や道具をつくって、名人とか、これはすごい茶碗だ、
と言われる人はいるんですね。
●西欧を追いかけることの勘違い
自然が豊富で環境に恵まれて、争いごとの少ない温和な気侯だったということもあるん
です。東北、北海道を例外とすれば、島国でヨーロッパのように寒く、厳しくないですか
ら、そういう特色があるわけです。
だから、ヨーロッパのほうが発達して、日本とか東洋は遅れてるんだ、と考えると間違
っちゃうところはあります。文明開化についてはその通りで、ヨーロッパにはとても及ば
ない工業や産業の発達の遅れがあり、その点については模倣し、追従するほかありません。
けれど文明開化が人類歴史の全体的なモチーフと考えると間違うかも知れません。そうで
はなくて、質が違うんだと言った方がいい面があります。
明治以降、ヨーロッパを追いかけてきた人たちは、まだ発達してないんだと思って、追
いつけ、追い越せでやったんだけど、それで本当にいいのかなってことは別問題なんです。
しかし、そういうことは考えるゆとりもなくやっていた。ところがそこには質の違いとい
うのもあるんです。近代・現代の文明開花はヨーロッパが先遣の役を果たしたが、現代以
後も歴史はそうなるかどうかは、まだ誰も知らないところです。
これはそうとうな人でも間違えるんですね。例えばおサルさんの頭蓋骨は扁平で、それ
が文明の発達につれてだんだん頭蓋骨が立ってきて、ヨーロッパ人はいちばん文明人なの
で頭蓋が立って鼻が高くなっているんだ。日本人はその中間ぐらいで、サルとヨーロッパ
人の中間でしかない。だから駄目なんだなんて、そうとうの考古学者でも、そういうこと
を真に受ける人がいるんです。でも、アフリカ人もアジア人も、もちろん日本人だって、
感覚的なことを日常の調度品とか道具にまで及ぼして、美的に考えるということだったら、
ヨーロッパ人より断然すごいと思いますよ。
アイヌの人でも、沖縄の人でも、「純粋のアイヌ人だ」「純粋の琉球人だ」という人は立
派ですからね。琉球、沖縄の人でも、九州人と似ている長い顔の人もいるけど、生粋な沖
縄の人は立派な頭蓋を持っています。純粋な沖縄の人は丸顔で、横顔が立体的で立派で、
眉も濃くてはっきりしています。でも、だからといって発違しているということでもない
んで、それは特色の問題です、比べてみてどうこうという問題ではないです。そこを勘違
いしてはいけないと思います。
「第10章 情報化社会が人間関係を冷たくする」P.173-186
吉本隆明 著 『僕なら言うぞ!』
この項つづく
【新弥生時代:大阪府大が閉鎖型植物工場建設】
フィリップスエレクトロニクスジャパンは、大阪府立大学の新植物工場に、フィリップスの植
物育成用LED照明「Philips GreenPower LED Production Module(フィリップス グリーンパワ
ーLEDプロダクションモジュール)」が1万3,000本採用されたことを発表。本LED照明は、赤・
青・白の光の中から用途によって最適な光の組み合わせを選ぶことができる。熱放射量の低いL
EDの特性により近接照射を可能とし、省スペースを実現できる。植物育成に最適な光の波長と
遠赤色を採用したLED照明を使用すると、消費電力量あたりHf蛍光灯と比べて2倍以上の収量が
得られることがわかっており、さらに、生育スピードが加速し、最大20%の栽培収量の増加ま
たは栽培時間の短縮が期待されている。さらに、従来の蛍光灯と比較して最大55%の消費電力
を削減できるという。