秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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水都大阪、かつての地形

2009-08-16 | 古代史のミステリー

大阪内陸部の茨木市になんで海ゆかりの神社があるの?
磯良疣水神社へ宮参りに行った時、北海道出身の婿はそう尋ねました。

 私だって子供の頃、なぜ二上山や生駒・葛城・金剛山を越えた奈良に都が出来たのか不思議だった。
1960年代の義務教育の教科書には河内海・河内湖っていうことは載ってなかったと思う。
江戸時代には河村瑞賢が大和川の流れを変えて治水に努力したと習いました。
瑞賢は、洪水がおこる原因は淀川と大和川の河口出口を塞ぐかたちになっていた九条島にあると判断し、九条島を貫くかたちの新しい水路、安治川も掘削したそうです。  

 

しかし「縄文時代には現在の大阪平野は河内海だった」
これは知らなかった。
この事実をきっちりと知ったのはここ数年です。
きっと日本各地、今の海岸線で歴史をふりかえると納得いかないものも、かつての地形を知ると見えてくるものが多々あると思います。  
    小倉百人一首 19番 
伊勢(平安時代の女性歌人、三十六歌仙の一人)
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

万葉集 丹比真人の歌にも難波潟がでてきます。
難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子ども 汝が名告らさめ

学生時代にこうした歌を知った時は、現在の海岸線の延長上で難波潟を想像していました。
しかし大阪湾はかつて現在のような海岸線ではなかったのです。
上町台地は半島のように突き出して、東側は生駒山脈の手前まで内海でした。
その内海にかつての淀川と大和川が流れ込んでいたので、土砂が堆積し河内潟としての面積が増えていき、同時に淡水化がすすみ河内湖となっていく。
内海と外海の潮の干潮が激しかったため、「なみはや」「難波」の語源のもとになったそうだ。  

    
頻繁に洪水を起すので、仁徳天皇が上町台地の先のほうに堀江運河を掘削したと伝えれられます。
大川は最古の人工河川との説が有力で、東に広がる河内湖の水を海に逃がしたものであろうとされています。

現在の大阪城があるところ、そこは古代難波宮があり、前方後円墳があったとも言われています。
淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点であると同時に、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。

 

そして時代は下り室町末期、
その地に蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、それが後の石山本願寺となります。
一向一揆の総本山となった石山本願寺は、織田信長が11年間もの間苦戦した堅牢な「仏法の城」でした。   

大阪城天守閣蔵「石山合戦配置図」
よく判別できないけれど、このあたりが水路だらけだったことがよくわかります。

1578年(天正6年)本願寺に物資補給する毛利水軍を、織田の九鬼水軍が大砲三門を備えた鉄甲船で撃退し、大阪湾の制海権を握る。
このように石山合戦は11年間にわたって攻防戦を繰り返しましたた。
信長は安土城の次には石山に城を築こうと考えていたなどとも言われています。

古代の難波宮や古墳の石垣は築城にずいぶん役に立ったことでしょう。